真夜中の電話
16
洵から電話がかかってきたのは、雪乃が布団に入りうつらうつらし始めたときだった。携帯の液晶表示板に洵の名前が浮き彫りにされている。
「雪乃、春香ちゃんに分かってもらおうと努力したんだが、だめだった。聞き入れてもらえなかったよ。君の大切な娘を傷つけたくなかったんだが・・・」
雪乃は布団の上に正座した。闇の中で聞く洵の沈んだ声は雪乃を物憂い気分にさせた。
「私は娘達に自分の道は自分で選ぶように常々言ってきたわ。どんな結果になるか分からないことを選ぶのは怖いことだと思う。今でも私は怖いことがあるわ。それでも自分で選んだ生き方なら、どんな結果が出ても納得しやすいんじゃないかな」
「君は本当にそれでいいのかい」洵の不安そうだった声が和らいだ。
雪乃は縁側へ出た。甘い樹木の香りが庭を満たしている。熱い大気がしっとりと体にまつわりつく。
「傷つくのを恐れていては恋はできない。恋はしないよりした方がいいと、学生時代あなたは私に言ったわ。覚えてる?」
しばらく沈黙があった後ため息交じりの洵の声が耳に伝わってきた。
「ああ。僕は青臭くて、理想にだけ生き、現実を無視していたころだ。なんだか笑えてくるね」そういいながら今夜春香が言っていた同じことを、青臭いが信じられる彼女の真摯な眼差しを思い出した。
「私は一歩踏み出すことがいつも怖かった。だからあなたから言われたことを心にしっかり留めておいた。あなたは自分が選んだ道を後悔してるの」
雪乃が通話が切れたのかと携帯の液晶版を見ようとしたとき「後悔してるかもしれない」とためらいがちな答えが返ってきた。
「でも君は後悔してないんだね。うらやましいよ」
寂しげなしかしちょっと棘のあるひびきが、学生時代の洵を思いださせた。
「後悔がない人生なんてありえないと思うけど」
「そうか。そうだよな。ただ他の誰かも後悔のある人生があるって聞くと、なんだか気が休まるって言うか。最近の僕はどうかしてる。年のせいで気が弱くなったのかな」
「それは私も同じよ。でも過ちや後悔は別の道を選ぶための羅針盤だと私は思っている」
「君はすごいね。そんなに強い人だったなんて知らなかった」
「強くはないわ。そういう風に思わなかったら生きられなかったから」
「そうか。ごめん。君のこと何にも知らないんだよね。僕ばかり愚痴ちゃって。春香ちゃんのこともなんの役にも立っていないし」
「いいのよ。親が立ち入れることには限界があるわ。あの子が選ぶ道ならそうさせてやりたい。恋をしたり人を好きになるって、やっぱり素敵なことだと思う。私今でも少女趣味なの」
「そうか。僕はきっとそういう君が好きだったんだ。何か一途で、静かだけどどこか深いところで強い滾る力を持っている・・・春香ちゃん君に似ているね」
「そうかな。あの子は現実を大切にして今を生きているけど、私があの子の年頃には現実逃避をすることで自分を保っていたから」
「僕もそうだった。怖いこと、危ないことは避けて、安全な生きやすい生き方を僕は選んだ。だけどおかしなことに僕が安全だと思った道は、安全などころかでこぼこだらけで曲がりくねった未開発の厳しい道だった」
「そうかもしれないわね。自分でそう思っているのなら」私ちょっと皮肉っぽくなっていった。最近洵の弱いところばかりを見せられて悲しかった。人だから強くなくてもいい。弱いところがいっぱいあってもいい。愚痴るのもかまわない。でも洵の声や話が今夜は雪乃をいらいらさせた。
「そろそろ電話切ったほうがいいね。君を起こしてしまったんだろ」
「春香のこと心配してくれてありがとう¬¬。でも春香には春香の人生があり、それがもしかして絶望への道に繋がっているとしても、俊君にどんな形にせよ出会えたこと、春香は良かったと思うと思う」
「確かに君は正しいと思う。春香ちゃんのこと。僕が傷つくと分かっている恋でもどうしてした方がいいかと聞いたら、恋は駆け引きがなく純粋な心から生まれるものだからと答えたよ。君は素敵な娘を持ったね」
「ありがとう。愛は人を強くもさせるから」とまた嫌味な調子になってそのまま電話を切った。
電話を切った後私はすぐに後悔した。心配をしてくれている洵を冷たくあしらってしまった。確かに今の洵は私以¬¬¬¬上に苦労をしているし、苦労をしてきたのかもしれない。でも昔の彼ならそんな事を盾にはしなかった。彼にはもっとプライドがあった。彼のうじうじしたちょうしの話を聞くのは悲しかった。
毅然として、決断力があり、泣き言があったとしても表に出すことはなく、クールで聡明。それは若かった私たちにとって、今思えば明らかにヴァーチュアルな世界に過ぎなかった。理想と現実の見分けがつかないおとぎ話の世界。
春香も今その世界にいる。純粋さと誠実さが何よりも力がある。そう信じられる世界。
その世界は私の心を豊かにした。あらゆる汚染に人生をさらさなければならないときも、心の深いところで、いつまでも人は純粋さ誠実さを宝石のように隠し持っている。
私も確かに変わった。時間が、経験が、環境が私を変えた。洵が同じように変わったとしてもそれは当たり前のことだ。私はすっかり目が覚めてしまった冴えた頭で考えた。