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杜の都  作者: 武田道子
15/18

春香の告白

15

 「春香ちゃん・・だね」

 洵は俊のベットわきに座りノートパソコンを操作している春香を数分廊下に立って見ていた。ノートパソコンからはフレンチホルンの曲が静かに流れている。深く透明な音が部屋にみなぎり、柔らかな照明が明るすぎず、暗すぎず二人を包んでいる。

 春香はノートパソコンから顔を上げた。彼女の名前を呼んだ人が誰だか分かると、にっこりと微笑み椅子から腰を上げた。

 「俊君のお父様ですね。はじめまして」春香はお辞儀をした。はっきりと通る声だ。

 「よく分かったね。無論ここに見舞いに来る者はそんなにいないけどね」

 「勇君が自分はお母さん似で、俊君はお父さん似だと言ってました。俊君、本当にお父様そっくりです」

 春香の瞳は温かさで満ちていた。翳りも恐れもこだわりもないさわやかな光だけがきらきらとしている。

 洵はその光に負けそうになった。俊が普通の男なら・・・

 「あの、私ロビーにいますから」

 「いや、君もいてくれていいんだよ」

 「いえ、せっかくお父様が来てくださったのですから、俊君も二人でいたいと思います。音楽はこのままでいいですか」 

 「ああ。いい曲だね」

 「私ホルンの音が好き以外は何も知らなかったので、俊君のすきそうな曲をネットで調べて集めてるんです」

 「そうか。これは懐かしい曲だな。白鳥、サンサーンスの。高校の学園祭でソロやったんだ。一時は大学も音楽科に入ろうなんて思ったこともあったけどね。それよりか書くほうが好きだったし、ホルンで自立できるほどの才能がないことも分かっていたしね。俊が幼稚園の頃かな。僕のホルンを見つけて、遊びに吹き方を教えたらはまっちゃって」

 洵の顔が辛そうに歪んだのを春香は見た。

 「私コーヒー買ってきます」春香は胸がいっぱいになり、廊下へ出た。

 自動販売機で缶コーヒーを二つ買って、憩いの場の暖炉の前に座った。ゆらゆらと熱のない炎が揺れている。最初勇君と「明生」へ来たときも暖炉など要らない季節だった。勇が言うには、「明るく生きる、灯りのある生命。ここに来る人、家族、友人が憩え、どんな形でもこの世に存在している人には明かりがあるという、「明生」の信念だと話してくれた。炎を見ているだけで、心のうちが温かくなる。目をつぶると瞼の内にもオレンジ色の光を感じた。俊君のことを思う。彼の光が消えてはいないことを私は知っている。彼には私の声が聞こえている。彼の手を握ると暖かな感じが伝わってくる。ほんの一瞬僅かにだが手を握り返してくることも春香は最近気づいていた。彼の声が聞きたい。


 「春香ちゃん」

 肩に手が触れるのを春香は感じた。ゆっくりと目を開き、見上げると俊がウェーブのかかった黒い髪を掻きあげながら笑って春香を見下ろしている。

 「俊君・・・目・・覚めた?」

 「うん。君があんまり呼ぶから、もうずっと寝ていられなくなった」

 温かな優しい目が春香をまっすぐ見つめ笑っている。

 「私の声が聞こえて良かった」

 「ホルンの曲がいつも遠くから聞こえてくるんだ。僕は演奏者が見たくて音のする方へ歩くんだ。でも歩いても歩いてもたどり着けないんだ。でも音は少しづつ高くなってもうそばまで来ているような気がするんだけど、もやもやとした雲か霧が邪魔をしていて見えないんだ。そこまで近づくと君の声が聞こえてくる。君の話をもっと聞きたくて、もっとそばに行きたくて。お父さんやお母さんや勇に謝りたくて。身勝手にこんなに長い間眠ってしまったこと。泣くなよ」

 俊の長い細い指が春香の頬にかかる涙をぬぐった。

 「うん。指あったかい」

 「春香ちゃん」

 洵は春香の肩に手を置いた。ぐったりと眠っている。かがんでもう一度声をかけようと、春香の顔をのぞいて、洵は声を呑んだ。春香の濡れた頬が暖炉の光で光っている。ハンカチを出して拭いてやった。春香はびくともしない。洵は隣の椅子に腰を下ろした。

 雪乃はどこでもころっと簡単に寝た。帰りのバスでも、どこかに行ったときも、静かだなと思って見ると寝ていた。春香ちゃんも母親の血を引いたのか。可笑しかった。もう本当にずーっと昔のことで、この長い月日学生時代のことは思い出したこともなかった。俊のことがあり、今まで心も頭も俊のことでいっぱいだった。絶対に言い分けにはならないが、だから避けていた。人の力には限界がある。終わりがある。雪乃の娘まで傷つけたくない。まだ涙のあとが残っている春香の頬に暖炉の光が揺れる。

 こうして眠っている春香を見ていると、不思議な気持ちになる。人生は生きているだけでパンドラの箱のようだ。この娘のように一筋に自分も生きた、生きたいと思ったことがあったことが甦る。はっきりと生を意識して、哲学者にでもなったかのように真剣に考えたことがあった。気がつくと川の流れは緩やかになり、大きな海の近くまで来ている。この大海に流れいれば・・

 「あっ、私ツイうとうとしちゃったみたいです。すみません」

 春香は姿勢を正しながら髪を掻き揚げた。

 「僕も今ちょうど座ったところだ。せっかくぐっすり眠っていたから、僕もちょっと休もうかと思ってね」

 「コーヒーどうぞ」

 渡されたコーヒーはかすかに春香の手の温もりがした。

 「君の選んだ曲とてもいいね。僕が昔演奏したのや、俊が好きだった曲、どれも懐かしかった・・・」

 洵は暖炉の揺れる炎を見ながら缶コーヒーのタブを引っ張り、生暖かくなったアイスコーヒーを飲んだ。

 「ありがとうございます。私ここにこうして座っていること時々あるんです。時には誰かの家族や、患者さんもいることがあるんですけど、私が来るのはたいてい夜だから一人なんですけど。この熱くない炎を見ていて、ああ俊君の命のようだなって思うんです。今もここでうとうとしていて夢を見ていました。俊君が寝ている私を起こして言うんです。ホルンの音と君の声が聞こえたんだって。そして自分がこんなに長い間眠っていたこと、お父さんやお母さんや勇くんに謝りたいって。私、俊君は本当にそう思っているように思うんです。ただ何かがまだ俊君がはっきりと目覚めるのを妨げているだけだって」

 「俊は植物人間に等しい。この二三年、どういうわけか目は開くことがある。でも医学的、科学的に完全に目覚めて、君や僕のように普通に生きていくことはありえない。映画やテレビドラマならそういうこともあろうが、俊のことは現実として受け止めなければならない」

 洵は春香の目をまっすぐに見て言った。

 「僕や勇が毎日来れないから、君が僕らの代わりにこうして来てくれるのは、とても感謝しているんだよ。やっぱり僕らにはこうした俊を見るのは辛いしね」

 春香はまだ空けていない缶コーヒーを握り締めた。

 「おじ様のおっしゃっていること良く分かります。父が交通事故にあい、意識不明で十日ほど病院にいました。母は父には母の声が聞こえているのだと信じていました。ずっと病院にいて、話しかけ、父に付き添っていました。私たちはまだ小さかったので、母の代わりはできませんでした。でも亡くなるちょっと前目を開き、母にずっと輝いて生きてくれ。そうしたら遠いところからでもちゃんとその光が見えるからって話したそうです。母は毎日とても辛そうにしていました。私達の前では元気そうに装ってましたが、私には母の痛みが分かりました。でも私たちに後で言ったんです。ねっ、お父さんはやっぱり私達の話を聞いていたでしょ。私たちはお父さんが私たちを見失なわないようにちゃんと輝いて生きなきゃねって」 

 「君もお母さんもきらきらしているよ。天のお父さんからもちゃんと見えてると思う」

 「私もなんだかそういう気がします」

 春香は缶コーヒーのタブを引っ張った。

 洵は春香がコーヒーを飲むのを待ってそして言った。

 「君はもうここにはこないほうがいいとおもう。勇とは友達でいてほしい。でも俊のことは忘れたほうがいいと思う。勇と友達で俊のことは考えないでくれというのは無理かもしれないが、それでもここに来なければ、自然に忘れていける。君も勇から聞いてるだろう。母親のこと。愛しすぎると愛は過酷になることがある。僕たちの家庭は傷つき壊れたんだ。勇はいい若者に育ってくれてはいるが、あいつの心の奥底には傷がまだ開きっぱなしで膿んでいる」

 春香の心は揺れた。暖炉の火をじっと見つめて話す勇の父の顔は悲しさと辛さでいっぱいだった。春香は今までの人生でこんなに悲しそうな顔をしている人を見たことがなかった。愛することは過酷だと俊の父は言った。それを絵に描いたような俊の父の顔だった。

 「お話は分かりました」春香は静かに言った。洵の表情が少し和らいだ。

 「よかった」

 安堵のため息とも声とも分からないような言葉が洵の口からこぼれた。

 「おじ様のお気持ちや私へのご心配良く分かります。最近私もずっと考えていました。私自身の気持ちのこと。哀れみや同情で人を好きになっても長続きしないって。でもそうじゃないんです。はっきり言って自分でも理由は分かりません。ただ強く惹かれてそばにいたいんです。私が。俊君との出会いは一方的な出会いです。でも私にとっては、一生に一度の出会いです。バスや電車の中での出会いはほとんどがすれ違いに終るなか、俊君との出会いはパーソナルなものです。この出会いを大切にしたいんです」

 洵は春香の真剣に光る眼を見た。どうしたものかと心が疼いた。真っ直ぐな純真な心が、彼女の顔を厳かにさえしている。しっかりと自分を見つめて生きている、生きていこうとしている強い力が読み取れた。

 「深く傷つくと知っていてもかい」

 迷いのない答えがただ一つ即座にかえってきた。

 「はい。傷つかない恋は¬¬ないと思っています。傷ついても恋はしないよりした方がいいと・・・・・すみません、生意気なことを言ってしまいました」

 「どうしてみすみす傷つくと分かる恋でもしないよりした方がいいと思うんだい」 

 春香はちろちろと揺れる暖炉の火に数秒目をおとしたあと、洵の目をしっかりと見つめ、一言一言ゆっくりと噛みしめるように言った。

 「恋は駆け引きがなく純粋な心から生まれるからです」洵の脳裏に雪乃が言った同じ言葉が木霊のように響いた。そして自分が同じことを言った遠い昔の思い出が子どものときに飲んだ液体の薬のように、甘く苦く広がった。

 「報われることは望まないの」洵は少し意地悪な質問だと思いながらも、春香の淀みのない目を見返して問うた。

 「報われれば嬉しいです。でも恋は最初から一方的なものだと思います。私勇君が好きです。でも俊君に出会って分かったんです。好きにも違いがあるということが。変なんです。私。俊君は何にも話さないのに、そばにいたくて仕方がないんです。俊君が私がそばにいることを知っていてくれているのが分かるんです。説明はできないんですが」

 もうしばらく感じたことも、考えたことも、そういう気持ちの存在があったこともすっかり洵の人生からは失われていた。だからそんな春香の恋の定義はとても新鮮だった。

 現実だけを直視し、その現実に何とか直面することだけで、今の自分は年をとってきたような気がする。雪乃に再開し、自分の青春時代があったことを思い出した矢先だった。春香は雪の中から突然花開く太陽からこぼれ落ちたクロッカスの花のようにみえた。もしかして俊は目覚めて普通の人生がおくれるのではないかと夢のような希望が一瞬脳裏を掠めた。

 「もう五年以上も寝たきりなんだ。信じたいよ。僕も君のように。でも僕はもう現実的にだけしか物を考えられない。医学的に何か特別な新しい治療法でも発見されれば別だが。だから分かってほしい。お願いだ」

 低くうなだれた洵の頭が震えている。春香は立ち上がり洵の後ろから両腕を回した。


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