夏の温泉と月影
13
青々と茂った欅が、さらさらと私の上に降り注ぐと、私自身緑に染まってしまいそうだ。昔私は同じように青々と茂る欅の下で、洵とよく待ち合わせをしたものだった。私はいつも待たされた。腹を立てても、彼の姿が見えると、いつの間にか怒っていた気持ちはきれいにご破算になった。腹立ちや怒りの大波は、潮が引くように消えていった。そうだ。私は恋をしていたのだ。今の春香のように。
わたしの目に見えていたものはたった一つ、『光』だった。私の一日を確実に照らしてくれている、この上なく眩い光。私だけを照らしている光。その光が私が光れる根源だと信じていた。
ちらちらと光が欅の葉の間から零れ落ちて、見上げた私の顔にふりそそぐ。
今は何かがちょっと違う。そして私は気がついた。こんなにも年月が経ったあとで。このさんざめく光の雨は、目の前を行くすべての人びとの上に、同じように限りなくふりそそいでいるということに。そしてあの時も、私にだけふりそそいでいると思っていた光は、本当は自由に何かに妨害されたり束縛されることなく輝いていただけなのだ。愚かにも私は自分が輝き、自分の輝きがあたりを、洵を照らしているのだと思い違いをしていた。その思い違いで私は勝手に傷つき、逃げるようにアメリカへ行った。私は光があるうちはその光を反射することで光っていられたが、自ら光ることを知らなかった。自ら光らない石はただの砂利石に過ぎない。春香は違う。今のあの子はたくましく光っている。春香は何億万光年も遠いところへ全身全霊で光を送っている。私は彼女の真剣で曇りのない眼差しを思った。
「雪乃、雪乃」
バスが熱い排気ガスを巻き上げて通り過ぎ、うっそうとした欅の葉を波立たせ、こぼれる光を錯乱させた。熱と光の渦の中、私は名前を呼ばれたほうへ顔を向けた。よれよれと揺れる陽炎の向うで、洵がまぶしそうに片手をあげた。
「待った?」
「待たされることには慣れてるわ」
「えっ、だれに。編集者?」
「あなたによ」
「君がこっちに来て、今日初めて会うんだけど。春に来たとき待たせた?」
二十五年も前の些細なことなど洵が覚えているわけもない。私にとっての二十五年のほうが、彼の二十五年より遥かに穏やかだったのだから。
「ううん。冗談。それより日本はやっぱり暑い」
「そうか。君の住んでるところは海あり、湖あり、山ありで最高なところなんだろ」
「そうね。自然公園みたい。一年を通して、屋外スポーツが人気があるわ」
「いやあー。ここに立っていると本当に暑い。すまなかったね待たせて。どっかで冷たいものでも飲もうか。杜の都に行ってもいいけど、ここからならちょっと時間がかかるから車で行こう」
「あのね、行きたいところがあるの」
「そう。どこ?」
「ちょっと暑いときにどうかとも思うんだけど・・・」
「なに、どこ?」
「番町ラーメン」
「えっ、番町ラーメン? そうか、僕たち暑いのによく行ったよね」
「おぼえてた?」
「ああ。楽しかったことは覚えてるよ」
「私も。色気より食い気なんてよく言われたもの」
「君がアメリカに帰ってから一度も行ってなかったな」
洵は額に細い指を当ててうっすらとにじんだ汗をぬぐった。
「それじゃあ、付き合ってくれる?」
「汗だくになるよ。それでもよければ」
「覚悟はできてるわ」
私は無性に熱いラーメンが食べたかった。冷房もあまり効いていないラーメン屋で、汗を流して、胸のそこでぐじぐじしているものを、汗と一緒に流してしまいたかった。私は洵が本当に好きだったのだ。だからそれは洵といっしょにいるときにのみ完成する。
数ヶ月ぶりに入った番町ラーメンは、やはり昼過ぎだというのに込んでいた。
「いらっしゃーい!」と元気な声が懐かしく迎えてくれた。麺をざるに上げながら、ひょいと顔を上げて私たちを見た義男さんは「おおー」と言う驚きと喜びの声を上げた。
「おお、おお、おお、さっぱりいらっしゃらないがら、もう家のラーメンに飽きてしま
ったがと思ってましたよ」
義男さんの軽い東北訛りとイントネーションは何とも温かい。この話し声を聞くだけで、温かいものが私の心を満たす。
「雪乃さんがアメリカに帰ってから、僕もプロジェクトがあって、忙しかったんだ」
「そんならまあ、勘弁してあげますけどね」
「プロジェクトのこと私も聞いてないけど」
「そうだった?」
「洵さんはメールもめったに送ってくれないし、たまにくるメールは用件のみなんですよ」
「ははは、洵さんらしいね。仕事もプライベートも外には一切持ち出さない」
「そんなわけじゃないけど、他の人が聞いてもつまんないじゃない」
「久しぶりですけど、いつもので?」
氷がからからなる汗をかいたガラスのコップを私たちの前において、義男さんが言った。
「はい、お願いします。洵さんは?」
「僕もいつもの」
汗をかかないように、氷水をがぶがぶ飲んだが、やっぱり汗をたっぷりかいた。けれど気分は最高といってもいい。さっき感じた昔の自分へのこだわりは、汗と一緒に流れ出て行ったようだ。熱のようにじわっと浮き上がってきた過去は、やはり遠い昔のことだった。
「いやあ、君のおかげですっかり汗をかいちゃったよ。今日は車があるから、温泉にでも行って、汗を流そうか」
「温泉?」
「嫌いか?」
「好きだけど・・・」
「時々行くんだ。温泉に入って、夕食を食べて、ゆっくりしても遅くなる前に帰れるよ」
「そう・・・ならいいけど」
「てっ、気にした?」
「な、何を?」心臓が一拍飛び上がった。
「温泉に行こうなんて、誤解されるようなことかもね」
「そんなんじゃないけど」顔が火照る。もうこのラーメンのおかげで赤い顔をしているので、へんに顔色が変わったところが見られなくて安堵する。
洵は私の顔を見つめ、目じりにしわを寄せて言った。
「下心をもつほどもう若くないよ。君は僕の数少ない大切な友達だ。夏の温泉ってあんがいいいんだ。熱い温泉に入って汗を流すと、すがすがしい気分になる。そして何よりも緑が滴るように美しい。豪勢なリゾートじゃなくて、昔ながらの温泉で、親戚がやっているんだ。おじはその辺のお闊歩なんかよりも、ずっとおいしい食事を作ってくれる。どう、行きたくなった?」
「ええ。温泉もおいしい食べ物も大好きよ。温泉にはもう何年も行ってないけど」
「それじゃ、決定だ」
仙台市内を離れると、森の都と言われる仙台の街以上に、辺りの緑は濃くなる。
「ワシントン州も緑が多くて、エヴァグリーンステーツと呼ばれているのよ」
私はぐんぐんと視界に迫ってくる緑に魅せられて言った。
「僕もこの緑が見たくてね、夏には数度こっちのほうにドライブするんだ」
それからしばらく私たちは何も話さず、緑の中に溶け込んでいく自分達を感じていた。昔彼が送ってくれたゲーテの詩の一行を私はふと思い出していた。「物言わず、物思わず、愛の実が心に湧いて」
むかーし昔のこと。
温泉宿は大正風であたりの高層リゾートホテルとは違い、しっとりと落ち着いて、鏡石に打たれた水が涼しげだ。大旅館のように大げさなスタッフ全員のお迎えもなく、一人年のいった番頭さんが、ニコニコ迎えてくれた。
「よっぐ来てくれだごと。おぼっちゃん暑がったでしょ。お友達も一緒で。よがった、よがった。じゃあ、こぢらへ」
「ああ、それじゃ宜しく」
洵はきまり悪そうに、私をチラッと見て言った。
「お坊ちゃん・・・」
「いい年してだろ?」
「そんなことはないけど、あなたがお坊ちゃんなんて呼ばれること知らなかったし、
始めて聞いたから」
「とめさんだけさ、僕をああ呼ぶのは」
「とめさん・・もなんだか時代劇に出てくるような名前ね」
「本名は留義。いい名だろ。ずっと昔、おじがまだ三、四才ごろだった。僕の大叔父、つまりおじの父になる人が近所の旅館が大火事になって両親も何もかもなくして孤児になったとめさんを引き取って以来、ずっとここに住んでいるんだ。おじと兄弟のように育ったんだ。おじが旅館を継ぎたいと言ったとき、自分も旅館で働きたいと望んだそうだ。大学に行ってなんでも好きな仕事をしてもいいんだと大叔父は話したそうだけど、自分は両親を旅館で亡くしたし、親が生きていて旅館があったら、自分もあとを継いだと思うって。おじの最良の右腕だよ」
「そうお。いいお話ね。大叔父さんもおじさんもすごく暖かくて、肝っ玉が太い人なのね」
「僕もおじの家で半分は育ったって言ってもいいな。僕父と折り合いが悪かったんでね、おじの家に逃げてきたのさ」
ぴかぴかに磨かれた板の廊下に窓の外の緑が濡れて映っている。開いた窓から渓谷を流れる水の音が涼しい。その音を聞いているだけで、汗がさーっとひいていく。
頭の中にも涼風が吹く。頭の中を私の知らなかった洵の話してくれた世界がぐるぐる回る。二十五年前の、それよりずっと以前の彼の人生。
まだ時間も早かったせいか、露天湯に入っているのは私だけだった。水の流れる音、カッコウ、名前も知らない鳥のさえずり、熱い湯、脳みそも体も溶けてしまう。
こうして湯に浸かっていると、自分が人間であることを忘れてしまう。魂が体から抜け出していくのを感じる。体が軽くなる。水の流れる音、カッコウ、鳥のさえずりが、体の外からではなく、内から聞こえてくる。目をつぶると自分が一帯どこにいるのか定かではなくなる。心地よい気持ちが膨らんだ風船のように魂を浮かばせる。自分が川の流れになり、鳥の鳴き声になったのか、それとも自分が川の音や小鳥の鳴き声を伝達できる空気になったのか。もし天国があるとしたら、きっとそれは確固とした場所ではなく、こういうことではないだろうか。
のりの利いた浴衣を着ると、すっかりくつろいだ気分になった。汗も昔のこだわりも、何もかも温泉の湯がきれいに洗い流してくれた。
洵はここで魂の蘇生をするのだろう。
「帰る前にちょっと歩こうか。散歩道があるんだ」
おじさんととめさんに御礼とお別れをして、玄関を出ると洵が言った。
洵の声が幾分沈んでいるように聞こえた。食事が済み、夕涼みをする泊まり客達が、浴衣姿でそぞろ歩きをしている。
点々と足元を照らすソーラーガーデンライトが、星を鏤めたかのように川沿いの散歩道を照らす。
「この前久しぶりに、俊のところに行ったんだ」
川の流れの音が高く、よく聞き取れないので、私は洵のほうに少し歩み寄った。
「春香ちゃんが見舞いに来てくれていた」
「あぁそうだったの。春香から何も聞いてなかったけど。忘れたのかしら」
「春香ちゃんは僕に会ってない。とってもいい看病振りだったんで・・・部屋に入るのがはばかれた」
「そんな。忙しい時間を裂いてせっかく行ったのに」
「もし俊が何もかも分かるんだったら、僕が見舞うより春香ちゃんのような子に見舞ってもらったほうがずっと良いに決まってる」 白いしぶきを上げながら流れる川を見下ろしている洵の横顔は夜の影のせいではなく、暗かった。
「どうかした?」
「聞いたんだ。春香ちゃんが俊に話しているところを」
「そう。それで部屋に入りづらかったのね」
「まあ。そういうことになるかな」
私はガーデンライトの周りを、はたはたと無意味に飛んでいる蛾を見ながら、洵が何を言いたいのだろうかと考えていた。
「若い人のことで君に告げ口するようで心苦しいんだけど・・もし俊が普通の青年だったら僕は口出ししたりなんかしないよ。でも君の大切なお嬢さんのことだから」
「春香は俊君を愛してる。そうじゃない?」
「えっ、知ってたの?」
洵は私の顔をまじまじと見た。
「春香が断言したわけではないけれど、あの子の気持ちに間違いがないってことは知ってる」
「君、何か言ってやったんだろう、もちろん。春香ちゃんが深く傷つく前に」
「特別何も」
「なんだ君らしくないじゃないか。いつも冷静に物を判断できる君だ。俊には何も望めない。君も十分知っているだろう。愛と同情とは違うんだ」
「春香は俊君に同情心は持ってないわ。最初は持っていたのかもしれないけど、今は違う。一方通行の恋だとも知ってる。でも俊君の一パーセントの可能性を信じているの。そう私に話してた」
「そんな無謀な。若い女の子の夢物語に同意しているんなんて考えられないよ」
洵は私からすっと離れて先をずんずん歩き出した。その後を少し距離を隔てて私は追った。洵は橋の上で止まった。水の上には白い満月が泣いたように歪んで浮いている。
「私が前に言ったことがあるの。百パーセントも一パーセントも可能性には変わりないって」
私は洵の隣に立ち、空に浮かぶ満月を見上げた。
「そんな無茶な考えがあるわけないだろ」
「俊君ときどき目を開けるって聞いたわ」
「それが可能性に結びつくとは思えない」
「これも、春香に言ったことだけど、死んでしまった人には奇跡は起こらないけど、生きている人には起こるかもしれない」
「失うことのほうが多いいし、その悲しみは大きいんじゃないか」
「そうかもしれない。でも恋をするほうが、しないよりいいし、恋をしなかったよりした方がずっといいって、あなたが私に言ったのよ。学生のとき」
「月が川と一緒に流れそうで流れないね」
洵は白く光る川面の歪んだ月を指差して言った。
「僕も随分と青くさいこと言ったんだ」
洵はフンと鼻先で笑った。
「この月が世界中どこからでも見えるなんて不思議よね。ロミオとジュリエットで、二人が愛を誓うとき、月は形が変わるから月には誓わないって台詞覚えてる?」
「ああ」
「こうしてどこからでも見える月に誓ったほうが、揺れる人の心より信じられそうじゃない」
「君は今でも突然おもしろいこと言うんだね。僕は本当に春香ちゃんのこと心配なんだ。そりゃ奇跡が起こればいいと思う。でも一パーセントの確率はかなり低い、と言うか科学的にも非科学的にも可能性には程遠い。俊には幸せになり、幸せを感じることは不可能だ。でも春香ちゃんには可能だし、是非そうできない人の分までも幸せになってほしいと思う」
「他から完璧に見えることが本人にとって幸せに通じるとは限らないわ。月が形を変えることはないけど人の心は変わる。いい意味でも悪い意味でもね。春香の幸せは私の幸せでもあるけど、自分で納得の行く生き方をしなければ、本当の幸せは分からない。私としては、あの子の人生はあの子に任せたい思ってる。人を本当に好きになるっていいことよ
。特にまっすぐな気持ちで、駆け引きとかなくね」
「雪乃は変わったね。いい意味でだよ。随分と開けた考えを持つようになった。春香ちゃんも君の寛大なサポートもありがたいと思う。特に俊のような状況にある子のために。でも僕はやはり、春香ちゃんはもう見舞いには来ない方がいいと思う。正直僕が辛いんだ」
私は洵がそのように言うかもしれないとあらかた予想していたように思う。それでも二人の気持ちを思うと胃がきりきり痛んだ。
「誰か毎日行けるの?」
「毎日行かなくても、介護人がいるし、勇と僕がなるべく行くようにする」
「誰が行っても同じってことね」
「そうだな。俊の側からすれば。だが見舞いに行く側は傷つく。あれっ、いつの間にか月は流れて行ってしまった」
洵は暗い川の流れを見ながらため息をついた。私は空を見上げた。月は玲瓏と輝いて私たちを見下ろしている。
ついさっきまで、心も体もすっかり休まり、久しぶりの温泉や美しくおいしい食事に幸せを感じていたのに、あっさりと現実の世界に連れ戻された。洵との川べりでの会話は、帰りの車の中に重い空気をもたらした。
沈黙にも二通りある。行きと帰りの沈黙は昼と夜のように違い、チラッと盗み見た洵の横顔は蠟のように硬く私の心はざわざわと揺れた。