春香の恋
12
まだ梅雨は明けていなかったのだと、しとしとと降り続く雨に、うっとうしく思い始めた頃、珍しく春香と若菜が訪ねてきた。
「雨降ってるのに暑いね」
春香は厚く長い髪の束を丸めて、頭のてっぺんに髷った。
「お母さん、麦茶ある?」
「あるわよ」
「ああー良かった。ご飯は?」
「あるけど」
「お姉ちゃん、お茶付け食べよう」
「それが目的で来たの?」
「まあね。デパ地下でお漬物とお惣菜買ってきたから、お母さんもいっしょにお昼食べるでしょ」
若菜はいそいそとキッチンへたった。
「それで、二人で楽しくやってた?」
「うん」
「どうかした?」
「どうもしないけど」
「そう? 夏ばてかな?」
「大丈夫よ」
「ならいいけど」
いつもの春香はもっと生き生きとしている。親の私には、娘たちの少しの変化もすぐに分かる。だが若い者には若い者の世界がある。それは親とは関係なく、また関係したくもなく、関係されたくもない自分たちだけの神聖な世界。気になってもそっとしておかなければならない。
「お母さん、お姉ちゃん、お昼用意できたよ。食べよう」
若菜の元気のいい声が呼ぶ。
狭いキッチンテーブルの上は七種類の漬物でいっぱいで、かろうじてそれぞれの茶碗と箸が隅のほうに置かれている。
「若菜、確かお漬物とお惣菜って言わなかった? お惣菜は何を買ったの?」
「あれ、お漬物だけ?」
テーブルを見下ろして春香も言った。
「お漬物の種類がすごくあって、どれもおいしそうだったから、お惣菜は買わなかった」
「やっぱり血は争えないわね。半分だとしても」
「何それ」
若菜はちょっと不満げに口を曲げた。
「食べたくなければ食べなくてもいいよ。これはみーんな私のお金で買ったんだから」
「食べるよ、もちろん。それじゃあ、いただきます」
春香が箸を取って手を合わせる。
「それじゃあ、いただきます。お漬物でもこれだけあれば、かなり贅沢よね」
「ねっ。良かったでしょ。それにお茶付けにはお漬物って決まってるじゃない」
機嫌が直った若菜は食事をしながらこの一週間の出来事をいろいろ話してくれた。といってもだいたいが二人で行った気の遠くなりそうなほどの数の洋品店の話で、店のインテリアからそこで見つけた掘り出し物やバーゲン。安くておいしいケーキ屋さん、青空市場で安くしてもらった串刺しにして焼いた魚やお惣菜がおいしかったこと。この町に住んでいる人が普段行くところ。生活があり、町の心臓に当たるところ。観光地ではない所に若菜は心を惹かれたのだ。
「でも春香、バイトとか大丈夫なの? 若菜だってたまには一人で行動してもいいんじゃない」
「お姉ちゃんはいつも夜は俊君のところに行くから、私は一人だよ。お姉ちゃんがバイトのときは自由行動。仙台の街は分かりやすいから一人でぶらぶら歩けるし、夜だって安全。一人のほうがいろいろおもしろい写真も取れるし」
「携帯と市内地図を持って、一人であっちこっち行って、変わったお店から小物とか買ってくるのよ。若菜が冒険好きだなんて知らなかった。それに若菜の撮る写真変わってて、すごくいいよ。人とか夜の写真はすっごくいいと思う。お母さんにも見せたら」
「うん。あとで整理したらね。私地図を見ながらぶらぶら歩くの好きなの。一人で春香のアパートでぼんやりしてたって、時間の無駄だしつまんないじゃない。なんだか宝探しみたいで楽しいよ。勇君が案内してくれるって言ったけど、一人の方が気楽でいいもん」
若菜は二杯目のご飯にたっぷりと麦茶をかけながら言った。
「それにしても、暑いのに食欲旺盛ね」
「暑いには暑いけど、なんだか自然に汗をかくって、健康的だと思わない。シアトルだとほとんど汗なんてかくことないでしょ。汗をかいたあと、お姉ちゃんのアパートの小さなお風呂に入ると、気持ちいいんだよね。小さくても日本のお風呂っていいね」
「なんだかずいぶん年寄りっぽいことを言うのね。でもね、お母さんも同じこと思ってた。自然に汗をかくって健康的だなって」
「これも血?」
春香が茶々を入れる。
「血も血で、とてもいい血じゃない」
「まあ、とにかくシャワーかお風呂だけ欠かさなければね」
春香が続ける。
「それで今日は? お昼を食べに来ただけ」
私は若菜がおいしそうにお茶漬けをすするのを微笑ましく思いながら話題を変えた。
「お姉ちゃんがお母さんに電話もしてないし、しばらく会ってないから行こうって言うから」
「若菜はどうでも良かったんだ」
ふざけて言うとむきになって
「そんなことないよ。もちろん」と慌てていうところはまだまだ子供だ。こうした娘たちを見ていると私の心は和む。だがそのあとすぐに私の心は痛む。子供たちの健康に恵まれない親が身近にいることで。
「そういえば、勇君はどうしてるの?」
「元気よ。晩ご飯に一回呼ばれて、それから西公園と青葉城跡にいっしょに行った」
「そう。勇君料理が上手でしょ」
「うんお姉ちゃんより。あさりのパスタとグリーンサラダだったけど、とてもおいしかった。確実にアメリカのイタリアンよりもずーっとね」
「悪かったわね。今度からもう作って上げないから」
「お姉ちゃんが作ったのはカレーでしょ。カレーなら誰でも作れるじゃない」
「でも私の作るカレーはちょう最高のカレーなの。おいしいおいしいって食べてたじゃない」
「分かった分かった。おいしかったよ。ちょう最高のカレー」
「あたりまえじゃん」
「日本に着いたばっかりでお腹も空いてたからね」と春香には聞こえないように言って、私のほうへ舌をぺろっと出して見せた。そんなことには気づかない春香はいかにも姉らしい。
「それじゃあこっちもフェアで。若菜のほうが私より料理が上手。私がバイトのときは晩ご飯作ってくれるもんね」
私は噴出しそうになるのをこらえる。
「そうなの。お母さんも知ってたわよ。若菜が料理が上手だって。私が忙しいとき、いつも料理してくれるもの。冷蔵庫にあるものだけで、独創的なおいしいものが作れるのよね」
「まあね。私食べること好きだから。で、ここは食べ物天国よね。食べたいものは何でもあるし、何を買っても、どのレストランに行ってもまずくて二度と食べたくないなんて食べ物にはまだお目にかかってないもの。もしかして、この夏はちょっと太るかも。でも良かった。お母さんの血で私たちは特大にはならないと思うから。せっかくだからおいしいものを十分に食べておかなくちゃ」
「どうぞどうぞ。小遣いのある限りお好きなように」
「バイトでお金貯めてたんだから。お金はあるよ」
「へーえ、バイトでお金貯めてたなんて偉いじゃん。私の高校のときより上出来」
「お母さん、なんか甘いものない?」
「えー、今度は甘いもの。うーん、なにもないわ」
「何もないの? なんだか寂しいね」
「甘いものって長持ちしないでしょ。それにいつでも新鮮なものが買えるし」
「私もなんか甘いもの食べたい」
春香も口を尖らせる。
「近くにおいしいお団子やさんがあって、蜜豆のお持ち帰りがあるけど」
「えっ、そうなの。冷たーい蜜豆! いい、いい。じゃあ、お姉ちゃん行こう」
「私も行かなきゃだめ?」
「あたりまえじゃん」
「私が洗い物しておくよ」
「それじゃあ、私が行って来る」
若菜はちょっとふくれながらもオーケーした。
「それじゃあ、お母さんが資金を出してあげる。じゃあお団子も買ってらっしゃい。今行くと出来たてでとってもおいしいのよ」
げんきんな若菜は、それを聞くといそいそと出て行った。
「じゃあ、私は洗い物をするから、お母さんは仕事続けたら」
「いいわ、せっかくあなた達が来てくれたんだから。今日は休憩」
「お母さんの仕事は進んでる?」
私は春香の顔を見た。そこには私の小さかった娘の姿はなかった。しっかりとした大人へ成長した顔が私を見ている。
「ええ、順調よ。編集者の言ったことは正しかったわ。ここでももちろん電話やメールを使うんだけど、やはり直にあって話しができるって言うことはプラスよ。本当のコミュニケーションていうのは、顔と顔を突き合わせてするのが一番ね」
「そうよね。私もそう思う。顔と顔を突き合わせることは、たとえ言葉がないとしても、コミュニケーションには欠かせないと思う」
「もしかして俊君とのことを言ってる?」
春香の白い透明な頬がさっとピンクのスプレーローズ色に染まった。けれども真剣なきらきら光る瞳が私をしっかり見つめている。
「お母さん・・・私俊君が好きみたい」
私にも春香が言おうとしている『好き』の意味が特別な意味であることは分かった。
「変なのよ。話もできなくて、何年も寝たっきりの人なのに、そばにいて本を読んであげたり、音楽を聴いたりしているだけで、私の心は穏やかで暖かくなるの」
「それって・・」
「待って、お母さん。同情とか哀れみじゃないわ。そんなんじゃない」
春香の声が少し震えた。
「好きにもいろいろあるわよね。同情や哀れみじゃなくて俊君に何かしてあげたいと思うのでしょう?」
「正直自分でも良くわかんない。でも何かしてあげたいと思うより、私が俊君のそばにいたいと思う気持ちのほうが強いかもしれない。私が彼に何もできないのは分かっている。でも俊君は私が今生きていることを意識させてくれたの。そして私が生きているのと同じように寝たっきりでも俊君は生きているということも。彼の手は冷たくないわ」
「コミュニケーションも恋愛も、一方通行では行き止まりになるんじゃない」
「お母さんがそんな普通の人と同じことを言うとは思わなかった。人を好きになるのに理由はないわ。私はただ俊君が好きなの。分かっている、完全に一方通行だってこと。分かっているんだけど・・でも違うの。ぜんぜん違うの。誰にもこんな気持ちを持ったことがないの」
このことが春香を春香らしくない雰囲気にさせていたのかと、私は娘の真剣に光る眼を見つめて思った。以前からの春香のメールで、私はこのようなことが起こりえる事が、予想できたのかもしれないが、私はただ春香が献身的に、勇君の代わりにお見舞いに通っていたと思っていた。寝たきりで、ほとんど意識があるかないような人への恋などは、私の想像を超えていたのだと思う。しかし春香は確かに恋をしている。ただその恋はブロマイド写真の人に恋をするようなものだ。春香の恋は芸能人へ対しての憧れとは違うが・・今は純真さゆえにただただ一途な気持ちでいるのだろう。私は言葉に詰まった。
「おかしいよね、私」
「おかしいことはないわよ」ととっさに返事はしたもののなんと考えてよいのか・・・
「言いたいことがあったら言っていいよ
」
春香はわたしの心のうちを見抜いたように言った。
「いつか俊君の意識が戻ると信じてる?」
「うん」
「そう」
「だってお母さん前から言ってたじゃない。一パーセントだけとしても、可能性には変わりないって」
「そうね。確かにそう言ったわ。お母さんも俊君の意識が完全に戻ればいいと願っている。そしてあなたたちと同じようにふつうの青春が過ごせたらいいと思ってるわ」
という私の返事に、春香の顔の緊張がほぐれていくのが目に見えて分かる。私は本当に心から思う。俊君のわずかの可能性、確立の少ない可能性が、転換することを。そうすればいろいろなことが変わる。数人の人生が変わる。それはきっと幸運をもたらすはずだから。
「人は可能性のある時限に生きているでしょ。ただ可能性には期限があって、この宇宙では『死』だけが可能性を持たない。キリスト教では神を信じる者は、永遠の命を与えられると言ってるけど永遠の命とは何だろう。今の次元を越して、死を超えて、永遠の命があるのかしら。『死』が永遠ではないのかと、私、最近考えるの。今目の前に息をしている人がいる。何に対しても、反応がない。でも私たちに本当に何が分かっているのだろうって。本当は俊君、私たちのこと見えていて、聞こえているのかもしれないじゃない。もしそうだとして、誰もそばにいず、愛していてもそれを伝えなかったら、どんなに寂しく辛いのではないかって思う。俊君は十七歳までは普通の男の子だった。誰かに恋をしたかも知れない。たくさんの夢を持っていたと思う。俊君の時間がとまったわけじゃない。現に髪も爪も伸びているのよ。一パーセントでも彼の脳のどこかが彼を生かしている。私は・・・私が・・どれだけ続けられるかわからないけど、そばにいたい」
春香はいてあげたいとは言わなかった。これだけの年月、俊君の状態はそれほど変わってないと聞く。ただこの二年ほど、ほんの時たま、目を開くようになった。と言うことは何か本当に可能性が出てきたと言うことなのだろうか。