マスターと放蕩父
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やっぱり暑い。夏の日本が、こんなに暑いことを忘れていた。じっとしていても、汗がにじむ。大きめの扇風機を、マスターが私のために特別用意してくれたことを、洵から聞いた。その扇風機をびゅんびゅんかけて、朝早いうちに仕事をするようにこころがけている。
春に来たときその美しさを満喫した桜は、今は青々とした緑でおおわれ、午後には縁側に緑り色の日陰を作ってくれる。そのうっそうと葉を茂らせた木のどこかで、蝉が鳴いている。
蝉の鳴き声と縁側。じっとしていてもじんわりと湧き出てくる汗。子供のころの夏休みを思い出す。こんな風に自然に汗をかいたのは、いったいいつだっただろう。べたべたした感じは気持ちが悪いはずなのに、健康的で良い。なんて、人様がそばにいないから言えること。ペットボトルのお茶は高いので、自分で麦茶を作った。やっぱりプラスチックのボトルに入っているのより、断然味がいい。
若菜は春香のアパートに泊まっている。小さいときから二人は気があって仲がよかった。私にはあまり連絡も来ないとこを見ると、気ままに楽しくやっているのだろう。今回若菜を連れて来たことは正解だった。
夫が逝ってから十年。
娘たちは小学生で、まだまだ親の力を必要としていた。自分の人生において大切な人を始めて失った。失うことは私を空っぽにした。空っぽで空気のようで、私は自分も夫のように、空にフワーッと簡単に吸い込まれていけると思った。けれども空っぽの心は、鉛のように重くて私を自由にはしてくれなかった。そして強い引力が私を日常に縛り付けた。夫との思い出の詰まった娘たち。鉛のような重い心と強い日常の引力は、娘たちをしっかりと私に結びつかせた。鉛の塊が少しづつ小さくなると、空っぽだった心の中が暖かなもので満たされていくようになった。空を見て幸せに感じたり、鳥のさえずりが耳に入ってくるようになったり、娘たちの日常の出来事に笑ったり、怒ったり普通にできるようになった。「ぼくの選んだ奥さんは、どんなときでも輝いてくれるよね。娘たちもお母さんが輝くのを見て、自分たちも輝いていけるように。そうしないとぼくが行くところから見えなくなってしまうから。」夫が最期に言った言葉だった。
十年が経った。娘たちは夫が願ったようにいい子でそれぞれ違った色で輝いている。夫との約束は果たせたようだ。
麦茶をたくさん作っておいて良かった。この日本の暑さは、麦茶なしでは突破できそうもない。午後二時に編集者と杜の都で待ち合わせている。一番丁のある喫茶店を指定されたが、気を使わずに長居できるし、なんていってもコーヒーがおいしい杜の都でと希望を述べた。マスターとは来た日にお礼を兼ねて会っただけだった。私は待ち合わせの時間よりずっと早めに家を出た。市バスは冷房が入っているはずなのに、ドアの開け閉めが頻繫で、かなりむっと暑かった。バスから降りると、じりじりと照りつける陽が、アスファルトに反射して、熱が上から下から容赦なく攻撃してくる。誰もがのらりのらりと日陰を選んで歩いている。私だけが急ぎ足で歩道橋を上り、目指す杜の都へ突進。
杜の都のドアを押すと、さーっと冷たい空気が私を迎えた。
「いらっしゃいませー」聞き覚えのあるマスターの声と同時に、入ってきた私を見たマスターは、「今日はまた格別暑いでしょう。いつ来られるかなって、ちょうど思ってたんですよ」
「本当に暑いですね。ご無沙汰していてすみません」
私はタオル地のハンカチを出して、顔の汗を拭いた。いい大人の女が顔中汗をかいているなんて、あまり見られたものではない。そういえばこの土地の人で、私のように汗びっしょりなんて姿をまだ見ていないと思いながら、すぐにハンカチをハンドバッグに戻した。
「アイスコーヒー、お願いします」
「はい、もうすぐできるところですよ。氷をたっぷり入れてね」と言いながらマスターは暑いお絞りを手渡してくれた。
「ああ、すみません。いつものように何でもすぐに分かるんですね」
「中には、暑いときでも熱いコーヒーを召し上がるお客さんがいますけどね、雪乃さんはアイスかなっと思って」
「ありがとうございます。いつも気遣って下さって。熱いお絞り気持ちがいいです」
「そう言ってもらえると僕も嬉しいな。おいしいコーヒーを入れて、お客さんに喜んでもらえるのが嬉しくてやってる仕事ですからね。今日は?」
「出版社の方と会うことになっているんです。指定されたところは普通の喫茶店だったので、おいしいコーヒーの店を紹介しますって、ここに」
「えっ、いいんですか。宣伝してもらって」
マスターは嬉しそうな顔をした。
「本当のことですから。そうだ、それいいですよね」
「えっ?」
「宣伝です。こんなおいしい本格的なコーヒーのお店、仙台広しそんなにはありませんよ」
「そうですか。僕が何で杜の都を始めたかと言う話ししてなかったですよね」
「いえ、まだ聞いてませんけど。何か謂れでもあるんですか」
「僕の学生の頃は、コーヒー専門店ていうのがなくて、どこの喫茶店に行っても、一応同じ味のコーヒーで、この上なくまずくて。かっこつけてブラックなんて飲むと、ただ苦いだけ」
「そうだったんですか」
砕かれた氷がグラスを傾けると、涼しげな音を立てた。アイスアメリカーノは、とてもさわやかだった。
「僕の父は浮浪者でね、旅行が大好きだったんですよ。外国に行っていろんな物を持って帰ってくるんです。お金もないのにね。あるとき南アメリカを旅行して、いろんなコーヒーを持って帰ってね。それがきっかけで喫茶店を始めることになったんです。当時はコーヒー専門店なんてなくて、それにコーヒーも当時の日本人の嗜好には合わなかったみたいでね。でも旅行で 持って帰った珍奇なものを店において、ちょっとしたブティックとあわせたので、店はまあまあだった」
「すごいお父さんですね」
「母はそれで随分苦労しましたけどね」
「今は?」
「ブラジルに住んでます。母が死んで、ブラジルに移民しました」
「えっ、そうなんですか」
「昔そうやって、家族をないがしろにして、好き勝手に旅行ばかりしている父を、よく思ってなかった。でもいつの間にかコーヒーが好きになって。そうでしょ。やっと学校に上がるころには、コーヒー飲んでたんですよ。良く思ってなかった反面、そういった父にあこがれてもいたのかな。好き勝手にどこにでも行って、見たいものを見て。みやげ物といったら、父にしかその良さが分からないような代物で。でも不思議なことに、父がその品について話すと、なんだかすごい宝物のような気がしてきた。だから店に来るお客さんは、喜んでお金を出して買っていったんですよ。僕は学校が引けた後クラブがないとき、週末は店を手伝わされてね。そうやって父の話に魅せられたっていうか、だまされたっていうか、父が旅行から持って帰った物を買っていく人たちを見るのがおかしくて」
「それでマスターもこの店を?」
「一応普通の会社員になるつもりで、大学にも行ったんだけれど、コーヒーのことが気になって。自分ならおいしいコーヒーを淹れられると自負した結果です」
「すごいいいお話ですね。だから杜の都はこういう雰囲気をかもし出し、最高のコーヒーが飲めるんですね」
「そんな。雪乃さんにかかると照れてしまいますよ」
「宣伝のほうどう思いますか?」
「ここは駅だから、客足は結構あるんですよ」
「客足のための宣伝ではないんです。コーヒーの専門家って言うか、コーヒーを一人一人のカスタムメイドで淹れてくれるお店です」
「それなら今流行りの、アメリカから進出してきた店があるから、どうかな」
「そうですけど、あのカスタムドリンクはドリンクで、コーヒーそのものを味わうわけではないでしょう」
「雪乃さんもやっぱりコーヒー通のほうですか。洵さんと同じようなことを言う」
「そうなんですか。大学時代彼はインスタントコーヒーを淹れるのでも、うるさかったんですよ」
「やっぱり」
マスターは声を出して笑った。
「洵さんは、なんだかとっつきにくそうで、へんに生真面目な感じの人だったんですよ、最初にうちの店に来たとき」
「分かります。学生時代もそうでしたから」
「それで僕がコーヒーを淹れるのをじっと見ていて、僕少し怖かったですよ」
「えっ、そうだったんですか」
「というのは冗談ですが、このお客さんには、絶対美味いコーヒーを淹れなければならないと思いましたね」
「分かります」
私は気難しい顔で、インスタントコーヒーの淹れ方を講釈する洵の顔を思い出して、噴出してしまった。
「何かおもしろいこと思い出しましたか」
「ええ。大学時代のこと。コーヒーの淹れ方で、あんなに真剣になれたなんて、私たちは幸せだったなと思って」
「そんな幸せなときがあってよかったな。他愛もないことって人生の宝ですよ。うちの父は、大人になることが不安で、万年青年で旅行をし、他愛もないものを愛し続けているんだと思います」
「人と違うことをするってそんなにたやすいことではないと思います。だって人って他人が自分のことをどう思うかって気になる動物ですから。人のことが必要以上に気になりだしたら、自分の自由が奪われてしまいます。だからマスターのお父様は、自分の生き方を愛し、全うして偉い方だと思います。ご家族には迷惑をかけたようですけど」
私もマスターも笑った。そのマスターの顔には非難や軽蔑などはまったく見られなかった。そして私は心の中で、放蕩した父を持つマスターも、自分では気がついてない様子だが、誰にも惑わされずに、自分の好きな道を選んだのではないかと、ほほえましく思った。
編集者は思ったとおり、杜の都が気に入った。駅の中にある店で、なんだかごたごたした感じを想像していたらしいが、駅の中のオアシスのような存在だと、これからの打ち合わせは、いつも杜の都だと決定した。初めての出会いにもかかわらず、マスターとも息が合った様子で、マスターから早速雑誌の担当部にも杜の都の話をする許可をもらっていた。