王家復活
一
周市は陳勝のもとへ使者を送り、魏咎を王として迎えたい旨を伝えた。しかし陳勝はなかなかこれを認めようとせず、事態はいっこうに進展を見せなかった。
「斉や趙、あるいは燕がすでに独立の体を示しているというのに、なぜこれ以上、王を増やさなければならないのか。余は皆に先駆けて秦に叛旗を振りかざし、その圧政を取り除こうとしたが、どういうわけか誰もそのことに敬意を払おうとはせなんだ。気がつけば余の周囲には、余の功績を利用して、自身の勢力を拡大させようとする輩しかいない。魏咎もしょせんはそのひとりか」
使者に対して毒づいてみせる陳勝であった。しかし彼は、いずれ認めざるを得ないことを知っていた。
陳勝には、大陸全土を治めるための絶対的な武力や、優れた統治組織があるわけでもない。彼にできることは、地方に権力を分散させ、自身はその上に立つという、いわば緩やかな連合の頂点に立つことだけだった。
「魏国が決して余を裏切らないことを約束すれば、認めよう」
その結論を引き出すために、周市は五度にわたる使者の往復を必要とした。
「敵の力を、これでひとつ削ぐことに成功したぞ」
魏咎の帰還を、国民は等しく喜んだ。陳勝の力は相対的に削がれた形になったわけである。だが魏咎にしても、周市にしても、この段階で求めているものは対決ではない。
「まずは独立を祝い、その統治策を民に示さなければ……趙や斉の動きも気になるところだ」
魏咎はそう言うと、対応を協議するために周市を自室に呼び入れた。そこには賈と成の二人の兄弟、そして娘の蘭がおり、弟の豹がいた。
「陳勝の軍はたびたび秦によって敗れている。壊滅の時期は近いと見た」
入室早々の魏咎の言葉である。一同は、事態の急転に呆然とした。
「周辺の諸侯国とは友好関係を築く必要がある。そうでなければ自国の安全が保たれない。我々に共通の大きな敵は、やはり秦であった」
「秦の巻き返しが始まった、ということですか」
蘭は驚いて問い返した。正直な話、秦の滅亡は時間の問題だと思っていた。
が、そもそもは強兵を謳われた国である。指揮官に人材を得れば、未だ侮ることはできないはずであった。敵として失念しかけていたことを後悔した蘭であった。
「大きな秦という敵を前にして、我々のとるべき行動は何か」
課題は山積している。内政の充実、隣国との友好関係の樹立、軍備の増強、兵の育成……それぞれ重要な課題であり、優先順位はない。
「周市どのには私を陳王のもとから帰してくれた恩義がある。この国を治めるにあたって宰相の地位を与えたいが、引き受けていただけるだろうか」
魏咎は周市に印綬を授け、周市はそれを受けた。宰相とは一般に内政の最高位を示すが、同時に軍の最高指揮官でもある。彼はその地位を引き受けるにあたって、ひとつの条件を示した。
「優れた人材を呼び寄せることが必要です。臣(わたくしの意)にお任せいただけましょうか」
「心当たりがあるのか? それならば厚く遇することを余からも約束しよう。なにしろ……君の推挙ならば間違いはあるまい」
「ありがとうございます」
魏咎は次に隣国の斉や趙に関して思いを巡らせた。
「斉は七十余城を抱える大国であり、王の田儋はなにやら神秘の力を持ち、民衆は彼に心酔していると聞く。これと争わず、ともに秦と戦うために……合従することが必要だ。しかし、無条件というわけにはいくまい。こちらはできたばかりの新興国に過ぎないから、たやすく信用を得ることはできないだろう」
魏咎はそこで言葉を切った。その様子は、彼が何かを言い淀んでいるかのようであった。
「賈、そして成。お前たち二人は斉国へ赴け。そこで人質としての役目を果たしてほしい」
賈、成それぞれに驚愕した表情が浮かぶ。
蘭は、言葉を失った。
二
一瞬の自失。目眩のするような現実。蘭は、父親の判断がはたして正しいのかどうかがわからなかった。それが唯一の方法なのか、他にとるべき策は存在しないのか、そのようなことを考えると……なぜだか泣きたくなってしまった。
「……父上は、陳王のもとに参られてから、少し厳しくお変わりになりました」
ようやくその語を発した。
「仕方がないのだ。斉は、周将軍が陳勝配下にあったころ、一度侵攻した事実がある。恨みをもたれている可能性はおおいに大なのだ。よって、こちらも誠意を示さなければ、合従は成らない」
魏咎の説明に蘭は思わず周市をにらんだ。だが、周市としては申し開きのしようもない。周市は、ただ王命に従って行動しただけなのだ。
「陳王は旧斉地の奪取に非常に熱心だった時期があって……かの地は七十余城を誇る大国であったから、陳王としてはぜひ手中に収めたかったのだろう。そこで私が派遣されたのだが、結果的に攻略することはできなかった。即位間もない田儋によって、撃退されたのだ」
周市は言った。蘭に釈明した形である。
「そのころの私は、陳勝麾下の一将軍に過ぎなかったのだ。許してほしい」
それでも何か言おうとした蘭を、賈が押しとどめた。
「もう言うな、蘭。俺たちのことだったら心配ない。斉に赴くことに不満はないよ。むしろ、よい同盟関係を築く使命感に燃えている」
「本当ですか……」
蘭は不承不承口を閉じた。しつこくこれ以上言うことは、父親の判断を批判することになる。彼女は納得せざるを得なかった。
「では、成もよいな?」
魏咎の言葉に、成は頷いた。
「できれば私は戦いたいと思っていたのですが。父上が和平のためというのであれば、そのために働きましょう」
「よし。それでこそだ」
魏咎は息子たちの頼もしい言葉に安心したように微笑んだ。
そして、あらたな議題である。
「もう一方の隣国である趙についてだが、こちらには遺恨はないので、私が直に交渉に当たろうと考えている。趙王武臣との面識はないが、もともと彼は陳王の配下であった武将のひとりであるから、私と同じ立場だと言えよう。また、武臣を支えている重臣の張耳と陳余も、もとは魏の県令であった男たちだ。うまく彼らと付き合えば、きわめて良好な関係が築けるかもしれない」
王自ら膝を突き合わせて話し合えば、秦に対して共闘が可能だ、と説いた魏咎であったが、その意見にひとり反対した者がいた。
魏豹であった。
「失礼ながら、いま王が発した意見は弱気に過ぎると思われる。趙には、武威を示すべきだ。大国の斉はともかく、新興国に過ぎない趙に対抗できる勢力も示さずに、どうやって天下に我らの存在を知らしめることができよう? 弱国には人も集まらぬ」
魏豹の意見には、たしかに聞くべきものがあった。武力で劣る弱国は隣の強国に吸収され、その存在価値を失っていく。
ただ、魏咎にも言えることはあった。
「だからこそ大国の斉と強固な同盟関係を築いておくのだ。いざ、何か問題が起きたときには斉が守ってくれる……対外的にもそのような我らの関係を知らしめれば、他国は安易に魏を攻撃できない。むろん、我ら自身に強固な軍事組織があって、国境にも堅固な要塞があるのであれば、いま豹の言ったような政策もとることができる。しかし、魏の現状はそうではない。国力がないうちは、いくら虚勢を張っても相手に見透かされるものだ」
魏豹はまだ納得しない様子である。
「だったら、必死に国力増強に努力すべきではないのか」
「だから、周将軍に人材を招聘することをお願いしているではないか。国の根本は、人だ。豹、お前の言っている国力とは軍事に限ったことであろう。いくら弓や刀が豊富にあっても、それを使って国を守ろうとする人がいない限りは、どうにもならないのだぞ。まずは、民衆に愛される国づくりをすることが先だ」
「だから、弱い国には人が集まらぬ、と言っているのだ。愛だのと生ぬるいことを言っていても始まらぬ!」
怒った魏豹は、部屋から出て行ってしまった。
三
魏豹の賛同は得られなかったが、魏の国策は概ね王である魏咎に定めた方向性に定まった。これにより賈と成は斉国へ旅立ち、周市は軍備を整え、国中から兵を集め、これを軍隊として組織した。
蘭は王である咎のもとにいた。その役割は咎に見守られることに尽きる。事実上、彼女は暇を持て余していた。
「父上、私に何かできることはないのでしょうか」
蘭は退屈に我慢できず、咎に訴えた。
「暇だったら、お前の好きな弓の練習でもしていればいいだろう。いや、邪魔にしているわけではない。いま、余がこうして王を称することができたのは、お前が周市のもとに乗り込んで、働きかけてくれたおかげだ。そのことにかけては感謝しているし、親として娘を誇りに思っている。だが、お前はまだ幼い。背丈もまだ伸びるし、そのうち胸も、もっと膨らむ。まだ成長しきっていない娘に、これ以上の負担をかけたくない」
「でも……」
蘭の表情には寂しさが宿っていた。体は充分に大人になっていない自分だが、頭の中身は大人と同じだと言いたいように、咎の目には映った。
「我慢しなさい。天下は間もなく……決定的に乱れる」
蘭はその意味がとっさに理解できず、無言でいた。
「陳王が汝陰(地名)で秦軍に囲まれたそうだ。その後逃走したという情報が入っている。陳勝と呉広の起こした乱は、まもなく終焉を迎えるだろう。また、呉広はすでに死んだとのことだ」
蘭はその情報に唖然とした。頭では大人と同じように状況を正しく判断できると思っていても、そのために必要な情報を得る能力に乏しいことを自覚せざるを得ない彼女であった。
「確かな情報だ」
魏咎はそう言うと、ひとりの人物を呼び寄せるよう臣下に指示を下した。
間もなく現れた男は、恭しく礼をすると自己紹介をした。
「臣は、魏無知と申します。公主(姫)さま、お初にお目にかかります」
やや痩せ気味な男であった。あまり飽食できる環境で育ったようには思えない。言い方を変えれば、貧相な外観の男であった。
そのような第一印象を持った蘭であったが、彼には注意すべき点がひとつあった。それは、彼が自分たちと同じ氏を名乗っているという事実である。
「私の姓は姫、氏は魏です。父に信陵君を持ちますが、庶子であるため、あまりその恩恵を受けておりませぬ」
魏無知は笑いながらそう語った。
信陵君とは、いわゆる戦国四君のひとりで、大陸統一を目指していた秦を相当に恐れさせた人物である。当時の魏王の弟にあたり、隣国である趙を秦の侵略から救い、また魏国そのものを数度の侵略から救った。のみならず、信陵君は諸国連合軍を結成し、逆に秦を函谷関に追い詰めた。彼の名声によって、諸国が魏に援軍を送った結果である。
「私が幼い頃、父には数度会ったことがあります。ですが、そのとき父は常に酒に溺れ、まともであったことは一度もありませんでした」
信陵君の晩年は、兄である王からの疑念の目に晒される毎日であったという。秦によって撒かれた「信陵君が王位を狙っている」という流言を王が信じ、その結果遠ざけられた結果である。信陵君は酒浸りとなり、その数年後には死んだ。
「だから私には父の偉大さなどわかりません。魏の公子の一族だという意識もありません。周将軍に見つけていただいたのですが……王様や公主さまに仕えることに不安がなかったわけではございません。つまり……私のような者は、父のように疑いの目で見られるのではないかと」
蘭はその間、ひと言も発することができなかった。偉大な父親を持つ人物が、それによって生きづらい人生を送らざるを得ないことに、自分の人生を重ね合わせたのである。
「無知さまは、それでも周将軍のお誘いをお受けになったのですね……その理由は?」
ようやく発したひと言が、それであった。
「過去に甯陵君を称された王様は、その当時から人民を統治するに愛をもってする、との噂をかねてより伝え聞いておりました。ですが、ただお仕えするのも虫が良過ぎると愚考し、諸国を回って情報をお届けした次第です」
「軍の指揮を任せられるか?」
このとき魏咎はあまり魏無知の言葉に感化された様子を見せず、用件だけを聞いた。それに対して魏無知は、
「ご命令とあれば」
とだけ答えたという。
魏咎はその態度に潔さでも感じたのか、表情を柔らかなものにした。
「うむ。だがその前に、君はよく食べることが必要だ。今日は食事をともにせよ。その席で諸国の情報を詳しく聞こう。たらふく食うがいい」
蘭は、なぜ父親である魏咎が愛されるのかを、このとき知った。彼は、魏無知のような人物が、自分の地位を奪うかもしれないということを、考えもしない。
いや、表向きはそのような態度をとっている。彼は考えながらも愛でそれを包み込もうとしたのだった。
野望を包み込む愛。
それが彼の武器であった。