敵だらけ
一
過去に思いを馳せると、自分の中に甘えがあったことに気づく。魏咎は心を鬼にすることができない性分であった。
周市はもともと魏国の人間である。そのような人物が自分の存在を知らぬはずがない。また、魏豹とは母親が違うとはいいながらも、血を分けた兄弟であることは確かである。弟が兄を裏切るはずがない。
なにもかも自分に都合のいいように考え、それを「愛」の名のもとに正当化する。誰もが同じ価値観のもとに生きていると考え、他者のひそかな野心や、現状への不満に気づかない。確かに、魏咎は正室の子であることで優遇されていたのだ。
しかもそれを実の娘によって知らされたという事実。愛を標榜するからには、もっと自分に厳しくなければならないと思い知らされた出来事であった。
娘の蘭は、周市のもとに下女として現れた。高貴な生まれであるにもかかわらず、その対応力は特筆すべきものであると言えよう。父親にできぬことを、娘は平然とやってのけたのである。
「あと百里も進めば、濮陽に達する。そこからさらに百里進めば、斉の地に至る。諸県を制圧し、その県令を捕らえ続けていけば、大勢を得ることができる。諸県は靡くように我が軍に従うようになるだろう。戦わずして戦果を得る日も近い」
周市は出先から帰ってくるなり、家人に対してそのように言い放った。どうやら、軍事は順調に進んでいるようである。
「このわしが大梁を平定したことで、魏国にもとのような平穏が訪れる日は近づいたと言えるだろう。あとは……どう治めるかだ」
大梁はかつての魏国の首府であった都市である。首府を陥落させたことで周市の名は天下に知れ渡り、そのことによって近隣の都市の態度が変わったのである。陳勝配下の将軍によって首府が制圧されたことが重要で、これが単なる土豪を頭とする集団であったなら、各地に無数に存在する叛乱勢力は抑えられなかっただろう。周市は魏国の平定に陳勝の名を利用したが、それ以上に自らの活躍によって陳勝の名を高めた。秦の支配勢力を追い出し、その後の混乱を抑えたことによる実績は、まさに彼自身が口にした通りのものである。
「我ながら、よくやったものだ」
しかし周市がこのとき感じたものは、「疲れ」であった。実に苦労した、という思いと、まだまだやれるという思いが錯綜した結果、ひとまず休息したいという結論に至ったのである。
しかしそれを実行できる権限は、周市自身にはない。それを決めるのは陳勝のみであった。
ただ、無事に一日を終えればつかの間の休息を取ることができる。周市はそのようなとき、下女たちに自分の足を洗わせ、体をもみほぐすように拭いてもらうことを好んだ。一般の農民に比べれば贅沢な休息の仕方だが、功績を上げた武将の一日の終わりとしては、むしろ質素なものであるというべきだろう。
「若い娘がいるな。新入りか」
もと秦の役人が使用していたものを急あつらえの屋敷とし、いつものように下女に足を洗わせていた周市の目に、蘭の姿が映った。しかし当然のことながら、周市は蘭の素性を知らない。
「まだ幼いな。……しかし品がある。どこぞの高貴な家の出身か」
問われた蘭は、しばしの間返答をためらう素振りを見せた。
「間違いないな。人に聞かれたくないのであれば、他言はせぬ。本当のことを言うがいい」
周市はそう言うと、他の下女連中に合図をして下がらせた。屋敷の中庭には、いま周市と蘭しかいない。
「決して興味本位で聞いているわけではない。正直に言えば、お前が良き家の出身であれば、わしにも利点があるのだ。わしはお前を保護することで、お前の家の者を味方にすることができる」
しかし蘭はまだ口を開かない。だが、逆にこのことが周市に自分の勘が真実だと確信させた。
「嫌らしく聞こえたかもしれないが、人のつながりとはそんなものだろう。お前はなにかのきっかけで下女に成り下がったのだろうが、これもなにかの縁である。人の縁というものがわしに力を与えてくれるものであるのならば、お前をもとの地位に戻してやることも、おそらく可能であろう」
その言葉に、ようやく蘭は口を開いた。しかし、それは充分に周市を狼狽させる効果を持つものであった。
「私は、甯陵君魏咎の娘です」
そのひとことは、遠慮がちに発せられたにもかかわらず、周市はとっさに反応することができなかった。先ほどまでの饒舌な調子は影を潜め、一瞬でなにもかも忘れたような呆然とした表情を浮かべた。
しかし周市はその一瞬の自失から解き放たれると、即座に事態を理解した。それまでたらいの中にあった両足を地べたに放り出し、両手両膝を地につけてその場にひれ伏した。
「これは、姫様……臣のような下賎な者のもとへお越し頂き、光栄の至りです」
額を地面に擦り付けて平伏した周市の姿に、蘭は困惑した様子を見せた。が、このとき彼女は周市に顔を上げよ、とは言い渡さなかった。
「あなたを見込んでやって来ました。大梁を平定したあなたの卓越した軍の指揮能力、そしてその武威によって周辺の里邑を戦わずして従えた知謀。魏国の将来を託せるのは、あなたをおいて他にはありません。どうか、私を受け入れてください」
「は、それはもう……」
周市は、蘭を受け入れた。
それは、誰かのために戦いたい、という欲が彼の中にあったからに違いなかった。
二
「私の父は、欲の少ない人です。自己の向上心よりも自分を取り巻く人々の幸福を願う人です。だからこそ人は父を敬い、前面に押し出そうとします。本人は嫌がっているかもしれませんね。ですが、私も父を前面に押し出そうとする人々のうちのひとりです。ですから、あなたのもとにこうしてやって来ました」
蘭は年齢に似合わない大人びた口調で話し始めた。
すらりとしたいでたち、伸びた背筋が特徴的な少女である。髪は腰の辺りまで伸ばしてあり、目は大きくはっきりしていて、目尻がくっきりとしていた。あどけなさはあったが、全体的に凛とした、気の強さを人に印象づける容姿であった。
「父上のことは、ご存知ですか」
問われた周市は、はっと我に帰った。旧魏国の公子の娘が、自分のもとを訪れた、その意味を感じざるを得なかったのである。
「もちろん、存じております。甯陵君は仁義に富み、領民は皆それを愛したと……。陳王が珍重しているとも聞いております」
「私は、魏国の復活を望んでいます。父上に王となっていただきたいのです」
蘭の言葉は、周市のそれに対する直接の返答となってはいなかった。しかし周市は、それこそ蘭が自分のもとを訪れた理由だと理解した。
「そのためには、下女の姿にでもなると……? 陳からお一人でここまで来る道のりにも危険がいっぱいだったはず。たいした行動力であられますな」
周市の言葉尻にはやや皮肉が込められていた。そこまでして自分の利権を求めるのか、と言いたいのである。
「私は、この大梁の支配者は陳王よりも父が適していると思います。陳王はかつてこういったと言います。『王侯将相、いずくんぞ種あらんや』と。誰でも国の支配者となる権利がある、このことは事実ではありましょうが、反面で誰もがその地位を争って手に入れようとし、天下がいつまでたっても治まらないという事実があります」
周市は、その言葉にはっとした。彼は実のところ、この大梁を支配する権利が自分にあるのではないかと思っていたのである。しかし、その思い上がりこそが、終わらない戦乱という現状なのであった。
「では、甯陵君がこの地を治めれば、戦乱は収まるのでしょうか」
「結局は治められる地の人々が、その事実を受け入れるかどうかによります。支配者といえども、人々に愛される人物でなければ……誰かがそれに取って代わろうとするでしょう。そこでお伺いしたいのですが……はたして陳王は人々に愛される人物なのでしょうか?」
蘭が言いたいことは、周市にはよくわかる。陳勝は勢いのある言葉で人々を煽動したが、その後は自身の行動力を発揮しようとせず、指図ばかりしようとした。周市は、自分が何のために戦ってきたのかが、正直わからなくなり始めていたのである。
「臣は……頭では、陳王のために戦ってきたつもりでいました。しかし、あのお方からは感謝の言葉はおろか、恩賞も一切ない。臣は、いっそ自立しようかと思っていたところです」
結局は自分の忠誠心など、そんなところだと認めざるを得ない。周市はそのような自分を卑下する態度で、婉曲的に陳勝を批判した。
「趙国が独立したのも、燕国が独立したのも、皆それで説明がつきます。陳王には、愛される要素が不足しています。だから皆、離反するのです」
蘭は、事態を単純化して説明しようとしている。周市にはそれが危なっかしく感じられたが、存外事実を的確に指摘しているようにも思えた。
「姫様には……臣に造反せよと言いたいのですな」
「はい。ですが、できるだけ穏便な形で。このままいくと、陳王はひとりでに滅びます。その際、この地に危機が及ぶことがあってはなりません。……しっかりと地盤を固めておくべきです」
ひとりでに滅ぶ奴に、わざわざ手を下す必要もない。彼女は言外にその意を含ませていた。
三
蘭には天真爛漫なところがあり、周市が自分の妻子や親族と一緒に彼女を保護しようとすると、あからさまに楽しまない様子が見て取れた。
彼女はことあるごとに政情の確認を、周市に求めた。そしてある日、変化が訪れることになる。
「沛方面を攻略せよ、との命令が下りました」
周市は困惑した表情で、蘭に告げた。
「沛というと……その昔、宋国に属していた地ではないですか。陳王は、将軍に旧魏国の領土以上の土地を征服するよう求めているわけですね」
「西側の領土はいまだ安定していませんが、従うべきなのでしょうか」
魏国の領土は大梁を中心とした東側と、安邑を中心とした西側に大分される。このとき、周市は西側の平定に魏豹を派遣していたものの、西側は秦と国境を接していることもあり、いまだ完全な形で主権を手に収めることができないでいた。周市にとっては、気がかりなことである。
「函谷関を周章将軍が攻めているというが……あの強大な秦がそれだけで滅ぶとは思えない。我らは、いちはやくこの魏国を完全に平定し、その力を結集して秦国に挑むべきだと思うのだが……」
周市は憤懣やるかたないといった表情で蘭を顧みた。
「この段階では、命令に従うよりほかありません。ところで、沛の軍勢は盛んなのでしょうか」
問われた周市は淡々と答えた。
「沛県一帯は劉邦という男が支配しておりますが、幸いにもこの男は現在他県の制圧のために遠征しており、少数の部隊が本拠地の豊邑を守備しているのみです。たやすく制圧できましょう」
「その部隊長の名は?」
「雍歯という男です。とりたてて軍事に秀でた人物ではありません。一昼夜もあれば、虜にできましょう」
「なりません。味方に引き入れるのです」
魏蘭は周市に一計を授けた。その上で、彼女は言う。
「絶対に勝てる相手に貴重な兵力を投入するのは、無駄というものです。戦えば必ず勝てる相手というのは、戦略的にもたいして価値がありません。そこに人命を損なうような作戦を立てることは、罪悪でもあります。戦わずに屈服させ、兵力はもっと強大な敵と戦うときのためにとっておくべきです」
「なるほど」
周市はそこで考え直し、沛に使者を送った。しかしこのときは、うまくいかなければ改めて兵を送ればよいと考えていた程度であった。
四
雍歯は劉邦とそりが合わず、もともとその支配を喜んでいなかったという。周市はあえてその点には触れず、豊邑を守るならばこれを攻め滅ぼし、魏に降るのであれば侯として遇しようとだけ使者に述べさせた。これが功を奏し、雍歯は魏の誘いを受け入れ、その後豊邑を死守したのである。これが、結果的には魏のためになったのであった。
「兵力を失わずにすんだ」
周市は喜び、その後は魏豹とともに旧魏の地を平定することに専念した。しかしそれがほぼなると、思わぬ形の誘惑にさらされることになる。
斉と趙の王が、周市に魏王となれとそそのかすのであった。
たびたびその誘い言葉に引き出ものが伴ったりする。ときにはその量が実に車五十両に達するときもあった。
魏豹はこれを歓迎しなかった。
「将軍、送り返すべきではないか」
彼は顎髭さえも震えさせながら、そのように言う。よほどこの事実が気に障ったのは確かであった。
「私にそのような意思は……。もちろん引き出ものは送り返すつもりだ」
周市がそのように答えると、魏豹はあからさまに安堵した表情を浮かべた。
覇気を隠さない性格の成は、それを見逃さなかった。
「叔父上は、将軍ではなく自分が王となるべきだと考えているのだろう」
賈と蘭は成の袖を引っ張り、これを嗜めた。しかし魏豹の怒気を抑えることはできなかった。
「ふざけたことを年端もいかない子供が言うな! 魏国の平定にろくな寄与もしていないくせに……」
最後には言葉にならないほどの怒りを発した魏豹であった。
彼はその後、成を鞭で打ちつけ、獄に閉じ込めた。
「兄上が軽はずみなことを言うからです」
獄を見舞った蘭は、静かに成へ語りかけた。だが、彼女の口からはそれ以上兄を責める言葉は出てこない。
「お前だって思っていたことだろう。兄上だって、周将軍だって思っていたに違いないのだ。そもそも魏国の平定にもっとも寄与した者は叔父上ではない。周将軍だ。その将軍に王位への意思がないのであれば、当然王座は父上にもたらされるべきなのだ。お前だってそう思うだろう」
熱した成の言葉を遮るように、蘭は獄の中に手を伸ばして、その手を握った。
「もうおよしなさいな。叔父上の言う通り、私たちはまだ年端もいかない子供だから、なにを言っても聞く耳は持ってもらえません。このことは、周将軍にお任せしましょう」
しかし成は黙らなかった。
「叔父上には王の資格などないよ。俺はそのことだけは断定できる。あの人は戦地で……ある貴女を見つけて妻としたんだ。その貴女は薄氏といって、先祖をたどれば俺たちの遠縁に当たるらしい。つまり、魏国の王族出身さ。まあ、その女の出自は別にいいのだ。問題はそのきっかけだよ」
蘭には初耳のことだった。我知らず、話に興味を持った自分に驚きを感じながらもそれを隠し、先を促す。
「俺も見たが、薄氏はそれなりの美女だ。しかしそれほどというわけではない。見慣れているからそう思うのかもしれないが……蘭、お前の方がよほど美しいよ」
「変なことを言わないで」
蘭は顔を赤らめた。まだ子供だと自分で言いながらも、自分の容姿を意識してはいたようだった。
だが成は、そのことには深入りせずに話を続けた。
「そこそこの容姿でしかない薄氏を叔父上が妻に迎えた理由は、彼女が持つ逸話だ」
「逸話って?」
「薄氏には将来天子を生む相があるのだそうだ。許負という占い師が人相を見て出した結果だと……。叔父上はそれを伝え聞いて、彼女を妻として迎えたのだ」
天子の親であるということは、つまり自身がその前の代の天子であるという事実につながる。
成は、魏豹にはよこしまな野心があると言いたいようであった。
五
周市に誘惑があることは、陳勝に対する不信の結果である。この時期に独立を果たしていた斉王田儋、趙王武臣らは、すでに陳勝の名のもとに天下を統一することに興味を持っていなかった。つまり、連れ立って陳勝に叛旗を振りかざそう、と言いたいのである。周市にも、彼らの言いたいことはわかっていた。
「陳王は、すでに世間から愛想を尽かされているのか。もちろん、いつの時代にも対抗勢力というものはあるのだろうが……」
周市は陳勝の行く末を案じた。彼は真っ先に秦の統治に疑問を呈してみせ、それを行動にして示した。その功績はあまりにも大きい。しかし、結果的に天下は乱れた。民にとって秦の圧政は苦痛であったが、いまの乱世もそれに輪をかけての苦痛なのである。誰が兵たちに自分の土地を荒らされ、収穫物を奪われ、妻を犯されるような世界を望むものか。戦乱の世とは、そういうものなのである。
いずれ陳勝は除かれるだろう。このままでは自分も陳勝一派として、民によって除かれる運命にあるに違いない。
「天下が乱れるときこそ、忠臣が現れるという。いま、天下は力を合わせて秦に対抗するべきときだ。私は道義からいって、魏が独立するならば、どうしても王の子孫を立てなければ駄目だと思う」
周市は結局のところ陳勝の意見を否定したのである。つまり、大沢郷で彼が発した「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という発言を、である。
誰もが王にも侯にもなれると信じて行動することは、世の乱れに通じる。定められた血統を持つ人物が、定められた運命によってその地位を受け継ぐことによって、世の中は安定する、そう言いたかったのである。
彼は、魏咎を王に擁立することを決めた。蘭と初めて会ったときの会話の内容に、ようやく確信が持てたのだった。
「陳王はひとりでに滅ぶ」……その蘭の言葉にである。
「陳王のもとに使者を送り、お父上を呼び寄せましょう。おそらく斉や趙は喜ばないだろうが……彼らはもっと天下が乱れることを望んでいるのです。乱れに乗じて勢力を広げようと……そして叔父上であられる魏豹どのも喜びはすまい。お父上が王位に就けば、彼には当分その順番が回ってきませんから。そして、陳王もすぐには納得しないでしょう。自分より徳のある者が王座に就けば、民の支持はそちらに回りますから」
周市が比較的穏便な言い方をしていることは、蘭にもわかった。だが、これは魏咎の運命が非常に前途多難なことを示している。彼が王座に就けば、趙・斉はもちろん、陳勝も対抗勢力となるのだ。対抗勢力とは、つまり敵である。そしてより厄介なことに、魏咎には身内にも敵がいるのだ。
それは、魏豹である。