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外伝Ⅲ 名家の変遷  作者: 野沢直樹
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甯陵君魏咎


 人は、彼のことを「甯陵君(ねいりょうくん)」と呼ぶ。なぜそう呼ぶのかというと、一般に本名で名を呼ぶことが失礼だとされていたからである。しかしこれは彼の現在の肩書きではない。

 彼はかつて魏国の公子としてその肩書きを戴いていたが、何年も前にそれを失っていた。魏国は秦によって滅ぼされ、彼の父は投降後に処刑された。

 父親の災厄が自分に降り掛かることを、彼は恐れた。しかし幸いにも、秦は彼を許したのである。彼はこのとき平民におとされることとなった。

 甯陵君という肩書きが取り外されると同時に、魏の公子であるという事実も有名無実のものとなった。彼に残されたのは、「(きゅう)」というへんてこな名前ばかりである。

「咎」という文字には、人をとがめる、非難するという意味が込められている。しかし実際の彼は、人を愛そうと努力し、その努力によって自分にも相応の見返りが得られると考えていた。当時彼を知る人々は、皆そのことをわかっていたが、そのことで彼のことをあざといと評価する人物はいない。むしろ彼は、名家の生まれにふさわしい人物として、尊敬されていた。そしてその出自を失ったという事実を、皆憐れんでいたのである。

「私は、いつかまた国を動かす立場になりたいと思っている。そのときには、まったくこれまでとは違う、新しいものを作りたいものだ」

 彼は野心的なことを滅多に語らなかったが、ごくたまに親しい者を相手にそのようなことを話したという。

「新しいもの」とはなにか……。少なくとも旧態依然とした戦国諸国の復興ではあるまい。彼が単に魏国をそのまま復興するつもりだとは、当時の誰も考えなかった。彼が理想としていた国家とは、野心のままに覇権争いをするそれではなく、純粋に価値観を共有する人々の共同体だったのである。


 やがて大沢郷での陳勝の蜂起をきっかけに秦の統治が弱まると、彼は選択を迫られた。これを機に秦の統治の目が届かない南方へと逃れるか、それとも戦うか、である。

 しかし、実質的に選択の余地はない。

 彼を慕う人々は、自分の生まれ育った土地を愛し、それを守るために戦うのだ。魏咎は、自分を慕う人々を愛する限り、その意思を尊重しなければならない。愛は、愛によって報いなければ効果がないのだ。

「私は、陳勝の軍に馳せ参じようと思う。そこでひとかどの役割を果たし、皆の子々孫々へ至るまでの土地を確保するつもりだ。私自身のためにもそれがいちばんいいと思う」

 そこで魏咎は陳勝の在所である陳(地名)を訪ね、その配下となったのである。



 目的としては、陳勝配下である程度の働きをし、その功労をもって魏国の旧領土を統治する権利を手に入れることだった。しかし陳勝は魏咎をひと目見て惚れ込み、自らの近辺を離れることを許さなかった。魏国の統治はおろか、陳を離れることも叶わなかったのである。

「愛されることは名誉なことだが、困ったことだ」

 魏咎は嘆息まじりに息子たちに向かって呟いた。

 彼には多くの息子がいる。しかしそのうち正妻に生ませた男児は二人のみであり、彼が常日ごろ身近に置いておくのは、この二人のみであった。

 名を、賈と成という。兄が賈で、弟が成である。

「お前たちに別れを告げなければならぬときが来たらしい。……このままでは、私は単に陳勝どのに仕えたというだけで、挙兵したことにはならぬ。お前たちだけでも魏の地に戻って、かの地の平定に尽力するがいい。……我が弟の(ひょう)の指示に従え」

 兄の賈は答えた。

「ご命令はお受けしますが……それにしてもなぜ陳王(陳勝のこと)は、父上のことを離さないのでしょう」

 賈は背が大きい男であったが、表情が優しい。目が丸く、愛嬌のある顔は人を和ませた。ただし政治的な眼力は乏しく、魏咎はややそのことを残念に思っている。長男であるがゆえに甘やかした環境で育てすぎた、と後悔していたのである。

「天下の趨勢を見るがいい。趙では陳王が派遣した武臣という男が勝手に自立して王となってしまっている。陳王としては、そのような動きを極力抑えたいのだ。まして、この私が魏国の王族であるという事実は彼にとって大きな利用価値がある。私を味方につけることで、陳王は少なくとも魏国の統治を正当化できるのだ」

 賈は傍らの成を顧みて、その意を伺った。このとき、賈は自分の思いをうまく言葉に表すことができなかったようであった。

 成はそんな賈をややあきれたような目で見やったあと、兄にかわって意見した。

「陳王の意はわかります。ですが、父上のお考えはどうなのでしょう。父上ご自身に、王を称するつもりはないのですか」

 咎は成の意見に大きく頷きながら、その後首を横に振った。聞くべき価値はあるが、即座には肯定できないという気持ちの現れであろう。

「民衆に求められてその座につくというのであれば、そのつもりがないわけではない。あるいは陳王が統治の都合上、そうしてくれというのであれば……。しかし、今の段階で私が自ら王を称することは、私を慕う人々に無用な戦いを強いることでしかないのではなかろうか」

 成はなおも食い下がった。

「父上には、自らが理想とする社会を創り上げる気概がないと見えます。このまま天下が陳王の手の中に収まることを、座して眺めているだけのおつもりですか」

 この言を受けた咎は、いささか憤慨した。

「なにを言う。息子よ」

 父親の顔色をうかがった賈は、場を取りなすように成に注意した。

「言葉が過ぎるぞ、成よ。父上の目指しているものは、権力によって人が虐げられない社会なのだ。戦いは、秦の暴政から人々を救うためであり、次に誰が権力を握るかという問題は、二の次でしかないのだ」

 賈が言うことは、概ね咎の意図と合致していた。

 人が戦いの場に自らの身を投じるということは、強制でもされない限り、よほどの理想や目的がなければあり得ないことである。魏咎の場合、公子であったという過去の自分の立場もあり、戦乱の中で人々が枯れ葉のように状況に舞い踊るだけであることを、黙って見ていられなかったのである。

 自分が立たねば、彼らは徴兵されて死ぬか、土地を奪われて飢えるか……それだけである。彼は、せめて自分を慕ってくれる周囲の人々だけでも、幸せにしたいと願ったのであった。

 長男の賈は、多少朴訥すぎる面はあるが、父親のそのような気持ちをよく理解していたようである。いっぽう成は覇気にあふれており、もっと激しく行動したいようだ。父親の魏咎から見れば、二人の性格を合わせればちょうど良い、といったところであった。


「慎重に事態を見極め、行動を起こすと決めたなら迅速にしなければならん。まずは、豹のもとへ行け。豹はいま、陳王の派遣した周市将軍に協力して旧魏国の領土の平定に尽力している。お前たちが行けば、豹も周市も喜ぶだろう」

 魏咎は息子たちに伝えて旅立たせ、自らは陳勝のもとに残った。



「余は各地に王を乱立させたいわけではない。求めているものは、天下の安定だ。各地にその地を治める王を置けば、その地は安定するかもしれない。しかし将来的には、それが叛乱の種となる」


 玉座の上の陳勝は、階下にひれ伏す魏咎に向かってそう話した。


「仰せの通りでございます」

 魏咎の返答には、熱がこもっていない。それは、陳勝の能力に対する疑念とともに、たったひとりの権力者が広大な土地を統治するという制度そのものを危ぶむ気持ちが表れたものであろう。


「貴公は魏のもと甯陵君であったというが、引き連れてきた兵は……二〇〇余名といったところか。貴公のそのたいそうな身分にしては、兵が少ないようだ。これにはなにか理由があるように思うが、どうか?」


 魏咎は顔を伏せたまま、陳勝の問いに答えた。

「つれてこようと思えば、二万から三万の兵をご用意できます。しかし戦いに明け暮れて国もとを荒廃させてしまっては、戦いそのものの意義を失います。私としては、戦う者と、守る者の役割をはっきりさせたいと思っているのです」


 しかし陳勝はこの言葉に満足しなかったようであった。彼は、その太った体をよじりながら、魏咎に対して詰問した。

「現在は秦を打ち倒し、次の覇権をどうにかして手に入れようとしている時期だ。そのようなときに自分の土地を守ろうとするなど、余は貴公の忠誠の度合いを疑う。貴公は何もかもかなぐり捨てて、我が軍門に身を投じたというわけではないのだな?」

「…………」

 魏咎は返答に窮した。

「民衆を守り、彼らの土地を守る態度は義に満ちており、余も理解できぬことではない。しかし万年の歴史を通じて、名を残す者とは何かを自ら成し遂げた人物ではない。それは、人々に命じてやらせた者なのだ」

「…………」

 魏咎はまだ言葉を発することができない。


「いやな感じに聞こえるだろう」

 陳勝は自ら秦に叛旗を振りかざした男であったが、彼の言葉を聞く限り、そのこと自体を自慢する気はないようである。

「しかし、ひとりの人物にできることは非常に限られている。それがどんなに優れた者であっても、だ。ひとりより百人、百人よりも千人、千人よりも万人……優れた人物に求められるものは万人を動かす能力のみ。たったそれだけのものでしかない」

「は……」


 陳勝の言うことには、確かに魏咎を納得させるものがあった。しかし、決して反論できないかというとそうではない。彼が求めていたものは、次の時代の覇権などではなく、人々の幸福であったのだ。


「万人を動かす力を得るためにも、先頭に立つ者には自ら矢面に立つ覚悟が求められます。どうか私に後方で腹を膨らます余裕を与えず、前線に立つようお命じください」


 陳勝はこれを聞き、明らかに機嫌を損ねた。自身が挙兵時に比べて太ったことを揶揄されたと感じたのである。

「貴公の魏国の平定には、周市を派遣している。その他にも滎陽(けいよう)を仮王呉広が包囲しているうえに、函谷関(かんこくかん)を周章が攻めている。これ以上戦線を拡大するわけにもいかぬ。戦力が分散してしまうからだ」

「どこぞの軍の支援でも結構です」

「ならぬ」


 陳勝は、かたくなに魏咎の申し出を却下した。咎は退出を命じられ、与えられた居宅に戻るしかなかった。



 屋敷に戻った咎の目に飛び込んできたものは、中庭で弓を構える娘の姿であった。


「……蘭よ」

 咎は呼びかけたが娘は振り向かず、一心に的を見つめて矢を放った。

 その矢は的の中心に当たりはしたものの、それを射抜くことはなかった。弓勢が足りなかったのである。


「まだまだね……。あらお父上、お帰りなさいませ」

 娘の表情は飄々(ひょうひょう)としている。女である自分が弓の練習をすることに何の疑問も感じることなく、それを至極当然のことのように振る舞っていた。

 しかし目元には、まだあどけなさが残っている。


「蘭、お前が弓の鍛錬などして何になるのだ。楽しいのか」

 蘭と呼ばれたその娘は、父親のその問いかけに満面の笑みで答えた。

「はい、とても楽しいです」

 無邪気な受け答えをする一方で、彼女はさらにもうひとつの矢を弓につがえた。

「まだやるのか。それと、お前……武具などをつけていないで女らしい服を着なさい。遊びで武具を身につけるものではない」


 その言葉を聞いた蘭の表情が引き締まった。

「女だって、戦乱の中で命が危ぶまれることはあるものです。そのようなとき、自分で自分を守れなければ……。常に誰かが私のことを守っていてくれるわけではないのですから」


 それは確かにその通りであった。咎は常にこの娘のことを高く評価している。ふたりの息子の性格を合わせてひとりの男であったら最上だと考えていた彼であったが、実のところ、それは目の前にいたのである。しかし残念なことに、それは娘であり、男ではなかった。


 男に比べて非力なことは、矢が的を貫通することがないように事実であった。しかし蘭は決断力があり、それをうまく言葉で表現する能力にも優れていたのである。娘が男として生まれてきてくれたなら……などと、咎がどうにもならない思いを抱いたことは、これまで数知れなかった。


「お兄様たちを、叔父上のもとに送ったのですか」

 蘭はその特徴的な大きな目で、父親を見つめながら言った。父である咎は娘がそのような目で自分を見つめるときには、ある種の批判が込められていることを知っている。

「本来は私自身が行くべきなのであろうが、陳王が離してくれぬ。そうせざるを得なかった」

「叔父上が懸命にお父上のために戦ってくれるとよろしいのですが。どうも私には、あのお方は他人のために戦う手合いの男ではないように感じられます」


 魏咎の目に厳しさが宿った。

「お前のような年端もいかぬ娘が、賢しげに言うことか! そもそも私と豹とは他人ではない。兄弟だぞ」

「失礼ながら、腹違いでございましょう?」

 蘭は父親の怒りを含んだ言葉に対し、こともなげに返答した。それが父親が重視しようとしていない事実だと知りつつも、問題提起をしてみせたのである。


「お父上は正室の子であるかなしかに関わらず、誰にも平等に接しようとしていらっしゃいます。それはすばらしいことではありますが、お父上にそれができるのは、ご自身が正室の子であるからに過ぎません。側室の子である叔父上にとって、戦いとはその立場を逆転する機会に他ならないのです」

「弟に気を許すな、というのか」

 魏咎は不満げに言った。娘に諭されることもそうだが、その娘が吐く正論に反論できないことも面白くなかったのである。


「いいえ。お父上がいくらこの場で気を揉んでも、陳王のもとを離れられないことには何もできることはありません。私を周将軍のもとに送ってください。叔父上を制してお父上を魏王の座に据えてみせましょう」


 蘭の様子には、さして気負いがなかった。彼女は、決断力に富む。


 魏咎は、それに賭けた。


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