少年の秘かな決意
少年の成長を描いたシリーズの第四弾。無気力に過ごしていた平凡な日常がある日を境に豹変し、恐ろしい事件に巻き込まれていく。
『少年の小さな迷走』の続編的な独立短編。
11月に入り、今朝は少し肌寒いくらいの陽気であった。
私立城下桜南高校、2年C組の教室。
二学期中間考査の結果が出ると同時に、いつもの悩ましいアレを前にし、紅河淳はシャープペンシルをクルリクルリと回していた。
進路調査というやつである。
提出期限は昨日であり、担任教師から「提出するまで部活禁止」と釘を刺されていた。
「進学か就職か、と言えば、ま、進学かなぁ。」
紅河は、志望校どころか志望学部すらも考えていなかった。
好きな科目は特にない。
学問自体、熱意を向ける気になれない。
得意とするサッカーで大学を選ぶ気も、ない。
就職しなければならないような家庭事情でもない。
両親が大学進学を勧めるので、進学…。
「なんだそりゃ。」
自分の無気力さ、他人任せないい加減さに自分でツッこむ。
三年への進級に際し、クラス分けの目安にどうしても理系か文系かは書かなければならない。
とりあえず、進学希望とし、志望学科は「理系」と書き入れた。
なんとなく数学や物理はいつも平均点以上とれていたからだ。
紅河は職員室へ行き、進路希望用紙を担任へ提出すると、部活を欠席し帰ることにした。
サッカーは気が紛れるし、瞬間でも熱中できる唯一の趣味なのだが、今日は早く帰りたい理由があった。
3週間程前、弟の芳輝が、何の縁あってか学校からの帰宅途中に保護した幼女がおり、紅河家であずかっている。
その身元が判明した、と警察からの連絡が昨日入り、今夜、その話をしに来る予定になっていた。
紅河淳は思う。
身元調査になぜ3週間も掛かったのか?
ご家族からの捜索願いは出ていなかったのか?
幼女、『ひかり』という名らしいのだが、この子が帰りたいという素振りを全く見せないのはなぜなのか?
もしかしたら…ご家族は事故か何かに遭っていて、孤児になっていることが判明した、とか…
『ひかり』はわがままを言ったり無駄に騒いだりしない良い子である。
保護し、病院で治療を受けさせた直後はよく泣いていたが、記憶障害も回復し、言葉も明瞭になってからは、びっくりするほど母の言うことをよく聞き、従う。
早く本当の家族に合わせてあげたい、あの子の日常に戻してあげたいものだ。
午後6時を回るころ、紅河淳は自宅に着いた。
「父さん、警察は?」
「7時前には来るそうだ。」
「そう。」
「なんでも、少年補導員の方と、警部の方も来るらしい。」
「警部?ドラマとかの警部補とか言う人?」
「警部は警部補より上の人だな。会社で言えば課長や係長あたりの人だ。」
「へぇ。ずいぶん偉い人が来るんだな。」
「ああ、俺も気になってるんだ。どうしてわざわざ警部が、ってね。」
夕食の支度をしていた母が、エプロンで両手を拭きながら言った。
「なにか複雑な事情があるのかしらね?」
父が眉をひそめて、ソファに座りテレビを見ている幼女『ひかり』を見つつ、答えた。
「警部だからな。事件性があるのかも知れないな。」
「やだ、心配ね…。」
その時、家の呼び鈴が鳴った。
警察の方だった。
二名、警部と名乗る60代の男性と、生活安全課の40代の女性である。
リビングへ招き入れ、部屋で勉強していた弟の芳輝を呼び、身元調査の結果について聞いた。
「戸籍照合から、女の子の名前は『清州光里』さん、年齢は4歳、父親は亡くなっており、母親の名前が『清州朋代』さん、年齢32歳。清州家のご自宅は…」
生活安全課の女性が淡々と説明し、一通り調査結果を話し終えると、警部が口を開いた。
「私が出向きましたのはね、いくつか妙な点がありましてね…。」
母の膝の上にちょこんと座ってい聞いていた光里が、うつ向いて身を硬くしている。
それに気付いた警部が、父に小声で言った。
「この子、ちょっと席外せますかね?」
「ああ、そうですか、おい、芳輝、部屋へ連れて行って、遊んであげてくれ。」
「あ、でも…うん、わかった。」
芳輝は話を聞きたい気持ちを抑え、光里を連れて2階へ上がった。
警部が話を再開する。
「妙な点というのは、まず、捜索願いが出ていなかったこと。」
「はぁ。」
「まあ、これは、そう珍しいことでも無いのですがね。それと…」
警部は生活安全課の女性の方を見て、顎をクイっと動かし、説明を促した。
「はい、私が母親である清州朋代さんへご連絡を差し上げたのですが、3週間も娘がいなかったにも関わらず、電話のご様子が、驚くでもなく、感謝するでもなく、ご心配の様子が全く感じられないんです。」
「ええ?…」
母が、絞り出すような驚きを含んだ声を出した。
警部が上体をゆっくり起こし、腕を組んで言う。
「普通ね、3週間も行方不明だった娘が見つかったら、飛んできますよ、娘のところへ。」
生活安全課の女性が後を続ける。
「それが、ですね、清州朋代は『そうですか。私はどのようにしたら宜しいですか?』と平然として聴いてきたんです。」
父、母、淳は、ことの異常さが飲み込めてきた。
淳が父をチラッと見てから言った。
「父さん、ちょっと口出すよ。警部さん、それって、捨て子じゃないんですか?」
「それがね、お兄さん、子供を捨てる気だったら、それなりの動揺を見せるものなんだ。それが、清州朋代は淡々としている。おかしいんだな、これ。」
「平静を装う演技では?」
「警察もそれなりに進歩していてね、電話の声から相手の精神状態分析もしている。至って冷静沈着、まるで感情の無いロボットのようさ。」
「その母親には会ったんですか?」
「いや、今日の昼間に彼女が勤める会社を訪ねたんだが、会議やら接客やらで、合わせてもらえなかった。」
「自分の娘がこんな時に…本当にその、清州朋代、実の母親なんですか?」
「出生記録も調べた。間違いなく血の繋がった母親だ。」
警部は腕組みのまま、身を乗り出し、更に続けた。
「それとね、これは本来お話するべきでは無い情報なんだが、父親の清州昌史の死因…自殺だった。」
母が両手を頬に当て、息を飲んだ。
父は眉間にシワを寄せ、言った。
「そんな情報を、なぜ私どもに?」
「現時点での私の判断だが、光里さんを清州朋代に引き渡すのを、少し見合わせたい。」
「少し見合わせる?」
「ええ。今しばらく光里さんをお預かり願えないか、お願いもあって参った次第です。」
父も腕組みをし、目を閉じてしばらく考えると、
「お聞きしますが、これから清州朋代さんの何を調べ、どんな結果が出たら光里ちゃんを帰すのでしょうか?光里ちゃんが心配ではありますが、うちは厄介ごとに巻き込まれるのは御免ですよ。」
と、口調を強めて言い放った。
「ええ、ええ、もちろん、警察としては今日までお預かり頂いただけで感謝状を出したいくらいだ。ただ、清州朋代には直接会い、扶養の義務を果たすに足る人物かどうか見極めたいのだ。」
警部は腕組みを解き、頭を下げつつ、言った。
父は、母の方を見た。
頷いた母を見て、父は答えた。
「解りました。光里ちゃんは引き続きお預かりします。何か問題が起きた時は必ず助けて下さいよ。」
「承知した。」
警部は真剣な眼差しで答えた。
紅河宅を出ると、警部はタバコに火をつけ、独り言のようにつぶやいた。
「良いご家庭だ。この紅河さんは清らかな空気に満ちている。巻き込みたく無いものだ…。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日。
紅河淳は放課後、サッカー部顧問に数日の休部を申し入れると、知人に会うために帰路を急いだ。
県立土蔵西高校の橋石拓実という友人である。
「橋石、急に呼び出して悪いな。」
「おう、どした、キックボクサー。」
「ボクサーでも何でもねーし。」
以前、紅河に蹴られたことを橋石は未だに根に持っているようだが、紅河にとっては最も気心の知れた友人だ。
「で?今日は何だ、紅河。」
「この前紹介してもらった南條君、いくら電話しても出てくれねぇんだ。取り次いでくれよ。」
「あ?また探偵ごっこか?出ないなら諦めろ。あいつは気分屋だから、俺が電話したからどうなるってもんでもない。」
南條義継は、橋石の同級生で、兄が探偵業を営んでいる。
紅河は、清州朋代という女性の調査を相談したく、わずかな貯金から数万円おろしていた。
「頼むよ、電話だけでもしてみてくれよ。」
「お前さぁ、探偵なんて使うもんじゃねえぞ。警察行け、警察。」
「ある人物の素行調査なんだ。警察も動いてる。けど、今回はなんかキナ臭くてさ、警察は面談調査らしいんだけど、別の角度からも、こう、なんて言うか…」
「ああ、わかった、わかった、ちと待て。」
橋石はスマホを取り出し、電話を掛けた。
「あ、義継、お前、貸した金いつ返すんだよ。…え?…うん、うん…またかよ、うん…ダメだ、今から来い。例の、うん、そう。待ってるぞ。じゃな。」
橋石は電話を切ると、紅河に言った。
「呼び出した。会ったら後は自分で交渉しろよ。それとさ、俺も紅河に頼みがあるんだ。」
「おお、なんだ?」
「ちとさ、後輩が他校のやつとトラブっててさ、手を貸してくれないか?」
「他校とトラブル?喧嘩とか無理だぞ、俺。」
「ああ、お前が見掛け倒しなのはよく知ってるよ。喧嘩とかにはならない。居てくれるだけでいい。」
「まぁ、お前の頼みなら、断れんな。」
「おし。んじゃ行くか、義継に会いに。」
橋石は思う。
紅河淳は自分の有名さに全く気付いていない。
噂の実際は、『紅河淳は一年の12月にサッカー全国大会出場を経験した天才プレイヤーで、180cmの長身と身体能力の高さは凄く、普段は穏やかだが怒らせると手の付けられない暴れ者』というもの。
前半は事実と合っているのだが、暴れ者ではないし、逆に臆病な一面がある。
いろいろ尾ひれが付いた噂なのだろうが、サッカー実績については雑誌にも写真付きで載っている。
紅河と知り合い、というだけで、この界隈ではスゴイと言われることもある。
呑気と言うか、無自覚と言うか、結構助けられてるんだぜ、お前の名前を出すだけでさ…。
待合わせの喫茶店に入ると、テーブルにうつ伏せになって寝ているセーラー服の女子高生がいた。
いや、正確には女子高生ではない。
女装の男子高生、南條義継である。
南條はいつも女性のカッコをしている、なんとも難解な男子だ。
「んあ?」
紅河と橋石がテーブルに着きコーヒーを頼んだ時、南條は寝ぼけた声を出して起き上がった。
相変わらずの美形で、体型の線の細さや色の白さを見ても、黙っていれば女子にしか見えない。
「キョウ、いたのか、金ないよ。…あ?何だ?そっちの大男…。」
「金はいいよ、いつでも。こいつは紅河淳。一回会ってるだろ。」
「紅河です、この前はどうも…。」
「クレカワ!?」
義継は長いまつ毛をパチパチと瞬かせ、マジマジと紅河を見た。
「あー、おー、紅河クンだ、何してんの、こんな所で。」
「うん、また治信サンに相談したくて、義継クンに一言ことわっておこうと。」
治信とは、義継の兄で、私立探偵をしている。
「兄貴に?やめときな。金ボッたくられるだけだから。」
「ある人物の素行調査なんだけど。」
「素行調査?」
義継は飲みかけていた自分のアイスカフェオレをズズッとすすり、両手の先を組んで「んんー!」と伸びをすると、頬杖をついて紅河に聞いた。
「その人の何を知りたいの?」
紅河は、要点が伝わるよう最小限の言葉を選び、答えた。
「対象は32歳の女性、商社に勤める。営業部門の部長らしい。その女性の…」
義継は頬杖をやめ、上体を起こし、紅河の言葉を遮るように言った。
「32歳、女で、商社の部長?」
「ああ、警察の調べだから間違いない。」
「異常な早さの出世だな…。」
義継は思考を巡らせる。
女性が商社の部長になること自体、簡単なことではない。
大抵、社長の娘か取締役役員の身内か、であるが、役員の身内であっても、部長という席は飛び越し、専務などになることの方が多い。
部長とは実務責任者であり、結婚や出産、育児の可能性がある女性には就かせないことが多い。
実力で部長に就いたとすると…
「で?」
「その女性には4歳の娘がいるんだけど、扶養の義務を果たせるかどうかに疑問あり、で、要は、娘に対する母親としての愛情を持ちあわせているかどうか、を知りたいんだ。」
「そんなことを調べようとする理由は?」
「これもストレートに言うぞ。俺は、虐待を疑っている。それに、その旦那は自殺している。」
義継はしばらく黙って考え込んでいたが、スマホを出すと電話を掛けた。
「兄貴、AAです。F32、Dが1の4、BのB、更にHがQです…はい。それで、SA確認、僕、行っていいですか?…はい、うん…」
探偵の兄、南條治信に掛けているようだ。
アルファベットや数字で話しており、何のことだか判らないが、どうやら力を貸してくれるらしい。
義継は電話を切ると、深呼吸をし、心なしか深刻な表情をして紅河に言った。
「紅河クン、情報だけ見ると少々危険なパターンだ。君独りでは絶対に動くなよ。」
「何が危険なんだ?」
義継は紅河の質問には答えず、捜査対象の女性の詳細情報を求めた。
紅河は、清州朋代の自宅、勤め先、携帯番号、警察から得た『電話の会話』の情報などを渡した。
「いいかい、くれぐれも、独りではその女と接触するな。電話も駄目だ。」
義継の声は震えを伴っており、顔は心なしか蒼ざめてきている。
「…解ったよ、そうする。調査はどう進めるんだ?」
「この女とのアポを僕が取り付ける。紅河クンは来なくていい。」
「おい、それはないだろ。」
「危険なんだよ!」
義継が声を荒げた。
紅河は気押されずに、毅然として言った。
「危険なら尚更、義継クンに押し付けることは出来ない。俺が会うから何をしてくればいいのか教えてくれ。」
義継は紅河の目を睨み続けていたが、一旦視線を落とすと、静かに言った。
「このファーストコンタクトは、相手の危険性を調べるのが目的だ。僕にしか出来ない。どうしても、と言うなら、それなりの変装をして同行してもらう。最悪の結果の場合、君が『紅河淳』だということを知られたくない。偽名も用意する。」
「判った。同行させてくれ。」
黙って聞いていた橋石が、深刻な表情で義継に聞く。
「SA確認って、もしかして…」
「ああ、そうだ。ハズレであることを祈りたい。」
橋石の顔も蒼ざめていく。
紅河は、突然思い出したように義継に聞いた。
「あ、義継クン、こんな厄介なことを簡単に引き受けてくれたけど、どうして?」
義継は当たり前のような顔をし、
「紅河クンのことが好きだからだ。」
と言った。
女子高生の容姿で、真顔でそんなこと言わないでくれ…と、紅河は内心思った。
紅河は自宅に戻り、義継からの連絡を待つこととなった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日から紅河淳は、授業の合間、休み時間の度に学校据付けの電話から義継の携帯にワン切りを入れた。
義継は行動を起こす時、1分以内に折り返すことになっている。
なるほど、こういう時に携帯電話を持っていた方がいいのか…と紅河は思った。
義継の清州朋代へのアポ取りは難航しているようだった。
だが、今は任せて待つしかない。
警察の動きはどうなのだろう。
もう清州朋代との接触をしたのだろうか。
帰宅後、母がいつものように夕食の支度をしている周りで、光里がウロウロまとわりついているのが目に入った。
どうやら手伝いたいらしく、時折背伸びをしたりしている。
微笑ましいな、と思いながら見ていると、光里がまな板に手を伸ばした。
包丁が乗っている。
「ダメ!危ない!」
母が強めに叱ったその時だった。
光里は急に後ずさり、「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」と繰り返し言いながら、玄関の方へ走っていった。
「あら、光里ちゃん?」
母と淳は光里を追いかけた。
光里は玄関の土間へ転げるように下りると、
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」
と言い続けながら、土間に正座をした。
「ちょっと、光里ちゃん…」
母は驚き、土間に正座をしている光里を抱き上げようと手を伸ばすと、
「悪い子ですごめんなさい悪い子ですごめんなさい悪い子ですごめんなさい…」
と言いながら、更に平伏するように手と顔を土間に付けた。
「ひかり!」
淳は土間にくつ下のまま下り、身を硬くして震えながら平伏している光里を強引に抱き上げた。
光里の目は恐怖に怯え、「悪い子ですごめんなさい」をうわごとのように言い続けている。
淳はギュッと光里を抱きしめ、そして優しく言った。
「俺が、淳兄ちゃんが光里を守ってやる。」
母は、淳に抱かれる光里の頭を撫でながら、
「ごめんね、大きな声出して、ごめんね、光里ちゃん。」
と、涙ぐみながら言った。
「母さん、光里、どんなヒドイ仕打ちをされていたのか…渡せないな、絶対に。」
「うん…玄関に降りて正座だなんて…ひどすぎるわ…」
淳は光里を抱いたままリビングに戻り、発作が治るまでソファーに座り光里を抱き続けた。
「光里、大丈夫か?」
淳の言葉に光里はビクッと身体を震わせ、
「あつし」
と言った。
目が正気に戻っている。
発作は治まったようだ。
「母さん、心療内科、だっけ、様子を見て光里を連れて行こう。」
「そうね。私、もう二度と怒鳴らないわ。ごめんね、光里ちゃん…。」
「いや、母さんが悪いんじゃないよ。怒鳴らないように気をつけるのはそうだけど、普通に叱っても平気な、健康な子にしてあげないと、ね。」
「そうね、うん、そうね。」
母は涙を拭きながら、光里の頭を撫でた。
「かあさん、おりょうりしたい。」
光里は母を見て言った。
母の目には、また大粒の涙が溢れてきていた。
夜の10時頃、紅河宅の電話が鳴った。
南條義継からだ。
「淳です。うん、うん…付け髭?うん、うん…スーツか、親父に頼んでみるよ…え?名刺まで作ったの?うん…判った、ありがとう。」
清州朋代とのコンタクトの日時が決まった。
義継は、二次問屋の仕入部門を装い、取引交渉という建前でアポを取り付けたようだ。
驚くべきことに、有限会社として実在する問屋を使うらしい。
商談自体は、清州朋代の会社が提示する条件を『飲めない』として交渉決裂、を前提とするとのことだ。
高校生にこんな演技が出来るのだろうか?
『紅河君は黙って座っているだけでいい』とは言ってくれたが…
光里のストレス障害のような発作を目の当たりにした淳には、結論はもう出ているようなものだったが、それでも、清州朋代がまともな母親であることを心のどこかで願っていた。
光里の発作の原因が、亡くなっている父親にあった可能性もある。
実の母親と幸せに暮らせるなら、それに越したことはない。
「それを見極める…。」
淳の身体に、武者震いが走った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
清州朋代との接触の日が来た。
紅河淳が一番苦労したことは、学校を休むことに両親の了解を得ることと、父のスーツを借りる理由付けであった。
嘘をついてもいずれバレる、と思った淳は、正直に清州朋代と会うこと、その目的を両親に話した。
猛反対されたが、光里の発作のこともあり、最終的には許可を得られた。
父より5cmも背が高い淳のスーツ姿は、袖も裾も短かったが、『頼りない営業マン二人組』を装うには、ある意味合っているとも言えた。
驚いたのは南條義継の営業マン姿である。
土気色にドーランを塗った顔、ヨレヨレのスーツに安っぽいネクタイ、黒く染めたオールバックの頭髪、どこをどう見ても疲れたサラリーマンであった。
紅河は、義継から渡された丸い伊達メガネと、鼻の下に付け髭を付け、偽名の印刷された名刺を持った。
「紅河クン、挨拶以外は一言もしゃべらなくていいから、今から言うポイントをチェックして欲しい。」
義継は紅河に顔を寄せ、小声で言った。
「第一印象が明るく魅力的であるかどうか。口達者であるかどうか。自慢話をするかどうか。指示するような命令口調が入るかどうか。誤りを指摘された時、認めるかどうか。僕がわざとお茶をこぼし熱がるから、目の表情に変化が起こるかどうかも見てくれ。」
紅河は頭に叩き込んだ。
二人は約束のホテルロビーへ向かった。
約束の時間を20分程過ぎ、清州朋代が現れた。
清潔感のあるブラウンに染められたショートカットに、小さなピアスを付け、レディーススーツは濃いブルーを着こなし、胸のブローチは鮮やかな赤である。
名刺交換を済ませ、テーブルに座り直すと、清州朋代はいきなり自分の自慢話を始めた。
「…でね、女部長って珍しいでしょう?使えない部下ばかりでねぇ、毎日怒鳴り散らしてばかりなのよぉ。」
会社のアピールならともかく、義継のチェックポイントに無かったとしても、これはウンザリするな、と紅河は思った。
「それで?御社のご条件は?」
「はあ、こちらでお願いしたいのです。」
義継が予め用意した取引条件の資料を差し出した。
「ふん、返品は受けられないわねぇ。下請法はご存知よね?この項目は消しなさい。」
指示口調である。
義継が返す。
「存じておりますが、商品の隠れた瑕疵など、御社に原因がある場合は下請法の禁止事項には抵触しないかと。」
「あなたね、弊社と取引なさりたいのでしょ?下請法どうこうより、返品は一切お受けしない契約にして下さらないとお話しにならないわね。」
誤りを認めない上に、自ら提示した法の件を否定するように流した。
義継がコーヒーを飲もうとし、自分のヒザに落とした。
「あちっ、熱つつ…。」
清州朋代は目の表情どころか、反応しない。
義継の挙動を無視しているようだ。
少し間があり、思いついたようにクイッと頬の筋肉を持ち上げ、
「あら、大丈夫かしら?」
と義継の方を見た。
なんと気味の悪い反応だ、と紅河は思った。
警部が『まるで感情の無いロボット』と比喩していたのを思い出す。
義継が、ハンカチで、コーヒーで濡れたスラックスをゴシゴシ拭きながら言った。
「条件が合わないようですね、至らずに申し訳ございません。」
「いえ、弊社も商売ですから、ご理解下さいね。」
「あの、最後に、世間話みたいなもので恐縮ですが…」
「はい?」
「清州部長様、『人と闘う仕事』と言うと、何を思いつかれますか?」
「ええ?…さて、なにかしら。思いつかないわね。」
「あ、いえ、ほんの世間話で…有難うございました。」
「こちらこそ。条件が見直せるなら、またいつでもご連絡下さいね。」
そう言うと、清州朋代は立ち上がり、いそいそと去っていった。
紅河は、お茶代の伝票には目もくれず出て行きやがったな、と言おうとし、義継の方を見て、驚いた。
義継は歯を鳴らしながら震えている。
「く、くれ、紅河クン…あの女のことは忘れるんだ。に、二度と関わったらい、いけ、いけない…。」
「どうしたんだ、義継クン。気分が悪いのか?」
紅河は、目に見えて手足を震えさせている義継の肩を触り、心配そうに聞いた。
義継は、震える身体を必死に抑え、ゆっくりと紅河の方を向き、言った。
「あ、あいつは…サイコパスだ。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
紅河淳は、小刻みに震えている南條義継を連れ、タクシーを拾うと南條探偵事務所へ向かった。
少々距離はあるが、今の義継を電車に乗せるのは酷だと思ったからだ。
南條探偵事務所に着くと、義継の震えはようやく落ち着いたようだった。
探偵事務所の主であり兄の南條治信が、弟義継の様子を見て言った。
「ストライクだったか、義継。」
義継は過呼吸でも起こしたかのように「はっ、はっ、はっ…」と何度か短い呼吸をし、最後に長い息を吐くと、返答した。
「ああ、筋金入りだ。」
治信は、義継の肩を軽く撫でると、
「そうか。辛い仕事だったな、ご苦労様。」
と言うと、ソファーに座り、タバコに火を付け、続けて話し始めた。
「まず、紅河君。義継の『診断』は確実だ。清州朋代というのは、人間ではない。絶対に関わるな。」
「人間では、ない?」
「ああ。良心をカケラも持たない怪物、サイコパスだ。」
「サイコパスって、精神異常者、でしたっけ?そんな風には見えなかったですが…。」
「反社会性精神病質と言い、決して治ることのない病質だ。」
「はぁ。」
「必ずしも他人を傷付ける者ばかりではないが、人の痛みや苦痛、また喜びや怒りが、全く理解出来ない脳構造をしているらしい。だから…」
治信はタバコの煙を「フゥー…」と長めに吐き、こう続けた。
「泣き叫んでいる人間の手や足を、まるでキャベツでも切るように、平然と切り刻むことが出来る。
理解できないと言うか、感知する脳器官がない、と言った方が正しいかも知れない。
その恐ろしさは、私と義継がよく知っている。」
治信氏は遠い目をした。
「実の父が、サイコパスだったからな。」
治信氏が更に続けて話したことは、紅河にとって身の毛もよだつものだった。
治信と義継は、異母兄弟であった。
父親が同じで、治信の実母も、義継の実母も、精神的に追い詰められ、廃人のようになって亡くなったという。
「紅河君、私からのアドバイスは一つだ。」
そう言うと治信氏は、タバコを灰皿で揉み消しながら言った。
「清州朋代が子供を返せと言ってきたら素直に引き渡すんだ。争おうなどとは思わないでくれ。でなければ、君も、君のご家族も、ボロボロに破壊される。」
「そんな…」
「私も手伝うことは出来ない。人間は、サイコパスには勝てない。」
紅河淳は南條探偵事務所を出て、家路についた。
家族を守るなら、光里を守ることは出来ない。
本当にこの一択しか無いのだろうか?
とにかく、警察の保護を最大限に活かせるよう、今日手に入れた事実を、まずあの警部に伝えよう、と紅河は思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
紅河淳は家族を必要以上に怯えさせないよう、『サイコパス』という単語を伏せ、『清州朋代は危険な感じがした』とだけ、父、母、芳輝に伝えた。
先日訪れた警部に何度かアポ取りを試みたが、別の事件で忙しいらしく、なかなか会うことが出来なかった。
数日後、淳が学校から帰宅すると、いつもリビングでテレビを見ている光里の姿がなかった。
「母さん、光里は?」
「そうそう、今日ね、警察の女の方が見えて、連れて行ったわ。」
「どこへ?」
「お母様のところへ返すそうよ。なんか、ちょっと寂しいわね。」
「なんだって!?」
淳は背筋に悪寒が走った。
「おい、母さん、光里の発作、知ってるだろ?あんな母親のところに…。」
「警察もね、よくよく調べてのことだそうよ。清州朋代さん、明るくて優しい良い母親ですって。」
「そんな…」
淳は警察の生活安全課へ電話を掛けた。
「…はい、はい、いや、ちょっと待って下さいよ…鑑定?…そんないい加減な!あの、反社会、なんだ、精神病、じゃない、細かい精神鑑定は?…え!?心配ない?ふざけるな!」
淳は受話器を電話機へ叩きつけ、制服のまま家を飛び出した。
清州朋代の自宅へ自転車を走らせる。
治信氏の言葉が頭をよぎる。
『争おうなどとは思わないでくれ』
『君も、君のご家族も、ボロボロに破壊される』
『人間は、サイコパスには勝てない』
「光里に言ったんだ、俺が守るって…。」
午後6時半を回り、日はすっかり落ちていた。
キキィ…!
『清州』という表札が石作りの門柱に、ぼんやりライトアップされ、浮かんでいる。
ここか…。
なんと言うことはない、住宅街の中の大きくも小さくもない一軒家である。
普通過ぎる佇まいが、逆に不気味に感じた。
玄関の灯りがついている。
どうする?
呼び鈴を鳴らすか?
紅河淳は、音を立てないよう、門を入り、玄関へ近付いた。
…さいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…
光里の声だ!
淳は反射的に玄関のドアノブを掴んだ。
ガチャ、ガチャガチャ!
開かない。
鍵がかかっている。
そこにいるのか?清州朋代!
玄関ドアの左脇はブロック硝子になっており、中の様子がぼんやり輪郭だけ見える。
ゆらり、と大人の人影が動くのが見えた。
淳は、開けろ、と言おうと思ったが、思いとどまった。
『人の感情を感知する脳器官が無い』
…であれば、叫んでも無駄だ。
悪い子ですごめんなさい悪い子ですごめんなさい悪い子ですごめんなさい悪い子ですごめんなさい悪い子ですごめんなさい…
光里がうわ言のように唱え続けている。
淳は庭に回り、入れる所を探した。
雨戸はまだ閉められていなかったが、庭のガラス戸は全て鍵が掛かっている。
「ちっ!」
庭に立て掛けてあった金属製のスコップを掴むと、淳はガラス戸を割ろうと叩き始めた。
ガッ、ガッ、ガィッ、ガッ…
なかなか割れない。
ガッ、ガィッ、ガシッ、ビシッ…
ヒビが入った。
淳はもっと重みのあるものを探した。
「フッ!」
目に入った自転車を両腕で持ち上げると、ブウンッと一回転振り回し、ヒビの入ったガラス戸へ投げつけた。
ガッシャアン!ドシャッ!バラバラバラ…
自転車はガラスを突き破り、辺りに硝子の破片が飛び散る。
淳は割れたガラス戸から手を入れ、ロックをクルッと回すと、ガラガラッとほとんど枠だけとなったガラス戸を開け、中に駆け込んだ。
右手を硝子の破片で数カ所切り、血がにじんでいるが、気にもとめなかった。
リビングを通り、玄関を探す。
短い廊下を曲がると、玄関にかがんでいる女の姿が見えた。
「悪い子は、動かないのよ。悪い手は、外しましょうね。」
屈んでいる女の下に、平伏すような姿で、光里がいた。
女の右手には包丁があり、左手は光里の二の腕を抑えつけている。
『まるでキャベツでも切るように、平然と切り刻むことが出来る』
「!」
淳は駆け寄ると、女の背後から頭髪と服の襟を鷲掴みにし、力任せに引き上げた。
女…清州朋代は声も上げず、ガクンと引っ張られた頭をそのままのけ反らせた。
逆さまの顔が、淳を見た。
「邪魔。」
清州朋代はそう言うと、右手の包丁を淳の脇腹に突き立てようとした。
淳は掴んだ両手を力ずくで左方向へ投げた。
ドサッ!
清州朋代が倒れる。
淳は土間にいる光里の方を見た。
右手に一筋の赤い線が浮かんでいる。
皮膚の表面を数センチ切られただけのようだ。
「これは何かしら。」
無表情に言葉を発して清州朋代が立ち上がり、淳の喉元をめがけて包丁を振り上げる。
淳の反射神経と身体能力は奇跡的な動きを見せた。
身体をのけ反らせ、フワリと左脚を上げたかと思うと、左脚を素早く戻し、右脚を垂直に蹴り上げる。
淳の右脚の革靴、その爪先は、清州朋代の顎にまともに当たった。
それは、淳が部活で遊び半分に試していた『オーバーヘッドキック』だった。
「ガフッ!イギッ…」
清州朋代は妙な声を出し、顔を天井に向けたままゆらゆらとよろけた。
淳はドスッと背中から床に着地した。
清州朋代は倒れず、カクンと頭を光里の方へ向けると、
「先に外しましょうね、悪い手を。」
と言った。
口の中を切ったらしく、真っ赤なよだれを垂らしている。
開けた口の中も、歯が真っ赤だった。
淳は戦慄した。
この女は痛みを感じないのか?…
そして、同時に、人の顎を蹴ってしまった罪悪感が込み上げ、身体が震えてきた。
淳は上半身をやや起こし、震えながら、光里に近付く清州朋代を見ていた。
「…なさい悪い子ですごめんなさい悪い子ですごめんなさい悪い子ですごめんなさい悪い…」
「…は!」
光里の声が、淳の放心を解いた。
傷害罪で捕まろうが、構うものか。
決めたんだ。
光里を守る、と。
淳は起き上がり、清州朋代の右腕、包丁を持つ腕に回し蹴りを入れた。
ベキッ!
カラーン…
蹴りは彼女のヒジに入り、包丁は落ちた。
ヒジは変な方向に曲がっていた。骨が折れたようだ。
淳が光里へ駆け寄り、抱き上げた時、外から玄関のドアがドンドンドン!と叩かれた。
ブロック硝子から、赤い回転灯が見える。
「清州さん!大丈夫ですか?清州さん!」
警察のようだ。
あれだけ派手に庭のガラス戸を割ったのだ、通報されていて当然だろう。
淳は、光里を抱いたまま後ずさり、玄関のチェーンを外し、鍵を開けた。
玄関のドアは外側へ開き、もたれかかっていた淳は、光里と共に外へ倒れこんだ。
口が血だらけの女性、
床に落ちている包丁、
女の子を抱いて倒れてきた制服の高校生、
この異常な状況に、警官は一瞬身構えたが、この三人以外には誰もおらず、抵抗する者もなかった為、三人をパトカーへ乗せると現場検証班を呼び、事情聴取へと事を運んだ。
淳は、パトカーの中で意識が遠くなり、闇に堕ちるように、眠りに落ちた…。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
紅河淳は、警察から簡単に帰ることが出来なかった。
清州朋代が被害届けを提起しているからだった。
住居侵入罪、器物損壊罪、傷害罪である。
だが、ある『嘘』から、清州朋代の主張はほころびはじめる。
現場に落ちていた包丁は『少年が台所から持ち出し振り回した』という証言。
包丁から、紅河淳の指紋は全く検出されなかったのである。
紅河淳の方は、
スコップでガラス戸を破損させたこと、清州朋代所有の自転車をガラスを突き破り投げ込んだこと、清州朋代の怪我は全て自分が負わせたこと等を証言、現場検証から全て事実の証言だと認定された。
問題は、紅河淳少年がこのような行動に及んだ動機だった。
紅河淳の証言では、
清州朋代の娘である清州光里が、母である清州朋代に腕を包丁で切られそうになっていたところを助ける為、としている。
だが、清州朋代はそれを否定した。
愛する娘の腕を切るなど、出来るわけがない。包丁は、襲ってきた少年から身を守るために使った、正当防衛だ、と主張している。
ここにも、清州朋代の証言の矛盾が見受けられた。
包丁は少年が持ち出した、と言っておきながら、自分が使った、と訂正している。
実証すべき事象は、
『清州朋代の、清州光里に対する虐待の真偽』に絞られた。
虐待が『真』である場合、紅河淳少年の行動は『清州光里及び自身の防衛』とされ、
虐待が『偽』である場合、紅河淳少年には、清州朋代の提起した被害届けに伴う罪状が適用されることとなる。
この真偽をどう実証するか。
一つは、現場にいた三人目の当事者、4歳の幼女、清州光里の証言。
もう一つは…清州光里が患っているとされる『パニック障害』の再現である。
「いい加減にして下さい。光里に発作を起こさせるですって?」
紅河淳は怒りの眼差しを取調官に向けた。
「僕は、確かに人に怪我を負わせたし、物も壊しましたから、罪を償いますよ。でも、光里にこれ以上辛い思いをさせるのは許しませんよ。」
「そう言うがね、紅河君、我々警察は、君の話が正しいはずだと思っていてね、その確証が必要なんだよ。」
「光里は、母親の仕打ちのこと、何か言ってるんですか?」
「それが、『悪い子は玄関』という発言までは聴けているんだが、母親に何をされているのかは話してくれないんだ。」
「とにかく…光里に発作を起こさせるなんて、人としてやってはいけない事ですよ。」
「それもそうなのだがねぇ…。」
警察署で迎えた2日目の午後1時頃、紅河淳に面会を求める者がいた。
家族ではないとのことで、誰だろう?と思いながら面会室へ行くと、私立探偵の南條治信だった。
「どうも。わざわざ…。」
頭をかきながら応じる紅河に、治信は叱りつけるように言った。
「この馬鹿が。一人で乗り込んだだと?Sの恐ろしさはここから始まるんだ。」
「Sって?」
「Sと言ったらSだ。察しろ、馬鹿。」
「サイ…」
「しっ!全部記録される!」
「…はい。」
「いいか、あれが釈放されたら、あらゆる手を使い君の家庭を破壊しに来る。」
「Sっつっても、女の力じゃ、負ける気しないっすよ。」
「違う。暴力なんか使ってこない。君は学校に居られなくなり、君の父親は会社を追われるだろう。」
「どうやって?」
「偽情報の流布だ。」
「はぁ、よくわかんないです。」
「わからなくてもいい。とにかく、あれを釈放させないようにする。」
「俺も、あんなのが普通の日常に紛れ込むと思うと…。」
「君に言いに来たことは二つ。」
治信は声のトーンを落とし、続けた。
「一つは、ここであれと対峙することがある時、感情を表に出すな。なるべく白けた表情でいろ。Sは人の感情を逆なでし、操ろうとする。無表情、無感情に徹しろ。」
「…はい。」
「もう一つ、『うちの娘』が、清州光里を助ける、と言った。やらせてみる。」
「え!」
『うちの娘』とは、治信の弟、義継のことだ。
「止めたんだがな。どうも、自分と清州光里を重ねているようだ。似た境遇だからな…。」
「もう無理しなくて…」
「あいつ、魔法使いだから、な。」
そう言うと治信は立ち上がり、面会室を出て行った。
そう言えば、以前、義継が「僕は魔法を使える」と言ったことがあったのを思い出した。
単なる中二病こじらせ系だと思い、気にも留めなかったが…。
「いやいや、魔法って、まさか。」
義継は何か特殊なスキルでも持っているのだろう、と紅河淳は思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「清州朋代、面会だが、どうしますか?」
「あら、どなたかしら。」
「シトテンシ、という若い女性だ。」
「聞いたことありませんね。いいわ。会いましょう。」
清州朋代が面会室に行くと、ゴスロリ調の服を着た、赤い瞳の女であった。
だが、頭はゴスロリに似合わないモジャモジャの金髪カーリーヘアに、ヤギのような曲がったツノを着けている。
「どなた?私、営業部長でね、こんな所で保護されているけど、暇じゃないのよ。部下の男達に指示書を書かなければならなくてねぇ。」
清州朋代はニコニコしながら椅子に座った。
ゴスロリの女、南條義継は、名刺を掲げた。
名刺にはこう書いてある。
『使徒天使 愚かな人類を天界へ導く愛の使い』
「こんにちは。」
そう言うと義継は、名刺を清州朋代の目の前でクルクルと数回まわして見せ、胸のポケットへしまった。
清州朋代は表情を変えない。
「あなた、そんな恰好でここまでいらしたの?おいくつ?」
「アゴのアザ、どうされたのです?」
「お年を聴いたのよ?」
「腕の包帯、馬にでも蹴られたのですか?」
「暴漢に襲われてね、もうすぐ多くの罪状で少年院ね。怖かったわ。」
「お宅の包丁、良く切れますか?」
「用が無いなら戻りますよ。」
「悪い子です。ごめんなさい。」
「あら、どんな悪いことをしたの?言ってごらんなさい。」
義継は思う。
人の弱味を知ろうとする、こちらの小馬鹿にしたような発言は響かない…このサイコ女が。
「清州昌史は、良く切れましたか?」
「答えなさい。どんな悪いことをしたの?」
「清州昌史は、どんなオモチャでした?」
「私が質問しているの。答えなさい。」
( あれはうるさい雑音だ。自分で手首を切らせたのよ。 )
「清州光里は、思い通りに動きますか?」
「あなたが答えるのよ。」
( 光里も雑音だ。玄関で踏みつけると静かになる。 )
「『アレハウルサイ雑音ダ』」
「え?」
「『ジブンデ切ラセタ』」
「は?違うわよ。」
義継はニッと笑って言った。
「なにが?」
ダンッ!
清州朋代はテーブルの裏を膝で蹴り上げた。
義継はニタニタと笑いながら更に煽った。
「『光里モ雑音ダ。玄関で踏ミツケルト静カニナル』」
ダンッ!
再びテーブルの裏を蹴ると、清州朋代は目を釣り上げたが、平静を装い言った。
「言ってないわよ、そんなこと。」
( 光里は勝手に歩き回る…足も外そうかしら… )
「嘘つき。」
「私は商社の重役よ。嘘などつくわけないでしょう。」
「『勝手ニ歩キマワル、足モ外ソウ』」
ガタンッ!
清州朋代は急に立ち上がり、テーブル越しに義継に掴みかかろうとした。
部屋の隅でノートパソコンに会話を打ち込んでいた監視係が、慌てて清州朋代を抑えつけ、言った。
「君、妙な会話はやめたまえ。」
後半、義継が発言していたことは、清州朋代の頭をよぎった内容だった。
義継は…相手の思考を読み、それを言葉に出していたのだ。
清州朋代は身体を震わせ、
「言ってない、そんなこと、言ってない…」
と、うわごとのようにつぶやいた。
「なんだ。私が怖くて震えているのかと思ったら、怒りで震えてるのか。『コイツハ邪魔、コイツハ何ダ?邪魔、排除シナクテハ…』」
そう言うと義継はスッと立ち上がり、監視係に肩を抑えられている清州朋代の顔を覗き込み、言った。
「光里を自由にしろ。でなければお前を破壊する。」
監視係が言葉を強めた。
「君!問題発言だ!やめなさいという忠告が聴けないなら…」
「あ、これ、映画のシーンの真似なんですよ。私と朋代さんが大好きな。ねぇ、キヨストモヨさん?」
「…いじょ、邪魔、排除、邪魔…」
今度は言葉にはっきりと出して、清州朋代はブツブツとつぶやいていた。
「ありがとうございました。」
義継は監視係に丁寧に頭を下げると、面会室から出て行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
清州朋代が面会した妙な女性との会話の記録は、清州朋代の反応の異常さが指摘され、正式に精神病質鑑定が行われた。
彼女は反社会性精神病質と診断され、自殺とされた夫の再捜査がなされた。
清州朋代は、殺人罪が適用され、無期懲役となった…。
無罪放免となった紅河淳は、南條探偵事務所を訪れていた。
「治信さんも、義継クンも、本当にありがとうございました。」
頭を下げる紅河淳に、ソファーでスマホをいじっていた義継は、別にいいよ、という意味で右手を上げてチョイチョイと動かして見せ、
治信はデスクでパソコンのモニターを見ながら、「一安心だな。」と言った。
淳は気になっていたことを聴いた。
「あの、義継クンの面会がキッカケで清州朋代の正体が判明したんですよね?どんな会話をしたんです?」
義継は、「んー!」と伸びをすると、
「あの女のドロドロの中身を引きずり出して見せたのさ。」
と言った。
「どうやって?」
と聴く淳に、治信がタバコを咥えたままデスクから出てくると、話してくれた。
義継には、人の嘘を暴く力がある、と言う。
それは読心術のような力で、本心とは違う発言をする相手が実際に頭の中で思っていることを読み取れるのだそうだ。
これが出来るようになったのは、義継が実母を亡くした10歳の時だと言う。
そして、実母を追い詰めた張本人である実父を有罪判決へ導いたのも、この義継の読心術だったとのことだ。
「私にはこんな力は無いのだが、こいつの能力を試した事があってね、驚いたよ。紅河君、飲む?」
そう言うと治信は缶コーヒーを淳に投げてよこし、続けた。
「私は、嘘と本当を交えて話すから嘘を指摘してみろ、と言い、義継と試験的な対話をしたんだ。百発百中だったよ。」
「すごいな、それは。どうやるんだ?義継クン。」
「秘密〜。」
義継は面倒臭そうに答え、こう続けた。
「そん時さ、兄貴が、『まるで魔法だな』って言ったから、魔法って呼んでるだけ。」
治信は両手の平を上に向けて肩をすくめて言う。
「実のところ、私も知らないんだ、どうやって読心しているのか、ね。」
「そうなんですか…。」
「すげぇ眠くなるんだよ、魔法を使うと。あまりやりたくない。」
そう言うと義継は大きなあくびをした。
義継が実父と対峙し、精神病質診断へ追い込んだ後、その場で倒れて丸2日眠り続けたという。
サイコパスの残忍さを知り、母を奪われた経験があり……清州朋代と接触しサイコパスだと判った時は、きっとパニック寸前だったのだろう。
それでも手を貸してくれた。
淳は、心の中で改めて義継に深く感謝をした。
帰り際、事務所を出るドアのところで、治信が言った。
「義継が、君を大変気に入っている。君のような正直で純粋なやつは珍しい、とね。これからも、どうか仲良くしてやってくれ。」
「はい、こちらこそ。」
淳は事務所を後にすると、ふと思った。
てことは、もしかして、俺も心を読まれてた?…
自宅に戻ると淳は、弟の芳輝に本を読んでもらっている光里を見て、安堵のため息をついた。
光里は、正式に紅河家の養女として、戸籍の登録がなされた。
清州宅の玄関での、あの忌まわしい体験…不気味な清州朋代との対峙シーンが頭から離れないが、もうあの女がこの社会に出てくることはない、と思うと、自分の行いは正しかったのだと思うことが出来た。
何日かぶりに、淳は安らかな睡眠を取ることができた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「紅河、理系は判ったが、物理系か化学系かも決めろ。三学期の授業コースを分けなければならん。」
「んじゃ物理で。」
担任に呼ばれ、職員室で進路希望についての確認を取らされていた紅河淳は、物理って将来役に立つのかねぇ…と思いながら天井を眺めた。
日常の生活。
高校生という温室は、退屈だが、楽だ。
これが普通という名の幸せというやつなのだろう。
だが、自分が知らないだけで、学生生活の中にも猟奇的な現実は潜んでいるのかも知れない…と淳は思う。
イジメや不登校などの社会問題は、自分とは無関係な遠い世界の出来事のように思っていたが、誰にも相談できない苦しみにさらされていた幼女が、自分がのうのうと暮らしていた街の近所に、実際にいたではないか。
俺はこの先、何のために、誰のために、何をするべきなのだろう?
漠然としていた疑問は、清州朋代の存在によって、朧げながら形を成してきていた。
自分は正しい、と納得できた時、同時に、ああ俺は生きているのだ、と思えた。
光里の笑顔は、幸せそのものだ。
放課後、サッカー部の顧問に「明日から復帰します」と伝えると、
紅河淳は、橋石拓実との約束を果たしに向かった。
少年の秘かな決意
【完】
小説は現実よりも奇なり。紅河少年の成長を追いかけていた物語は、作者の私も想定していなかった方向へ走り出してしまいました…。
今後も紅河淳君の動向を追いかけ続けたいと思います。