ある朝目覚めると寄生虫になっていた。
ある朝目覚めると巨大な虫になっていた男。
そんな男の物語を読んだことがある。
あれは確か、フランツ・カフカの代表作――『変身』。
虫になってしまった男の名はグレーゴル・ザムザ。
始めてその話を読んだ時、けらけらと腹を抱えて笑ったことを今でも覚えている。
だってそうだろう。過程や心情がどうであれ、人一人が虫に成り果てているのだ。笑うなという方が土台無理な話だ。
劇中の物語が喜劇だろうが悲劇だろうが、ハッピーエンドだろうがバッドエンドだろうが、そんなものは赤の他人の話。いはんや小説の話をや。
人間なんてみんなそうだ。与り知らぬ話は全部笑いの肥やしにしてしまう。
けれどそれでいいのだ。笑いが健康にいいとまで言われる時代に誰かを笑わせられるなら、今は亡き著者だってさぞかし喜んでいることだろう。
むしろそれが偉大な著者への弔いですらある。
だったら笑ってやろうじゃないか、虫になってしまった一人の青年を。
心の底から、賛美し、また蔑視し、ただただけたたましい奇声を張り上げながら。
* * *
俺は頭の中で御託を延々つらつら並べ終えると、水たまりに映る一匹の何かをまじまじ見つめ、必死に笑いかけようとした。
だが、笑いはこぼれてこなかった。
顔に表情がない。いや、そもそも顔がどこなのかさえ判らない。
もう一度、その何かを眺めて首を傾げる。
するとやはり、そいつは俺の動きにシンクロして首らしき部位を曲げてくる。
あ、これ俺だ。
それだけが唯一理解できて、あとのことは解らない。
いや、違う。もっと明らかなことが一つ残っている。
それは水鏡に映る俺の姿が、ミミズのような、あるいは芋虫のような、赤褐色、棒状、肌が滑らか、やたらくねくねしていて、そして何より気持ち悪い――そんな寄生虫になっているということだった。
* * *
「あなたを転生させて差し上げましょう」
「乗った!」
とある夜のことだった。夢の中に現れた白衣の女神の提案に、俺は構うことなく即断即決した。
その時の俺はそれが夢であるとは一切考えることもせず、ただ目の前に降ってきたチャンスにしがみつこうとした。
うんざりしていたのだ、自分を取り巻く現状に。
外の世界から追い立てられるように部屋の中に閉じこもり、ネットの世界へひたすら没頭し、自分ではなく自分の分身だけをひたすら磨き上げる日々。
現実は疲れる。現実は欺瞞。
そんなことを馬鹿みたいに愚痴り続けたら、周囲の人間は虫けらでも追い払うように俺を世界から隔離し、俺の存在そのものを意識の中から消し去った。
なら俺の方から願い下げだ、この野郎。
そう思って第二のバーチャル世界に飛び込んだ。
常人が持ちえない圧倒的な時間をフルに活用し、俺はネット世界の頂点一歩手前まで上り詰めた。
見返してやろうと誓っていた。俺をのけ者にした奴らが如何に現実世界でトップカーストに君臨していようが、こちらの世界では俺の足元にも及ばない虫けらなのだと。
ひたすら効率を求め、下僕を増やし、気に食わない奴は尽く排除した。
結果、俺は第二の世界からも放り出された。
口うるさい、口がでかい、口が汚い。
〝三口〟で煙たがられた。
行き場を失った俺が夢の中に活路を見出してしまったのも、鑑みるに致し方ないことだったように思う。
そう、致し方なかった。
……致し方ないよね?
とにもかくにも、そういう聞くも涙語るも涙の波乱万丈な人生を一変させられるであろう可能性に俺は賭けたのだ。
転生して異世界の勇者にでもなれば、もう俺を馬鹿にできる奴は誰もいない。それどころか尊敬の眼差しを向けられることは必然。
それに何も勇者にならなくたってよかった。
悪の大魔王だろうが村人Aだろうが、どこぞの脇役程度で構わない。それだってきっかけさえ貰えるなら、いくらだって修正は利かせられる。
俺の中に滾っていた思いは、憧れでも愁いでもなく、柵ばかりの現実から抜け出せることへの純粋な期待だけだった。
俺の返事を聞いた女神は「わかりました」と一言口にして、その右手に持っていた杖を振りかざした。
いよいよ始まる、俺の新たな人生譚が。
浮足立つ俺の心を投影したかのように、何百という白い光の塊が俺の周りを跳ねるように飛び交い、俺を包み込む。
そして、白いベールを全身に纏った瞬間、俺の意識はすっと暗闇に溶け込んだ。
* * *
で、目覚めてみればこれである。
なるほどなるほどと、くびれのない首を訳知り顔(ただし表情はない)で縦に振る。
これはあれだな? 今まで散々寄生していただけに寄生虫になりましたっと……つまりそういうことだな?
おいおい、お茶目すぎるぜ、女神さん。こいつぁなかなかウィットに富んだとんちじゃないか、あっはっは。
……。
…………。
………………。
「責任者出せやゴラァァァァァァァァァァ!!」
声にならない声。地面を叩きたくても両腕がなく、プルンプルンと震える体をこれでもかとしならせて地面に叩きつける。
「転生っておま、これ……がっかりってレベルじゃねーぞ!」
地団駄も踏めず、尾ひれ(多分)でピッチンパッタン地面を跳ね回ることしかできない。
「ああそりゃ言わなかったさ! 何に転生できるのか訊かなかったさ! だからって誰が上手いこと言えって言ったよ! 誰が身の上に引っ掛けろって言ったよ! 笑えるわけねーだろ、こんな状況で!!」
慟哭は、しかし誰にも届かなかった。
それどころか矮小な俺を嘲笑うかのように、空から巨大な水の塊が降ってくる。
雨だった。
人ならさして気にも留めないほどの小粒の雨が、今の俺には凶器に見える。雨に恐怖を感じてしまう自分自身が情けなくて、涙が出そうになった。
無論、涙腺すらないので涙の〝な〟の字も落ちてこないわけだが。
雨の弾丸におっかなびっくり慌てふためきながらも、俺は体を折り曲げては伸ばし、這うようにして近くの茂みの下に潜り込んだ。
地面の土に雨粒がぶつかり、跳ね返った水飛沫が俺を襲う。
俺の心は、車が水を撒き上げてぶっかけてきたような不快感と、そして抗いようのない自分の無力感で満たされた。
「お前さんもはぐれか?」
背後から声がした。
つられて俺は振り返る。するとそこに、枝のように細長い胴体を持つ、茶色い謎の生物が佇んでいた。
「あんた、誰だ?」
「わしか? わしはお前さんと同じ寄生虫じゃよ。まあ種類は違うがの」
「寄生虫……」
見れば、確かにそいつは俺と同じようななりをしていた。手足がなく、どっちが頭でどっちが尻か判断できない所などまさしく俺と一緒である。
「じゃああんたも、元々は人間だったのに寄生虫になっちまったクチなのか?」
「んん? お前さんは何を言っとるんじゃ? わしには人間のような高等な種族に寄生する力なんぞありゃせんわい」
「いや、別にそういう意味じゃ……」
話が噛み合っていないなら、それはつまりそういうことなのだろう。どうにも俺の予想は外れたらしい。
この男、根っからの寄生虫である。
……男、だよな?
いやその前に、寄生虫に性別があるのか?
わからん……。
「わしは最近はぐれになった根無し草の寄生虫にすぎんよ。お前さんもそうなんじゃろう? 事実、こんな所に一匹でおるのだからのう」
「……あのさ爺さん、さっきからそのはぐれっていうのは何なんだ? ひょっとして仲間外れ云々の話か?」
もしそうなら仲間外れにされることには定評がある。仲間だと思ってた奴から裏切られることにおいて俺の右に出る奴はいないからな。
……。
今寄生虫でよかったと初めて思えた。でなければ涙でここら一帯を水没させているところだった。
「おいおいお前さん、本当に寄生虫か? 寄生虫の間ではぐれといったら、宿主のいない寄生虫連中のことに決まっておろうが」
「宿主? ……ああ、寄生する対象のことか。つまりこんな所で他の動物に寄生していないでぶらぶらしている俺ははぐれているって言いたいわけだな」
「まあ、そういうことになるの」
「てことはだ、爺さんは最近宿主を失ったのか?」
「ほっほ、わしの場合はあれじゃな……失ったというより、出てきたと言った方が近いかもしれんな。残り少ない余生をちんまりとした世界で終わらせたくなくてのう。どうせ死ぬなら外の世界で、と考えた次第じゃ」
「寄生虫にもそんな奴がいるんのか……変わってるな、爺さん」
「そうかのう」
爺さんがひゅいひゅいと身をくねらせる。照れ隠しというやつだろうか?
にしても安全な宿主の体内から危険な体外へ飛び出してくるなんて、つくづく変わった爺さんである。
人間で言うならあれか、カーテンで仕切った部屋からお日様の下に飛び出して干乾び死ぬ決意を固めるようなもんか。
なんだそれ嫌すぎる……。
「お前さんの方はどうなんじゃ? 以前は何に寄生しておったんじゃ?」
「……自宅、かな」
「ジタク? なんじゃそれ、新種の動物か何かか?」
「まあ、動物っていうか……無機物だな。三食寝床つきの六畳間だ」
「ろくじょ……!? よ、ようわからんが、それはわしら寄生虫には大きすぎるのではないか……?」
「ふっ、あんたと同じさ……俺にとっちゃあちっぽけな世界だったよ。手狭でしかなかったなあ」
「お、おお……まだ若いというのに貫録があるのう。さぞかし立派な宿主だったことじゃろう」
「……そうでもねーよ」
そうだ、全然そんなことはなかった。
部屋が六畳あろうが、生活空間が六畳とは限らない。
なんといっても両親や妹がどうせ出てこない奴の部屋なんだからと、俺の部屋を体のいい物置部屋として使ってたからな。
結局足の踏み場はベッドの上一畳分だけ。
「人間の生活が一畳でできると思うなよ!」と親父に食ってかかったら、「歩合制で外に出た分だけ撤去してやる」で切り返された。できる父親だと思いました、はい。
「しかしあれじゃのう。そんな割のいい宿主から抜け出ているということは、お前さんにもそれだけの事情があるんじゃろうな」
「俺もできることなら出たくなかったよ……」
「誰かに住処を追われたか?」
「ああ。女神の格好した詐欺師にやられた」
やっぱり白ってあれだ……信用しちゃダメなんだ。
表面だけ純白で着飾ってる人間に限って腹の内はどす黒いしな。そういう奴らにとって白は汚れを覆い隠すための一種の迷彩色なのだろう。
「それで、お前さんはこれからどうするつもりなんじゃ?」
「どうするって訊かれてもな……」
これって、そもそもどうにかできる状況なのか?
もちろん人間に戻れるならそれが一番いい。けれど儚い希望なら最初から捨ててしまった方がマシだということを、俺は嫌というほど知っている。
身分相応という言葉通りだ。高望みしないで慎ましく生きていく方がある種得策かもしれない。
でもあれだな……寄生虫だしな……。
慎ましさどころか惨めさの結晶ではなかろうか? いっそのこと断頭してしまった方が質素なレベル。頭ないけど。
考えれば考えるほどどん詰まるので、なんとなくぺとりと地面に横たわってごろんごろんと転がってみる。
あ、これ意外に楽しい。
「そうだ!」
体を回転させることで頭の回転が一時的に加速したのだろうか、俺は一ついいことを思い出した。
すぐにむにゅりと上半身を起こして爺さんに問う。
「なあ爺さん、寄生虫っていえば確か、寄生した宿主の行動を操ることができたよな!? それって俺にもできるのか!?」
「残念じゃが、それは無理じゃ」
意気揚々と尋ねた俺に、しかし爺さんはふりふりと体を横に振った。
「どうしてだよ! 寄生虫ならできるんじゃないのか?」
「確かにできる奴らもおることにはおる。じゃが、そういうのは言わばトップオブトップの奴らのみ。誰だろうとできる芸当ではないわい。第一、どいつもこいつもそんな真似ができるのなら、この星は既に寄生虫の星になっとるとは思わんか?」
「ぐ……言われてみれば……」
またか、寄生虫に成り果てて尚トップカーストの奴らが邪魔するのか……。
ほんと何なんだよ、あいつら。たまには気を利かせて一歩退けよ。譲り合いの精神が大切だって先生に習わなかったのかよ。
所詮、日向者に日陰者の気持ちなんかわかりはしないってことか。まあ俺の場合は日陰を極めすぎて存在そのものが日蔭になってるけどな。小学校時代いっぱいヒカゲマンの愛称で親しまれた俺に死角はない。
「力が足りん以上、地道に励む他ないのう。まあお前さんならそれなりの物件を見つけられるじゃろうから、諦めずに頑張ればよいとわしは思うぞ。老害の言うことじゃがな」
「頑張れば、か……」
今の俺に耳はない。なのに爺さんの言葉は俺の芯まで到達し、強く胸を震わせた。
――頑張る。
俺はそれを、これまでの人生の中で一度でもやってみたことがあっただろうか?
いや……きっとなかったのだろう。もしあったのなら、俺はきっとこんな目にあってはいないはずなのだ。
頑張るだけ無駄だと最初から諦めて、達観する振りをして誤魔化してきた。
無様だっただろう。
格好悪かっただろう。
絶望的な壁を前にして、絶壁半ばで落下する痛さや辛さを想像した。だけど、想像で身を縮こまらせて壁の前で佇むだけの自分が、結局は一番痛々しかったのだ。
でも、今は違う。
今の俺はちっぽけな寄生虫でしかない。
これ以上、失うものなんて一つたりとも持ち合わせていないのだ。
「爺さん、あんたさっき言ったよな? 俺には力がない。だから宿主を操ることはできないって」
「あ、ああ、言ったが、それがどうしたんじゃ?」
「なら、力さえあればできるんだよな? 今の俺には無理だとしても、そこに未来は含まれないんだろ?」
「馬鹿な!? まさか、お前さん……」
爺さんの体はプルプル震えていた。
「無理じゃ! それには莫大な労苦が求められる。それだけでならまだしも、運にさえ左右されるのじゃぞ!? 努力が報われる保証などどこにもないわい!」
「それでも! ……やってみる価値はあると、そう思わないか?」
「む……」
爺さんは一度言葉を詰まらせるとそれきり口を開かず、雨空を仰いで降り注ぐ雨粒をしばらく見つめていた。
ひょっとしたらだが、爺さんは、雨粒の向こうにありしの日の記憶の情景を見ているのではないか。勝手ながらにそんなことを俺は考えていた。
「ちんまりとした世界に引き籠ってたのは俺も同じだ。けど、俺は知ってるんだ。そのちんまりとした世界の外に馬鹿みたいにでかい世界があることを」
――馬鹿みたいに嫌っていた大嫌いな世界があることを。
「どうだ、爺さん。どうせ老い先短い命なら、冥土の土産として、人間の目から見たその馬鹿でかい世界の光景を、持っていく気はねーのかな?」
そうして最後に、「質は保証してやるよ」と付け添えて、笑えもしない体なのに、俺は満面の笑みを浮かべてやった。
「く、くく……」
零れる笑い声は俺のものではない。
爺さんは笑い声を抑えるようにして上半身を震わせていた。そこにはもう、さきほどの驚きや憤りなど欠片もなかった。
次第に我慢の限界を迎えたのだろう。爺さんが堪え切れずに笑い出す。
まるで人間がお腹を押さえて笑い転げているかのように、爺さんは体を曲げてひたすらに笑っていた。
そんな状況でも爺さんはなんとか俺の方へ体を捻り、そして言う。
「お前さん、本当に面白い奴じゃな。わしは今、今日ここでお前さんに話しかけてよかったと、そう心の底から感じとるよ」
「じゃあ……決まりだな?」
「じゃな」
この体には掴むための手も、ぎゅっと重ね合わせるための手も、高らかに打ち合わせるための手も、何一つ備わっていない。
だから俺たちは、景気づけとして、合図として、そして――約束として、お互いの額を強く強くぶつけ合った。
「さあいくぜ、爺さん。狙うは食物連鎖の頂点――人間様だ!!」
雨は止み、ぱっくり割れた頭上の雲の隙間からは、綺麗な晴間がどこまでも遠くへ広がっていた。
* * *
ある朝目覚めると巨大な虫になっていた男。
そんな男の物語を読んだことがある。
虫になった男を最初は心配する家族も、やがてその男を忌み嫌うようになり、迫害する。そうして最後に男は死んでしまう。
家族にために身を削って稼ぎ続けた男の末路にしては、あまり悲惨すぎる物語。
同時に、あまりに滑稽な物語。
そしてその時、知ったのだ。
知って、笑うしかなかったのだ。
人間は、誰しもが何かに寄生しなければ生きていけない可哀想な生き物なのだと。
人はそれを友情とか、恋慕とか、信頼とか、聞こえのいい台詞で飾りつけて、真実を煙に撒こうとする。
相互扶助や相思相愛を謳うくせに、都合が悪くなれば、宿主を捨てて別の住処を見繕い、簡単に関係を切り捨てる。
それが酷く醜いことに思えて、いつしか顔を背けることで平常を保とうとしていた。
見つめることすら、最初から放棄していた。
けれど、きっとそれではダメなのだ。
見ることでしか、解らないことがきっとある。
一見醜いとしか思えないそんな世界にも、どこかに意味はあるのだろう。
だから見にいく。
彼らが誰かに寄生して生きているのなら、寄生することで生きていられるのなら、自分も寄生することで彼らの世界を覗き見てやるのだ。
そしてそこから見た世界をそっくりそのまま彼らに教えてやればいい。
それで何が変わるというわけでもない。
自己満足すらできないだろう。
だがしかし、まああれだ。
ただの笑いの肥やしにでもしてもらえるのなら、そんなことでさえ、俺にとってはきっと十分なのだ。