野獣と娘の物語
そこは魔の森と呼ばれていた。ほかの森では見られない不思議な生き物がいて、不思議なことが起こるからだ。
野獣は昔からその森にいた。
人のように二本で立つ足、器用に動く指、その姿は、人の形によく似ていた。けれど、毛むくじゃらの肌も、大きな大きなその体も、不思議な色をしたまなこも、人とは全く違ったものだった。
突然その森に生まれ出でた野獣は、人の入ることのほとんどないその森で、静かに静かにくらしていた。
ある日のことだ。この森に絹を裂くような悲鳴がひびいた。
叫ぶ声は、森の奥へ、奥へと向かってきている。
不思議に思った野獣が見たのは、必死に逃げまどう娘と、それを追いかける三人の男の姿だった。
野獣はそれを見て嫌な気持ちになった。だからうなり声を上げながら少女が逃げる先へと姿を現すことにした。人は野獣を見るとこわがることを知っていたからだ。
人の背丈を半身ほど超える大きな体が、のそりと木の陰から現れたものだから、少女も、男達もひどくおどろいた。
男達は息をのんで、叫びながらその場を走り去った。
けれど娘は逃げることをせずにその場にいる。どうやら驚きすぎて腰を抜かしているようだった。
野獣は娘を起こしてやった。
びっくりしていた娘は、すぐに野獣が自分にいじわるをする気がないことに気がついたようだった。
そしてはらはらと涙を流しながら、娘は追いかけられたわけを話した。
それはこういうわけだった。
娘はもともとお母さんと二人暮らしをしていた。けれど、そのお母さんが死んでしまって、娘は食べるのにも困る暮らしをするようになったのだという。するとそれを知った村の若い男達が悪さをしようと追いかけてくるようになったのだ。
今日こそはもうダメかと思ったのだが、ここへ来て何とか助かった。
野獣は「うー」とうなり声を上げながら娘を見た。
心配するその声が分かったのか、娘は涙をぬぐってにっこりと笑った。
「助けてくれてありがとう」
娘にそういわれて、野獣はびっくりした。人にお礼をいわれたのも初めてで、笑顔を向けて貰ったのも初めてだったからだ。
野獣は、とても、とてもうれしかった。
それから娘は、野獣に会いに来るようになった。
野獣に会うと、娘はそばでたわいのないはなしをしては、楽しそうに笑った。一緒に木の実をひろって、それから山菜やキノコをとった。くだものを二人で分け合った。きれいな花を摘んで花束を作った。冠を作った。首飾りを作った。娘は野獣にそれをかぶせて楽しげに笑った。
そうして、きれいな泉のそばに座って、ゆっくり、ゆっくりと静かな時間を過ごした。
野獣は娘がおとずれるのが楽しみになっていた。
娘は野獣をこわがらなかった。それどころか、野獣をまっすぐに見つめて、
「あら、あなたの目、とてもきれいな色をしているのね」
なんていう。
たしかに、野獣の目の色はきれいであった。玉虫色というのだろうか、それとも夜の虹といえばいいのだろうか、とても不思議な色をしていた。
娘がきれいといってくれたから、野獣は自分の目の色が大好きになった。
娘が森にやってくる日が、何日も、何日も続いた。
けれど、ある日、ぱたりと娘が森に来なくなった。
野獣は不思議に思った。
明日は来るだろうか、明後日は来るだろうか。娘がいつもやってくる泉のそばで何日も、何日も待った。
けれど、待っても待っても娘は来ない。
娘に見せたいと思った花が咲いていたのに、それもそのうちしおれてしまった。
野獣はとうとう娘の住んでいる村のふもとの近くまでやってきた。
けれど村に行ってはいけないことを知っていた。野獣は人に恐れられている。もし村に行ってしまえば、殺されてしまうかもしれない。それでも野獣は村のふもと近くで、何日も娘を待っていた。
ある日、村が騒がしくなった。野獣はこっそりとその様子を見ていた。
やせ細った娘がよたよたとしながら森へと向かってきている。せっかんされたのか、体中に傷がつき、服もぼろぼろで血がいたるところについていた。
そして、逃げ出した娘を見つけた村人達がおおぜいで追ってきはじめた。
村ではちかごろ、はやりやまいでたくさんの人が死んでいた。その時、村をこっそり抜け出して野獣と会っている娘を村人が見つけてうわさした。魔の森のケモノと通じて、娘が村にはやりやまいをおこしたのだと。娘を追いかけていた男のしわざであった。娘がいうことを聞かないのでいやがらせをしたのだ。
なんということだろうか、村人達はそれを信じてしまった。娘がびんぼうでつらい思いをしているから村を恨んだのだろうと、口々に娘をせめたてた。
娘は閉じこめられて、呪いをとくようにつめよられて、何度も鞭で打たれた。けれど身に覚えのない娘はこたえられない。何日も何日も痛めつけられる日が続いた。
そしてすきを見て命からがら逃げ出してきたのだ。
村のふもと近くにいる野獣はそんなことは知らない。
何が起こったのかわからないまま、傷だらけでやつれ果てた娘を見つけた。追いかけてくる村人達を見た。
ぼろぼろの体で森に向けて走りながら、娘が野獣を呼んだ。野獣がすぐそこにいるとは知らないはずなのに、娘はいっしょうけんめい野獣を呼んだ。そんな娘を村人が捕まえて取り囲む。
野獣は森から飛び出した。
雄叫びを上げながらかけよって、今にも娘を痛めつけようとしている男をなぎ倒した。恐ろしげな声で叫びながら娘を取り囲む村人達を牙と爪で引き裂いた。
それを見ていた村人達は、うわあと声をあげて、蜘蛛の子を散らすようにちりぢりに逃げてゆく。
けがをした村の男達も、大きな野獣におびえて震えながら傷ついた体を引きずり逃げようともがく。
野獣は娘をこんな目に遭わせた村人達を許せないと思った。
けれど、傷まみれで薄汚れたまま地べたに這いつくばっている娘が、野獣に向かってにっこり笑い、
「もういいよ」
と、いった。
野獣は、村人達を追いかけるのをやめた。
娘を地べたに倒れたままにしたくなかった野獣は、小さな体をそっと抱き上げた。
やつれた娘は、野獣の腕の中でにっこりと笑った。
「優しい私の野獣さん。ずっとあなたのそばにいたかったわ」
娘がか細い声で、とぎれとぎれにそういった。
娘の命をきざむ音が、少しずつ弱くなる。
虫の息の娘が、最後に息をついて、薄く開いた目で野獣を見た。
「ああ、なんてきれいな目」
そういった後、娘は息を引き取った。
野獣は泣いた。
娘を抱いたままうおーい、うおーい、と泣いた。
泣きながら森へと帰っていった。
そして泥と血にまみれてうす汚れてしまった少女の体を抱いて、ひとばん中泣き続けた。
かなしい野獣の泣き声は、森中を響き渡り、村にまでそのおたけびが漏れ聞こえる。それは、村人達の耳に、それはそれは恐ろしげに響いた。
気味が悪いといって大人は耳をふさぎ、こわいといって子供は泣いた。
村人たちは自分たちが娘にしたしうちなど忘れて人を襲ってきた野獣の噂をした。
魔の森には、人を襲う野獣がいる。誰も入り込んじゃいけねぇ、そう他の村々に伝わっていった。
その日から時折森から響いてくる野獣の恐ろしげな雄叫びは、村人達を振るわせた。
毎日、毎日、身を寄せ合って震えた。
その声におびえ、一人、また一人と、魔の森のふもとの村から人々は去って行くようになった。
そして、その村から村人は一人残らず出て行ってしまった。
魔の森のふもとに誰もいなくなったので、野獣の噂は、次第に忘れられていった。もう、山の奥深いその森に足を踏み入れる者は、ほとんどいない。
野獣は娘を、彼女が好きだった泉のそばへとほうむった。
大きな石を置いただけの粗末なお墓を、野獣は大切に、大切にした。
娘を想い、辺りをきれいに整え、娘の好きな花を届けた。毎日、毎日野獣は娘の眠る場所へと通った。
一年が過ぎ、二年が過ぎても、野獣は欠かすことなく娘の眠る場所へと通った。そして、時折娘を思い出して、うおーい、うおーいと泣いた。
十年が過ぎ、二十年が過ぎてもそれは変わることなく続いた。けれど、野獣が泣くことはほとんどなくなっていた。お墓の周りは、野獣が日々届けた花の種が落ち、年中色とりどりの花を咲かせるようになっていたからだ。
野獣には、それがまるで娘が笑っているように思えて、幸せだった。
いくら年月がめぐろうとも、野獣は色あせることのない優しい娘の笑顔を想い続けた。
百年が過ぎ、更に何十年もの時が過ぎ、たくさんの季節がめぐり、すぎてゆく。
ある日、魔の森に、一つの小さな影が紛れ込んだ。
そこにはとてもきれいな花畑があって、ぽつんと人の背丈ほどもある石が立っている。その向こうにはきらきら光る泉もあった。
その小さな影は、石の前に立っている大きな野獣の背中を見つめていた。
森に迷い込んだのだろうか。年頃の娘だ。
その娘は野獣の背中を見つめながら、なぜだかなつかしい気持ちになっていた。
娘は子供の頃から大きな男の人が好きだった。大きな人のそばにいるとほっとするのだ。けれど、娘が大きくなると、どんなに大きな人でもなんだかちがうな、と思うようになった。
何がちがうのかよくわからずにいた。
けれどようやく娘は分かった。野獣の背中を見ていて分かった。ずっと探していたのが誰なのか。
そう思うと胸が苦しくなって、娘はぽろぽろと涙をこぼした。
野獣がふりかえった。
恐ろしげなその顔も、毛むくじゃらのその姿も、こわいとは思わなかった。
娘は、その野獣が優しいことを知っているような気がしたから。
野獣が振り返ると、見知らぬ娘が一人いた。
涙をこぼしながら、野獣を見つめている。
野獣は立ちすくんだ。
見知らぬ人間の娘がこわがることなく自分へと歩み寄ってきたのだから。代わりに野獣がこわがるように後ずさった。
野獣はとてもおどろいていた。
こんな風に見つめてくる娘を、野獣は一人だけ知っていたからだ。顔は全く違うのに、なぜか野獣が知るただ一人とよく似ていた。色あせることのない面影と、目の前の娘が重なる。
すぐそばまで来ると娘が野獣に向けて両手を差し伸べてきた。
野獣がかがむと、娘は野獣の顔を包み込んだ。
「あなたの瞳、とてもきれいな色をしているのね」
虹のような玉虫色の瞳を見て、娘がほほえんだ。
はるか昔、同じ言葉を呟いた小さな娘を、野獣は知っている。
野獣も大きな毛むくじゃらの手を娘に向けて差し伸べた。それをこわがることなく娘は受け止め、くすぐったそうにほほをよせる。
涙をこぼして嬉しそうに頬を手に寄せる娘を、野獣はじっと見おろした。
ずっとずっと会いたかった娘が、野獣の腕の中に戻ってきていた。
娘がきれいといった玉虫色の瞳から、止まることなく涙があふれていた。
おしまい