南部家との決戦
1581年3月、上杉景勝は伊達家に従属を誓い、伊達家の家臣となった。越後の領土は39万石であり、伊達家の領土は311万石の領土となった。政宗は、上杉景勝が家臣となるとすぐさま、土崎港から中型商船2隻を出航させた。
中型商船には、上杉家を援助するための金、食糧、煙硝だけではなく、2000人の鉄砲隊も輸送されることになった。船は、4月には直江津の港に着く予定となっている。かわって、同様の物資と鉄砲隊の兵達が、仙台港から土崎港へと向かって出航した。土崎港へは、これも4月には着くことになっていた。
景勝との会見後、政宗が米沢へと戻った時、米沢城内が慌ただしくなっていたので気になり、政宗が通り過ぎる女中に理由を尋ねると、松姫がお産に入ったのである。それを聞いた政宗は、城内を駆け出すと奥御殿へと入った。奥御殿では、亀姫が政宗の到着を待っており、政宗が松姫の状況を聞こうとするよりも早く、亀姫が松姫の現在の状況を説明しだした。
「朝、急に松殿が産気づかれ、待機していた産婆が松殿を看たところ、予定では夕方までには生まれるという事です」
「そうか。無事に生まれてくれるといいが」
「松殿のことです。無事に和子を産むでしょう。私達は、松殿のために何もすることができません。心配ですが、一緒に待ちましょう。政宗様」
松姫のことを心配する政宗であったが、自分ではどうすることもできないため。自室にて吉報を待つこととした。時間はたち産婆の見立て通りの夕方までに松姫は、元気な男の子を産んだ。政宗は喜び、子供の名前を兵五郎とすると、兵五郎の守役を遠藤基信とすることとした。
4月になり輝宗の一回忌を行なった政宗は、その翌日に小次郎の元服を行った。烏帽子親は政宗が務めることになり、小次郎の名前は政宗の一字を与え伊達小次郎政道と名乗ることとなった。この小次郎の元服より3日後、上杉景勝の妹である夏姫が米沢城へと入り、小次郎と夏姫の結婚式が行われたのである。輝宗の一回忌から小次郎の元服、結婚式と行った背景には、家臣である全ての武将が米沢に集まるために、続けて式を行うことにしたのであった。結婚式が終わった2日後に政宗は、米沢城大広間に家臣達を集めた。
集まった武将は伊達政宗、亘理元宗、伊達実元、留守政景、国分盛重、石川昭光、杉目直宗、伊達政道、伊達成実、相馬盛胤、戸沢盛安、岩城親隆、二階堂盛隆、遠藤基信、黒川晴氏、小梁川盛宗、桑折宗長、石母田景頼、田村氏顕、浜田景隆、原田宗政、後藤信康、白石宗実、泉田重光、南条隆信、前田利益、孫一、鈴木重朝、大久保長安、鬼庭綱元、片倉景綱、鈴木元信、前野忠康、小西行長、四釜隆秀、富田氏実、氏家吉継、岡定俊、熊谷信頼、柳生宗厳、南部信直、岡部又右衛門等の武将たちが勢ぞろいしていた。尚、上杉家からは上条政繁が訪れていた。理由は、上杉領内がまだ安定していないため、景勝や他の武将は結婚式には、来ることができなかったためである。
政宗が武将達全員、揃っていることを確認すると、今後の伊達家の方針を全ての者に告げる。
「上杉家が伊達家の家臣となった。此度、伊達家から内乱が続く、上杉家へと援軍の軍勢をだす。まず、上杉家への援軍は25000とする。大将を小次郎にするが、戦の指揮は元宗殿が取って欲しい。元宗殿に戦を小次郎は学んでくるのじゃ。率いる軍勢は5000、副将は原田4000、先陣は重朝3000の鉄砲隊、第二陣後藤3500、第三陣黒川3500、第四陣岩城3000、後詰二階堂3000とする」
「はっ」
呼ばれた者達が頭を下げると、政宗が戦の内容を説明する。
「今回、景勝殿には伊達家が援助物資を送っているので、景勝殿も12000の兵を率いて出陣する。尚、越後の農民には今年と来年の、2年間の年貢の免除を伝えている。これによって、反乱している武将たちの納める地域の農民たちも、景勝殿側につくことを表明しておる。農民たちが、反乱した武将たちの城に兵として入城しないことによって、一つの城につき多くとも500の兵が籠っていると、忍びの調べで分かった。しかし、油断しないように、一つ一つの城を落とす様にいたすのだ。良いか!!」
「ははっ」
「殿、出陣は3日後に出陣いたしますがよろしいですか」
元宗が代表して政宗に尋ねると、政宗が許可をだし3日後に出陣することとなった。次に政宗は、南部に出陣する武将に声をかける。
「南部への出陣する兵は、40000とする。本陣はわしが5000の兵を率いる。尚、信直はわしの側におれ。先陣は、孫一鉄砲隊3000、盛安、慶次、岡の騎馬隊6000、第二陣綱元3500、第三陣田村3500、第四陣相馬3500、第五陣忠康3500、第六陣小十郎3500、第七陣南条3500、第八陣成実3000、後詰杉目2000とする。米沢城の留守居は、実元殿お願いします。それと、津軽殿に伊達軍が出陣する旨を伝えて下され。出陣は、これより4日後とする。良いか!!」
「はっ」
政宗より出陣を命令された者達が、頭を下げると決意に満ちた政宗がそこには居た。此度こそ、南部晴政を討つのである。翌日、出陣までの間、戦の準備をする模様を政宗が巡回していた時、一人の若い武将が気になって立ち止まった。目の前の武将は、見た目は若く12歳程の幼い顔つきをしている。気になって、眺めているとちょうど綱元が声をかけてきた。
「殿、あの武将が気になりますかな」
「うむ。あのように若い武将が、戦に出ることになると思うとな…。あれは、名前を何というのだ」
「私も、知りませぬので当人を呼んでまいりましょう」
そう言って、若い武将に綱元が声をかける。
「おい。そこの者、こちらへ少し来てくれぬか」
驚いた表情であったが、綱元に呼ばれ若い武将は政宗の元へとやってきた。
「どうしましたでしょうか。何か不手際でもありましたでしょうか」
恐る恐る、若い武将が政宗に声をかける。
「いや。そなたを見て、少し気になったものでな。その方の年齢は、何歳で名は何と言うのじゃ」
「はい。私は平助と申します。年は15でございます。南部との戦に、初陣を願い出たところ許され、戦に出ることになりました。」
「そうか。わしと同じ15歳なのだな。此度の戦、どうなるか分からぬ。気を引き締めてお互い頑張ろうぞ」
政宗が声をかけると、平助は頭を下げ仕事へと戻った。
2日後、元宗達が率いる上杉軍への援軍が出陣した翌日、政宗達一行は米沢を後にした。4月の半ばになるころであり、春の風が奥州に吹き荒れ、桜の花も咲く季節となっていた。政宗達が米沢を出た直後、北の南部勢に向かう政宗の軍勢を離れ別の道に離れていく、いくつかの部隊があったがこれは政宗の策によるところである。
政宗達一行が、北へと歩みを進めること20日、5月になり豊沢川を挟んで南部軍と伊達軍は対峙した。対陣する南部勢は、15000の兵を率いていた。前回の戦の時よりも、南部勢の兵数は少ない。これは、伊達家や津軽家との戦が続いたために、南部家は、兵を集める資金が底を突き始めたことと、5月のこの時期は、農民は田畑を耕す時期で領民達が出兵にかり出されることを渋ったことにいよって、兵が集まらなかったのだ。
対岸に現れた南部勢は、中央に晴政3500、左右に九戸政実2000・実親2000、そこから右に石亀信房1500、泉山古康1500、左に高田康真1500、八戸政栄1500、後詰に北信愛、大内定綱1500と鶴翼の陣を敷いた。
対する伊達軍は、先陣、孫一鉄砲隊2000、盛安と慶次の騎馬隊6000、第二陣綱元3500、第右陣田村3500、第左陣相馬3500、本陣政宗、信直5000、後詰杉目2000合わせて25500が魚鱗の陣を敷いた。
この頃、第五陣忠康3500、第六陣小十郎3500、第七陣南条3500、第八陣成実3000、鉄砲隊1000は、政宗の指示により別行動をとっている。
対岸に陣を敷いた、晴政は困惑していた。南部勢は、兵数で劣っているので数に任せて伊達軍が戦を直ぐに仕掛けてくると、晴政は考えていたが政宗は戦をしかけることもなく、川を挟んで対陣し戦を仕掛けることが無かったのだ。
伊達軍は、戦を仕掛けないことによって長期戦にし、南部勢の兵糧を減らそうという作戦であると、南部晴政達は考えた。しかし、川を渡って、伊達勢に攻めかかりたいが、兵の数に開きがあることや、伊達家の鉄砲隊が川岸を狙っているのである、無用な死者をだす恐れがあるため、攻めかかることができなかったのだ。
以前の戦と同じように、九戸の提案で対陣した夜に、夜襲をしかけようとしたが、夜襲に気付いた政宗によって、失敗に終わったのである。失敗したと知った、九戸がすぐさま退却したことで、南部軍の兵に損害は出なかったが、夜襲の策は一度失敗したことにより、使うことができなくなってしまった。だからといって、退却すれば花巻城は伊達に取られてしまう。川を挟んで、両軍は動くことができず無為に時間を過ごすことになり、これより一月の間戦が始まる事はなかったのである。
政宗達本隊が、晴政と対陣し一月がたった頃、政宗達と別れた別働隊は、伊達家の商船に乗り南部領八戸湾に入っていた。今回の策は、南部勢の裏を取る作戦を選んだのだ。朝早くに浜辺に、見たこともない大きな商船が入ってきた姿を見つけた漁師達は、何が始まるのかと海を見つめている。伊達艦隊によって護衛された伊達家商船からは、小舟に乗り換えた兵達が続々と八戸港へと降り立った。
浜辺に降り立った者達が兵達だと気付くと漁師達は、一目散に逃げて行くが、南部家の城に駆け込むものは居なかった。南部の領民達は、伊達領の発展を聞き及んでおり、伊達家に南部領を統治して欲しいという考えを持っていたのである。また、浜辺の近くに南部家の城がなかったために、南部勢の足軽には気付かれることはなかった。
このため、安全に小十郎達一行は商船より、全ての兵達が小舟に乗り分け港へと降り立つことができたのである。全ての軍勢が、商船より降りるのに要した時間は6時間かかった。兵糧などの物資も同じようにおろさなければならず、物資を下す事に時間がかかったのだ。船より荷を下ろす時間がかかると判断した小次郎たちは、兵を分けることにした。南条の部隊が、物資を下すために残り他の武将が近くの城を落とすために先に進軍することになったのだ。
小十郎達の最大の任務は、南部家居城三戸城を落とすことである。八戸港から三戸城までには、根城、剣吉城がありこの二つの城を抜けば三戸城となる。忍びの報告によれば、根城、剣吉城には50名の兵士か残っていない。三戸城でさえも、500の兵のみであった。
政宗の策が、あたったのである。まさか、伊達軍が海から上陸するなど、晴政は考えていなかったのだ。小十郎達は、根城、剣吉城を抵抗もなく落とすと、根城には南条勢500、剣吉城には忠康勢500を入れると、三戸城へと向かった。
小次郎たちが目指す三戸城は、90メートルもの山の上に立つ城で堅城である。伊達勢が三戸城にたどり着いた時には、日も暮れようとしていた。三戸城や根城、剣吉城からは危急を知らせようと伝令が晴政の元へと向かうが、全ての伝令は黒脛巾組によって命を落とし晴政にはこのことが伝わっていない。
三戸城へと着いた、伊達軍は下馬御門に鉄砲隊500、小十郎と忠康勢合わせて6000、搦手に鉄砲隊500、成実勢3000が陣取った。夕方遅くに三戸城に着いたこともあり翌朝、伊達軍は三戸城を攻めることとした。そのころ、三戸城内を守っていた兵達は、慌てふためいていた。南から現れるはずの伊達軍が北から、現れたのである。別の道を、通っていれば三戸城へとその情報が伝わるはずであるのに、全くそのような情報はない。
伊達軍が着陣した姿を見た三戸城の留守居は、その軍勢の多さに顔は青くなった。城を守る兵は500しか居ない。急いで、兵を分ける事にした留守居は、大御門に200、搦め手に200本丸に100の兵を配置した。重臣達の屋敷までの門は、諦めたのである。しかし、これでも勝てるわけがないため、留守居の城主は伊達軍に降伏することを考え始めるのであった。
翌朝になり、小十郎の提案により、伊達軍より降伏の使者が入ることとなった。留守居の城主は、命が助かりたい一心で500の兵士を説得し、兵士の命を取らないかわりに晴政や重臣の家族を引き渡す事となった。
小十郎達が三戸城を落とすと、直ぐに黒脛巾組の頭領である小平太より政宗に三戸城が落ちた三日後に三戸城陥落が報告された。政宗は、報告を聞くと黒脛巾組によって殺された兵士の格好を忍びに着替えさせ、翌日の朝、南部晴政が居る敵軍へ伝令として三戸城の落城を伝えることと、小十郎に晴政の後を突くように指示を出した。
翌日、南部晴政を倒す事としたのだ。政宗は次に、各陣へ伝令を飛ばし軍議を開くこととした。全員が集まると政宗は、全ての武将に静かに語りかける。
「我が、策なれり。三戸城は我が伊達軍が抑えた。重臣たちの子供や、晴政の子供もとらえた。明日の朝、戦が出来る様にこれより準備をいたせ。戦の方法は以前、指示した通りじゃ。何か質問はあるか」
全員を代表して、綱元がこたえる。
「ございません。それでは、某らは、戦の準備へと移ります」
そう言って、家臣達は自陣へと散らばっていった。
翌朝、伝令に姿をかえた黒脛巾組の忍びが、南部晴政の元へと向かった。晴政の元へと通された伝令に晴政が声をかける。
「どうしたのだ。何かあったのか」」
「はっ。三戸城が伊達家に落とされ、三戸城の者達は伊達家に捕らわれました」
伝令からこの報告を聞いた晴政は、わなわなと震えだした。
「それは、誠か」
「はい。誠でございます」
「どうやって、政宗は三戸城を落としたのだ」
「船によって兵を運び、攻めて来たのでございます」
「何!!そのようなこと。出来るものか…。そのような戦、聞いたことがないわ。どこかの川を渡って来たに違いない。しかし、三戸城が落ちたか…。我が、妻や晴継も捕まったのであろう…」
晴政が必死に、戦の流れを考えていた時、自軍の第一陣、第二陣に伊達軍から4器の投石器によって花火の弾が4発撃ち込まれた。
バーーーン
バリバリバリバリ
凄まじい程の爆音と、周囲が白みがかるほどの煙が周りに充満する。花火の弾は、南部軍の第一陣、第二陣の柵手前に落ち破裂したのだ。柵は壊れ、柵の近くにいた兵達が爆発に巻き込まれる。この時、南部勢は花火の攻撃を想定して、頑丈な板を用意していたが兵達は、戦はないと弛みきっていたため、この攻撃を防ぐことが出来なかったのだ。
伊達家の攻撃はこれだけでは、終わらなかった。続けて4器の投石器より、合計8発の攻撃が南部勢を襲ったのである。花火の弾は、佐竹家の戦の折に攻撃を防がれた。このため、伊達家は花火の弾を研究し、弾の中に小さな鉄で出来た撒菱が入っていた。
この鉄菱は、弾が炸裂すると破裂した爆風に圧され、周りの兵達に突き刺さった。この攻撃を受けた兵達は、もだえ苦しみ。倒れ伏したのである。花火の攻撃によって、南部勢の第一陣、第二陣は一部の者達に混乱が起こった時、川岸より騎馬の蹄の音が響き渡った。
突撃してきたのは、慶次、盛安、岡の軍勢である。慶次、岡の軍勢は八戸勢に突撃し、盛安勢は泉山勢へと突撃を開始した。柵が壊されているため、騎馬隊の突撃によって蹂躙されていく。ここで、工作部隊は足軽兵達が川を渡れるように、船橋の設置を始めた。
これは、政宗が家臣達に川に船橋を設置する練習を繰り返し行ってきたため、直ぐに船橋の設置は完了した。鬼庭勢の船橋は、前衛に騎馬隊がいたために船橋の設置は時間がかかり、川を渡ることが出来なかった。
しかし、両軍で待機していた相馬勢、田村勢は出来た船橋を渡り突撃を開始する。今回の戦において、鬼庭勢、田村勢には南部勢との戦で亡くなった者たちの血縁者が数多く参加していた。田村勢と鬼庭勢の指揮は高い、田村勢は相対する八戸勢に勢いよく突撃した。
八戸勢は、慶次、岡の騎馬隊だけでなく田村勢からの攻撃によって、八戸勢は崩れ出す。兵数からして違うのだ、八戸勢は攻め込まれていく、この時、盛安勢に攻め込まれていた泉山勢も相馬勢の攻撃にあい劣性に立っていた。両軍は、お互いに数を減らしつつ戦う。
ここで、政宗の指示を受け南部軍に潜んでいた忍び達が各隊において、叫び声を上げる。
「三戸城が落城した。我々は負けるぞ!!」
この知らせが、他の足軽達に伝播していく。知らせを聞いた者達は、一気に指揮を落としていった。第一陣の足軽たちは、次第に退却を始めるとそれを見た第二陣の足軽たちも、退却を開始したのである。
南部勢の足軽たちは、度々の出兵に対して不満があったことや、本城である三戸城が落城したことを知ったことによって、南部家の負けだと考えたことが大きい。足軽組頭たちは、兵が逃亡しないよう。大声で兵たちを押し止めようとするが、命あっての物種である。南部軍の足軽たちは足軽組頭の言を無視し逃げていく。
晴政は事、ここにあたっては負けを確信した。
「己、政宗め。三戸城は落城したが他の城は落ちておらん。最後まで諦めんぞ」
そう言うと、軍勢を退却させるため各部隊に伝令を出す。政宗はこうして南部勢をやぶることに成功するのであった。