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御館の乱

年は明け1578年3月、伊達家には父が側室にした女性達の内二人に子供が生まれた。一人は、男子で鶴丸、もう一人は女子で竹姫である。また、南蛮船が二隻、安宅船2隻が完成、これは商業船であるために堺の道頓と岡山、姫路の小西へと、伊達家の産業物を売るための船であった。


この時点での伊達家の戦力は、鉄砲6000丁、馬25000頭、兵62500、南蛮船1隻、安宅船6隻、商業船2隻となった。


雪が解け始めた米沢城をある武将が訪れた。その武将は、元服を済ませた戸沢盛安であった。城に通された盛安は、輝宗、政宗、元宗、実元、岩城親隆、政景、盛重、石川昭光、杉目直宗、相馬義胤等の伊達家の一門全てが集まっている会見の場に通された。


なぜ、一門全員が集まっているのかというと、政宗が輝宗の末の妹を戸沢盛安に嫁がせる話を、昨年輝宗に進言したことから始まっている。


「初めて御意を得ます。戸沢盛安と申します」


盛安はそういうと、顔を上げた。盛安の顔は端正な顔をしており、美男子で身体つきも13歳というよりは、16歳の身体つきをしていた。輝宗は、盛安を一目見て何か感じ入ったのか政宗の言う提案を受け入れようとは思ったが、盛安は元服したばかりでどれほどの能力がある武将なのか知りたかった。能力を盛安が示してから、決めようと考えたのだ。


「盛安殿、実は来月伊達軍は最上殿の援軍で、小野寺領に攻め入る手はずになっている。その際、小野寺領に援軍に来るとすればどの大名が援軍に来ようか」


盛安は輝宗のこの問いかけに即座に答えた。


「援軍に動くのであれば、安東家が援軍に訪れましょう。援軍の数とすれば多くて10000かと」


それを聞いて、輝宗は盛安がしっかりと、現状を認識して考えて答えていると確信した。


「そうなれば、安東家が援軍に来た場合、横手城攻略に手間がかかるな。盛安殿。もし、そなたに兵を預けたとして、どのくらいの数があれば安東を抑える事ができようか」


「それならば、我が家臣である兵1500で、安東勢をそれがしが抑えまするが」


その場に居た全員が驚いた。10000の兵が攻めて来る時に、半分以下の1500で抑えると言う。しかも、盛安は元服して間もなく、初陣を飾っているわけではない。盛安を諌めようと、元宗が助け舟を出した。


「盛安殿、無理はせず同数の兵を輝宗殿に頼んではどうか」


「ご助言ありがとうございます。我が勢の1500で十分にございます。某が安東勢を抑えて見せまする。その変わり、馬を用意して頂きたい」


そう言って、盛安は頭を下げた。その姿を見て、輝宗は決心した。もし、この戦で安東勢が攻め寄せて来た時、盛安が安東勢を止めることができれば琴姫を嫁に与えようと。


「我が商家である鈴木から金と馬の支援をしよう」


盛安は、少し間をおいて口を開いた。


「はっ。ありがたき幸せ」


そう言って、頭を下げた。盛安が部屋から退出した後、輝宗の部屋に政宗と元宗が集まった。


「父上、忍びより新たな情報が手に入りました。北条家家臣、里見義弘が久留里城で挙兵いたしました。」


里見義弘は、同盟関係になった北条と佐竹によって攻められ昨年、北条に降伏したのであるが北条の家臣になったことに我慢が出来なかった。それにより、反旗を翻したのである。謀反を知った北条氏政は、弟の氏照と氏邦に25000の兵を与え出陣させた。


その報告を聞くと輝宗は、しばらく黙り政宗を見る。


「そうか。北条殿の領地も安定はしていないのだな」


その後、最上領出兵の打合を行い、元宗は会津若松城へと帰って行った。


4月、最上領より援軍の依頼が来たので輝宗は、誰を出陣させるのか家臣達を呼び寄せた。集まった家臣に、出陣武将を発表しようとしたところ、一人の武将が発言を求めた。


「殿、出陣に関して願いあり」


発言したのは、大内定綱であった。なかなか、出陣を許されることがなく領土も伊達に負けた時に、1万5000石の領土に減らされていた。定綱は、領土を減らされたことが腹立たしかったのだ。田村に請われて出陣したのだが、乗り気ではなかった。


「この数年、戦に出陣する武将は、同じ武将しか出陣しておりません。出陣が少ない、者達を出陣させていただきたいのです」


輝宗は、それを聞くと考え込んだ。大内定綱の言うことも一理ある。


「分かった。今回の戦には、出陣が少ない者達に行ってもらおう」


大内定綱は、したり顔になった。これでようやく領土を広げることが出来る。しかし、次に輝宗が言った内容に定綱は出陣の気持ちを削がれた。


「今回の戦は、最上殿への援軍である。出陣場所は、小野寺家横手城。出陣した武将には、褒美として金を与える。それでは、出陣する武将を命じる」


定綱の心は、怒り狂った。領土が貰えないからである。金では、領土は買えない。そう考えていた時、輝宗が出陣する武将を命じ始めた。


「大将は、国分盛重3500、先鋒は、田村清顕2000、第二陣、泉田重光2000、第三陣、杉目直宗2000、後詰大内定綱500にする。出陣は、準備が出来次第とする。」


その夜、大内定綱は居城小手森城にて、弟片平親綱を呼び寄せ本日の軍議の話をしていた。


「伊達家に仕えても、領土が増えぬわ。他の家臣になった方がいいかもしれん。それに、今回の出陣において、わしの兵が500だと…。なめておるわ。後詰では、手柄も立てられん」


片平親綱は兄のその発言に驚いた。伊達家を離れてどこに仕えるのか。伊達家において奥州は、統一されているので宛は無い。


「兄上心にもない事を言うものではありません。誰かに知られたらどうするのですか」


親綱は、必死に兄をなだめる。それから、弟に不満を吐いていたのだがあることを思いついた。


「親綱、いいことを思いついたぞ」


その晩、定綱の高笑いが小手森城へと響き渡るのであった。評定から3日後、伊達軍は米沢城より出陣して行った。


それから間もなくして、5月になったある晩。


「政宗様」


寝ていた政宗は、自分の名前を呼ぶ声によって目が覚めた。声のする方を見ると、黒脛巾組の忍び小平太が頭を下げている。


「どうした。何かあったのか」


「はい、上杉謙信が亡くなりました」


それを聞いて政宗は、自分が知っている史実道理に、この世界も進んでいることを確信することができた。政宗が伊達家を発展させたために、時代の流れが変わるかと考えていたのである。


「それで、上杉家は今どうなっておる」


小平太の報告は史実道理であった。上杉謙信は亡くなる前に、世継ぎを決めていなかった。それにより、上杉景勝と上杉景虎が対立するきっかけになってしまった。対立は、家臣の間でも起き上杉家は、二つの勢力に分裂して互いに戦っていた。


現在は、春日山城の三の丸に上杉景虎が籠っており、上杉景勝が三の丸に攻撃をしかけている状況が続いているそうだ。それを聞くと政宗は、この事を会津若松城主、亘理元宗に報告するように指示を出し、夜分ではあったが輝宗に面会を求め、上杉家の内乱を説明し対応を話し合った。


その頃、北条家では、氏政、氏規、幻庵の元に上杉景虎より援軍を要請する使者が訪れていた。氏政は、困っていた。今、北条の軍勢は里見義弘を攻めているが、景虎の援軍のために軍勢を退却させれば、里見勢は近くの城を攻め落とすであろう。


それは、北条家にとってまずい状況になる。他に、反旗を翻す者が出ないとも限らないからだ。しかし、景虎が越後を得れば北条領は増える。援軍をだしたかったが、出せる状況に今、置かれてはいない。


「氏規、勝頼殿に援軍を出せないか使者として向かってくれ」


「はっ」


「大叔父上は、伊達家へ援軍の使者をお願いできませぬか」


「わかった。それよりも佐竹はどうするのじゃ」


氏政は、佐竹をあまり信頼していなかった。今まで、戦ってきた間がらである。直ぐには信頼できない。それに、援軍を頼めば上杉領を攻め、自分の領土としてしまうだろう。


「佐竹には、風魔に頼んで上杉家の内乱の情報が、届かないようにいたしまする。佐竹に知られれば、佐竹は上野の上杉領を自分の領土にしてしまうでしょう」


「そうか。分かった」


翌日、二人は武田と伊達への使者として旅立っていった。






ここは、織田家岐阜城

岐阜城にて織田信長の高笑いはとまらなかった。上杉謙信の死去。これは信長を喜ばせた。


「蘭丸、勝家に上杉領へ進軍するように伝令を走らせよ。今こそ、上杉領を得るのだ」


蘭丸は、直ぐさま立ち上がり伝令の使者を手配するのであった。






織田と北条が動いていた時、武田勝頼は家臣の真田昌幸と、上杉内乱にどのように対応するのか話し合っていた。


「昌幸、そちの調べによると、上杉領は大変なことになっておるようだな」


「ははっ。家中が割れております。家臣達が、お互いを牽制しあって、景勝や景虎に援軍に行こうにも、動けば自分の城を攻撃される可能性があり。動くことが出来ない状況に追い込まれてございます。恐らく、どちらかの大名に援軍を頼むでしょうが、上杉景虎方は、実家の北条でしょうが、今は里見義弘との戦のために直ぐに援軍には迎えないかと」


「それならば、北条からわしの所へ、景虎方への援軍の依頼があるかもしれんな。しかし、景虎が上杉領を得ると、北と東に北条の領土が出来てしまう。それは、面白うない。昌幸、景勝方が勝つ見込みはないのか」


「今のところ五分五分かと。勝頼様、北条のことですから、もう一つの同盟国伊達へも使者をだしている可能性がありますぞ」


「そうなると伊達は、援軍に出るであろうな。その結果、景勝側も負ける可能性がある。どこの大名も、この上杉家の援軍に出陣することが、出来ない様にする必要があるな」


昌幸は、ここで自分が考えた策を勝頼に示す事にした。


「伊達殿は、北条に頼まれて援軍に出るでしょうが、上杉家が景虎殿の手に落ちれば上杉家は北条家の領土となりましょう」


勝頼が何か感じたのか、発言しようとしたので昌幸は話をやめたが、勝頼が話を続けるように促した。


「それでは、伊達家は西に勢力を広げる事が出来ませぬ。景勝が勝利した後、上杉に攻め込むのが伊達にとっては理になります。しかし、援軍を伊達が出さなかった場合は、北条との同盟関係が、破棄されてしまうことを心配するでしょう」


「我が、武田家としても北条や伊達との同盟が無くなるのは、気をつけねばならんな」


「そこで、佐竹と同盟していない武田が動くのでございます」


「どのように動くのだ」


「武田と北条の関係を悪くなしないようにするためにも、北条から援軍要請があれば出陣するのです。25000の兵を二手に分け、10000の兵は信濃より越後に向かい、15000の兵は佐竹を抑えるために箕輪城に入り、佐竹領に攻め入る姿勢を見せれば佐竹も上杉領には、なかなか攻め寄せることは出来ぬかと」


「我が軍勢と佐竹勢がお互いに対峙して、上杉領へ向かわせないようにするのであるな」


「そうでございます。某の調べた情報によりますると、亘理元宗が厩橋城を守る北条高広に寝返るように、使者を出しているそうでございます。伊達勢は上野から上杉領へと向かうでしょう。そこで、厩橋城に伊達が出てきたところで、佐竹と武田の和義を伊達に頼むのでございます。そうすれば、佐竹は上杉領へと入れませぬし、伊達も上野から越後へは向かわないでしょう」


勝頼は、目を閉じて昌幸の案を聞いている。


「佐竹と同盟ができれば、織田や徳川が攻めて来ましても、我が武田家の後顧の憂いはないかと」


瞑目していた勝頼が、目を開けて昌幸を見た。


「なるほどのう。その策を用いるか」


「殿、それでは箕輪城への進軍はすぐ様行う必要がありまする。また、上杉領への出陣後は、上杉景勝と景虎の調停を行ってはどうかと。それで恐らく、景勝勢の方が景虎勢の家臣を切り崩し、有利になりましょう。その際の調停の使者は、高坂殿にお任せするのはどうでございましょうか」


「わかった。それで伊達への使者は誰が適任と思うか」


「某が、伊達殿を説き伏せてまいりましょう」


「昌幸、任せたぞ。それと、箕輪城へは叔父の一条信龍殿を向かわせるか。小山田昌辰、内藤、小幡、甘利を出陣させよう。信濃へは、わしと馬場、高坂、原、小山田信茂で向かう。昌幸は、伊達との交渉がなれば箕輪城へと向かってくれ」


勝頼は、昌幸を絶大な信頼をよせていた。


「それではそれがしは、伊達領へと向かいまする」


こうして、真田昌幸は伊達領へと向かうのであった。


それから暫くして武田家に北条氏規が訪れた。勝頼は、昌幸との打合道理、北条との盟約のためと称して、上杉領へと出陣した。


6月、伊達領に北条幻庵が訪れた。伊達に上杉景虎への、援軍を頼むためである。


城に入り、輝宗、実元、政宗、遠藤の前に幻庵は座り上杉景虎への援軍を依頼した。輝宗は、もともと援軍に動こうと考えていたために、援軍の件を承諾したが条件をだした。上杉景虎が勝った暁には、上杉領の割譲である。それと、北条家からも援軍を出す事であった。


幻庵は、伊達家の条件を承諾した。その後、幻庵は亀姫に会い政宗との仲を聞いたり、亀姫が知っている伊達家の現状を聞くと北条領へと帰って行った。


幻庵が亀姫の所に向かうと言って辞去すると、これからの伊達家の動きを4人で話し合うことになった。


「父上、北条からの使者も来たことですし、上杉領に出陣しましょう。しかし、米沢から西に向かうと、春日山城まで景勝方の各城を攻めなければなりません。それよりも、調略した厩橋を守る北条高広殿の城から攻める方が、春日山城にたどり着くのも早いかと思います」


「そうであるな。しかし、佐竹が問題じゃ」


実元も出陣に関しては、早く出陣する必要があると思っていたので輝宗に進言した。


「輝宗殿、上野を先に佐竹に取られないためにも、早く上杉領へ攻める必要があるかと」


「よし、今回の軍勢は先鋒を前田慶次の騎馬2000と孫一の鉄砲隊2000、第二陣原田宗政2000、第三陣亘理元宗3000、本陣わしが4000、続いて後藤信康2000、白石宗実2000、後詰政宗の3000、計20000で攻め入る戦の準備にかかれ」


その後、輝宗は実元を見て言った。


「実元殿は、米沢城に残り南部家が攻めてこないか注意を払ってくれ。攻めて来た場合、氏家、相馬、石川、南条、留守、黒川で守ってくれ」


「ははっ」


全員が頭を下げた。


伊達家が出陣の準備を行っていると、真田昌幸が伊達家を訪れた。出陣の準備中だったが、輝宗、実元、政宗、遠藤が迎えた。武田家からの使者は、何を計らいに来たのか、全員に緊張が走った。


昌幸が、皆の前に座ると頭を下げた。

「この度は、戦準備のさなか申し訳ありませぬ。初めて御意を得ます。某は、真田昌幸と申しまする。以後、お見知りおきを」


輝宗は、頭を上げるように促すと。切れ長の目で、思慮深い顔つきの武将がそこに居た。

政宗は、歴史上の人物に会うことが出来、心が高鳴った。なぜならば、将来昌幸は関ヶ原の戦いのおりに、徳川秀忠の軍勢を少数で破り関ヶ原の戦いに遅参させた武将であった。


「それでこの度、武田殿は何様で参られたのか」


輝宗が昌幸に聞くと、今回の目的を昌幸は説明し始めた。それを聞いた、全武将が旋律を覚えた。北条高広が伊達家に寝返ることを、知っていたのである。また、伊達家の立場を考え、佐竹と武田の和議を伊達家が執り行うのであれば、上野を佐竹に取られる心配はない。


武田、伊達お互いに利益がある。北条が出陣しないのに、伊達家が上杉を攻めるのは利益が無い。武田、佐竹、伊達の睨みあいが続けば、北条にも上杉家へ攻め寄せることが出来ない理由の説明になる。


輝宗は、武田家の提案を受け入れることにした。


「それでは、我らはこれから上野に向かうが、真田殿も一緒に参られるか」


「よろしくお願いします」


そう言って、昌幸は輝宗に頭を下げた後、政宗をずっと見ている。昌幸は、政宗の噂や忍びに人物を調べさせていた。昌幸は、政宗を知れば知るほど、興味がでたのである。この際、どのような人物なのか、自分の目と耳で調べてみようと考えていた。武田家や真田家にとって、昌幸と政宗の親交が後に、大きな力になると考えたためであった。


6月伊達軍も、上野へと出陣を開始した。





その頃、小野寺家の本城横手城では、最上家と伊達家の連合軍が戦っていた。

横手城は、横手川の横に作られ二の丸と本丸からなる平城である。石垣で城の周りは囲まれており、攻め入るのであれば二の丸に続く橋だけであった。


挿絵(By みてみん)


小野寺家の周りの城は、全て最上軍と伊達軍に攻め落とされており。現在、横手城は500の兵で守っている。その城を連合軍15000で囲んでいる。攻撃は、最上軍主体で行われていた。そこに急を要する伝令が訪れた。哨戒に出ていた騎馬隊が、敵を発見したようである。


その報告によると、後三日で安東勢10000が、攻め寄せてくることが分かったのである。

安東勢をどう抑えるのか考えるために、最上義光は国分盛重を呼び寄せた。この軍議中も城を攻め続けているため、二人だけでの軍議になった。


「国分殿、今回は10000もの軍勢で、援軍に来ていただきありがとうござる」


義光は謝意を述べた。盛重は義光に対して、最初は不信感があったが今は無くなってきていた。


「義光殿、安東勢ですが伊達家の家臣である戸沢勢が、抑えますので安心して城攻めにかかりましょう」


義光はそれを聞いて驚いた。戸沢勢は、それ程兵士が居るとは思えなかった。1万の軍勢を抑えられるのか。心配になったのである。


「戸沢勢だけで、大丈夫であろうか」


義光は、不安げに盛重が答えた。


「大丈夫です。もし駄目だったとしても、伊達家10000の軍勢が抑えますので安心していただきたい」


「それでは、我が軍は城攻めのみに、集中させてもらいましょう」


それから2日がたち、安東勢は現在の大仙市あたりまでたどり着いていた。横手城までは、あと1日あれば着く。伊達軍が攻めかかって来るかと、思っていたが伊達軍の姿はなかった。


これなら、安心して横手城まで迫れると考えていた時、安東領の方から急を告げる伝令が現れた。伝令から聞いた報告に、安東は頭が真っ白になった。安東領の北を、津軽家が攻めたのである。


それだけではなく、安東領と小野寺領を結ぶ最後の城である、石神城を戸沢勢1000が攻め寄せたのである。全員が騎馬に乗り、朝方攻め寄せてきたため城には兵士100人しかおらず。一気に攻め落とされてしまった。


戸沢盛安は、初陣で城を落として見せたのである。こうなっては、安東勢は退却する他ない。安東勢は、直ぐに退却を開始した。安東勢と戦になる、すんでのところで、戸沢勢は自分の領土へと退却したので戦にはならなかった。


安東は、空になった城を得ることが出来たが、そのまま北の津軽家との戦いのために、北に進軍して行った。津軽家の出兵は、盛安が津軽家へ安東軍の動きを伝えていたためである。


最上義光に安東勢撤退の報が届くと、小野寺勢に安東勢が退却したことを、すぐさま知らせることにした。情報を流したその晩、城から兵が夜のうちに逃亡した。それを知った城の兵士の指揮も、一段と低下したこともあり、最上勢が翌朝攻めかかると横手城は落城。小野寺景道は、腹を切って自害した。


横手城を最上軍が得ると、伊達軍は伊達領へと戻っていった。この戦によって、盛安が示した安東軍を抑えるという目的は達成されたのである。この報告を聞いた輝宗は、盛安に琴姫を嫁がせることを決めた。一門衆からも、不満や批判は出る事ことは無かった。盛安の実力を認めたのである。


しかし、戻っていく伊達軍の中に一人、怒りに震える者がいた。大内定綱である。今回の戦でも、戦うことがなかった定綱は、以前思いついた計略を承諾してもらえるか手紙を相手に出してはいたのだが、まだ返事が届いていなかった。定綱の計画は、相手にとっては断る理由はないと定綱は思っていたので、相手から了承する手紙が届けば、計画に移ることを決心した。




7月、上杉景勝より同盟の使者が訪れ、上杉景勝陣営と武田軍の同盟がなった。同盟がなると景勝側からは、景勝と景虎の調停を武田家に頼んだ。同盟の代償として、上杉景勝からは上野にある伊達領以外の上杉領が武田家に渡されるだけでなく、軍資金を渡す事が決まった。


その頃、厩橋城に伊達軍は入城した。本来もっと早く着くことは出来るのだが、上杉攻めを伊達家は避けたかったために、ゆっくりとした行軍をとっていたのである。その間、真田昌幸と政宗は仲が良くなり、お互いに戦の話に花を咲かせるまでになった。


城内に入城後、北条高広との会談が終わると、輝宗の元に小野寺領での戦の報告が届いた。輝宗は、婚礼を行うことをこの時決めたのである。


8月、伊達、佐竹、武田軍はお互いに動くことなく、膠着状態が続いたままになっていた。北条からは、伊達と武田に対して矢のような催促が来ている。武田軍には出陣している1万の兵が越後領内にいるにもかかわらず、景勝勢を攻めていないことに対する詰問があり。


伊達勢に対しては、厩橋城から動かないことに対しての詰問があったが、伊達家も武田家も北条には、北条軍の出陣が無い事に対する不満や、佐竹軍と睨みあいになり動けない現状を北条に報告するに留まっていた。


その頃、越後に進入した武田軍に動きがあった。武田の高坂昌信が仲介になり、上杉景勝と上杉景虎の調停が締結されたのである。


武田の調停がなったことを知ると、伊達は、佐竹と武田の講和に乗り出した。佐竹家でも、伊達家支配の厩橋城を抜けるか、武田家の城を攻めるしか上杉領に行けなくなったために講和をすることを歓迎した。


それに、9月になれば稲刈りが行われる季節になるため、軍勢を引き上げたかったのである。佐竹、武田、伊達の講和がなると両軍は退却することになった。この時、武田は急いで退却する必要にかられた。


徳川軍が、武田領に攻め寄せて来たのだ。北条からは、武田に対して詰問の使者が訪れたが、徳川軍出陣のために退却する必要があると言って、北条の使者にはそう答えるだけにとどまった。


伊達軍は、講和により武田領に上野がなることが決まったとしても、未だにそこは上杉領であり、上杉景虎方の武将もいた。上野の北を攻めても、自国領には出来ないため北条には使者を送り、伊達家会津地方か米沢地方から攻めることを、北条には知らせ会津、米沢への行軍にかかった。


この時、厩橋城には白石宗実が城主になることが決まり、北条高広には会津地方にて領土を与えることになった。北条にとっては、上野に居づらいだろうと輝宗が判断したためである。


9月、北条はようやく里見義弘を下す事に成功した。それは、戦によって倒したのではなく、義弘が病気で倒れ亡くなったため、求心力がなくなり里見の軍勢は瓦解したからである。


10月、氏政はようやく上杉に攻め入ることとなったが、北条軍は上杉景勝を倒すために出陣する際に、どうしても伊達領と佐竹領を通る必要がある。そのため、伊達と佐竹に許可を求めてきた。


伊達と佐竹はこれに対して、領土通過の許可を出した。その頃、伊達軍は北条との盟約のために、会津地方からの出陣の準備に入っていたが、この時輝宗と政宗等の主要な武将はいなかった。9月に米沢城へと戻ったのである。


10月、北条から再度出陣の要請があった。輝宗はこれを快諾。出陣する武将は、亘理元宗率いる1万の軍勢である。出陣する武将は、6月に伊達領に残っていた武将たちが選ばれていた。しかし、これも見せ戦である。9月に上杉景勝から、停戦の使者が訪れた。北条と同盟関係がある以上、伊達家は北条を支援する立場を崩せない。


そのために、口約束ではあったが上杉領と伊達領の国境で、小競り合いを行うことになっていた。停戦による景勝側からの見返りとしては、上野の伊達領を認めることが決まった。これによって、伊達領は戸沢領と上野において8万石の領土を得たのであるが、それ以上に軍勢を動かしたことで、金や兵糧の使用があり全体的には赤字であった。


その頃、武田家と上杉家は、同盟締結に伴い勝頼の娘である菊姫が上杉家へと嫁いだ。これに怒った氏政は、武田家との同盟を破棄したのである。


11月、北条勢は雪の影響もあり、上野で景勝方の城を囲んでいたのであるが、退却することになった。景勝と景虎の停戦状態が続いている間に、景勝陣営は景虎方の武将を、裏切らせることに成功。


翌年2月に景虎を景勝は倒し、上杉の当主となったのである。


今度から、下手ですが画像が出来れば、それを載せていこうと思います。

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