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下野攻略

4月半ばに、芦名氏を滅ぼした伊達家は、黒川城を会津若松城と名前をかえ、城は改築することとなった。芦名領には、未だに知られていない金山、銀山、銅山、鉄、鉛が取れる鉱山があり、政宗によりこの鉱山は全て見つけ出され、大久保長安によって掘り出されていくのであった。


また、芦名領を調べた結果、芦名領は30万石と言われていたが、40万石まで開墾することが分かり、綱元が治水工事の設計を行っていた。芦名連合との戦いでは、死亡者数400名、負傷者数1000名と兵士に死傷者がでたため、新規で兵士14000の兵を抱えることになった。兵士達は、成実、忠康、景綱、浜田、原田、晴氏によって練武が行われている。


政宗は、城の縄張り、治水工事、城下町の発展を元宗、綱元、行長と行っていた。夜になれば、元宗と晴氏による勉学の日々である。大変であったが、政宗はこれから先の時代の流れを考えれば時間がないため、必死に学び体を鍛えていた。


伊達家は、44万石の領土を得たこともあり、今年(1576年)の戦は行わないことが決まっている。主に内政を行うためであった。急いで領土を拡張しても、統治するためには人材が必要になるが、その人材が不足していたためである。


伊達領は、この2年の間に3倍にまで広がっていた。政宗が考えた、人材における能力重視、長所を生かす部署への移動によって、全ての家臣が一番力を発揮できる部署に在籍してはいるが、需要に対して供給が追い付いていない。


伊達家の学校を出た武将の子供達が、新たに家臣に加わり内政、軍事において働いてはいるが、人が育つのには時間がかかる。部署に配属されても、数年働かなければ使い物にはならない。この状況を打開するには、農民、商人、武士に関わらず家臣として召し抱えることが一番である。


このために、寺子屋を作り子供達への教育を重視したのである。また、孤児や奴隷になった者たちを伊達家が受け入れるのは、有能な人物がいれば家臣とするためや工業、産業、鉱山での労働者にするという理由があった。孤児や奴隷は、間者は少ないであろうと考えていたからだ。他国の者であれば、間者が紛れ込む可能性があるため、他国からの士官は伊達家から声をかけることが無い限りは、断っていた。


ただし、断るにしても伊達家に仕官するための、テストを受けた上である。優秀であれば、素性を調べた上で家臣にしていた。以上の理由などによって、伊達家の内政が軌道に乗るまでに、鉱山は8月まで、工業、産業は9月まで時間がかかる予定となっていた。


その頃、伊達家米沢城では、捕虜の受け渡しの条件が決まった。佐竹からは、同盟相手であったにも関わらず伊達家を攻めたことに対する、謝罪があり同盟のあかしとして二男の喝食丸が人質として伊達家に送られることとなった。義重の妻は、輝宗の妹であるため政宗にとっては従弟にあたる。真壁と捕えられていた兵たちは、佐竹領へと帰って行った。


宇都宮家からは、壬生を迎える使者が来ることはなかったため、壬生は捕虜として寺に監視付きで置かれることとなった。このことが引き金となって、今年は戦をしないと考えていたのだが、6月に宇都宮氏を攻めることとなった。


しかし、宇都宮国綱は佐竹の同盟相手であったために佐竹に対して、宇都宮氏を討つことの了解を得ることに成功したことによって、佐竹を気にせずに攻めることが出来るようになった。


伊達家は、会津地方と下野北を手に入れたことによって、武田、北条との領土が接することが出来る距離にまで来た。なぜ、政宗が北条や武田との婚姻や同盟を画策したのかというと、武田が攻め滅ぼされる1582年に武田の援軍に向かうか、滅ぼされた場合は、武田の当主として自分の子供を据えるために、戦を織田に対して行うことを考えていたからである。


武田と直接同盟を結ぶのは難しかったが、北条であればまだ武田より同盟の締結はマシであったために、北条との同盟が先になった。


北条の亀姫、武田の松姫、田村の愛姫は翌年に結婚することになっている。愛姫との結婚は、政宗も考えていなかったが、史実通りになったということであろう。


以前から政宗は、これからの伊達家の動きを考えていた。それは、まだ輝宗にも話していないことではあった。来年の伊達家の軍事力は、兵力40000、騎馬16000頭、鉄砲4000丁になる。自国での永楽銭、鉄砲、騎馬、農具、紙、塩、醤油、酒、家畜の生産、金、銀、銅鉱山によって伊達家の蓄えは増えている。


その蓄えた金で、貿易を行い、奉行所の充実、医者の充実、火消の充実、街道の充実、城の整備、港の整備、安宅船・南蛮船の製造、と民が働く仕事を充実することで消費も増え、税金の収入も増え続けている。


この分であれば、伊達領にやってくる他国の住民や奴隷から解放された者達も、伊達家を離れることはないだろう。しかし、信長が明智光秀に倒され、天下を豊臣秀吉が納めるまでには、10年の月日しか政宗には残されていない。政宗は、1586年に豊臣秀吉が関白になるまでに、上野、信濃、東北の全ての領地を平定しようと考えていた。


そして、同盟した北条、佐竹を口説き、一緒に豊臣秀吉と戦う。これが政宗の、現在の規定路線であった。これならば、豊臣秀吉と戦うことが出来るであろう。そのためには、今年中に下野の統一と言いたかったが、下野南は北条に攻め落とされており、残るは中央だけとなっていた。北条よりも早く、宇都宮氏を倒す必要がある。宇都宮氏の領土は、17万石である。伊達家は、今年は戦を考えていなかったが、宇都宮氏の態度に怒った家臣たちの進めによって、宇都宮氏と戦をすることが決まった。


来年からの伊達家の動向としては、1577年に葛西、大崎領を狙い。1578年に上野中央の厩橋城を攻め落とす。それから1582年までに、東北の南部氏、津軽氏、秋田氏、戸沢氏を攻め滅ぼせればと考えていたが、4年では厳しいと思っていた。


それでも、1582年までに攻めて、得ることが出来る領土を手に入れ。1582年に、信州を落とし、信州を落とした後は、東北の残った領土を手に入れて豊臣秀吉と決戦することを目標とすると政宗は決心していた。


月日は流れ、6月になり留守政景を大将とする2万の兵が、宇都宮国綱が籠る宇都宮城に攻めかかった。従軍する武将は白石宗実、小梁川盛宗、桑折宗長、石川昭光、国分盛重である。宇都宮城には、4000の兵で籠った。それから、3ヶ月の間、籠城したが伊達家によって二の丸まで攻め落とされ、佐竹家の援軍もこず孤立無援になったことによって、宇都宮城は落城した。


戦に勝利した褒美として、各武将に対して領土の増加があり、小梁川には宇都宮城が与えられ那須の後藤を傘下に入れることになった。また、捕らわれていた壬生は下野で領土を得ることになり、伊達の家臣になった。


下野攻略の内容を一部変更(9/5)

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