摺上原に露と消えて
景綱と綱元が前田利益、小西行長、前野忠康、鈴木重意、重朝親子、熊谷信頼、柳生宗厳を伴い3月頭の雪が溶け出した頃に、伊達輝宗、政宗、家臣達と対面した。輝宗より、家臣になった発表があり、前田利益には騎馬隊の訓練、小西、前野には政宗の家臣、鈴木親子には鉄砲隊の訓練、熊谷には水軍の創設と訓練、柳生宗厳を剣術指南役になることを指示した。
政宗と成実は、3月までの間に亘理元宗と黒川晴氏によって、戦術や戦の駆け引きについて学び、一軍の将としての知識をつけてきていた。また、基信の手配などもあり、今回の芦名戦のために、鉄砲3000丁、馬12000頭の用意ができた。
しかし、伊達が準備したのは、それだけではなかった。投石器と短筒を装備した騎馬鉄砲隊500人を準備していた。投石器は工兵部隊が担当で、冬に投石器での攻撃訓練を行っていたために狙った場所への命中率は8割にまで高まった。
伊達家がこの春に攻める芦名家は、30万石の領土を持つ大名である。昨年、当主芦名盛興が亡くなった。現在の当主は、盛興の妻であり伊達晴宗の娘を娶った芦名盛隆であるが、実際の軍事や内政は芦名止々斎(盛氏)が実権を握っている。
家臣は、芦名四天王が止々斎を支えている。一人目は、流通・商業を担当する佐瀬種常、二人目は富田氏実、三人目は平田舜範、最後の四人目が芦名の執権と言われる金上盛備である。他に家臣として、一族である猪苗代盛国、一族であり外交を担当する針生盛信が居る。
かわって伊達家、4月になり、輝宗執務室には伊達輝宗、亘理元宗、伊達実元、伊達政宗、遠藤基信、黒川晴氏の6名である。芦名調略の結果が、政宗の元に集まったため、その報告を行おうと輝宗が武将たちを集めた。
「政宗、調略の報告を頼む」
「はい。まず芦名家の一族である、猪苗代盛国を裏切らせることに成功しました」
驚いた顔で、実元が政宗をみる
「政宗殿それは、幸先がよいですな。これで、戦の場所は摺上原に決まりましたな。我々が考えた、対芦名戦の戦場と合致いたしますな」
武将たち全員が、頷く。
「次に、富田氏実、隆実の親子です。四天王の1人ですが、自分の今の立場に満足できておらず、伊達家の発展ぶりを知り、伊達家の家臣になりたいと言ってきております」
富田氏実の親子の話を聞いて、黒川晴氏が怪訝な表情を浮かべた。
「富田殿は、伊達家が栄えている間は裏切らないと思いますが、おそらく伊達家が栄えなくなれば裏切る恐れがありますな。あまり、信用がありません」
それを聞いた輝宗が
「伊達家は、これからも栄えるし政宗もおる。富田殿も裏切りはしないであろう」
政宗は、富田の同行をもし伊達家の家臣になれば、黒脛巾組に見張らせようと考えた。
「最後に芦名盛隆殿が裏切りまする」
全武将が、これには驚き元宗が、政宗を誉めた。
「政宗殿、良くやった。それで、なぜ芦名盛隆が裏切るのじゃ?」
「盛隆殿は、人質でした。当主にはなりましたが、実権も止々斎に握られており、盛隆殿はもとの二階堂家に戻りたいと考えている様子。伯母上に頼んで、盛隆殿を調略することが叶いました。裏切りの条件は、二階堂家の当主でございます」
それを聞いた、輝宗が頷きながら政宗に指示をだした。
「政宗、盛隆には二階堂家の当主に就かせると伝えよ」
「はっ。分かりました」
輝宗が、全員の顔を見たあと一呼吸置き
「よし、戦の流れは、冬の間から考えていた作戦でいく。調略もなった。戦の準備をして芦名を攻める。」
輝宗号令の元、各武将配置が決まった。
先方は、雑賀孫一の鉄砲隊1500に加えて鬼庭良直の1000 第二陣を亘理元宗、前田慶次、2500、三陣伊達政宗とその家臣、黒川晴氏2500のうち工兵500、本陣は輝宗3500を率いる。後詰めを浜田景隆1500、右先陣を後藤信康2000、右後陣を伊達実元殿2500、左先陣を原田宗政2000、左後陣を相馬義胤2500が率いる。
4月10日、伊達軍は芦名を倒すために出陣した。
4月14日、猪苗代盛国の城に入城した。その頃、芦名盛氏は全軍を招集した。通常7500の兵をそろえることが出来るが、二階堂家からの援軍1000、佐竹の援軍2500を真壁が率いて参戦していた。その他、下野国から那須資胤、壬生綱雄それぞれ2000の兵、全軍で合計15000になったため、場外で戦をすることを考え、摺上原に強陣を敷いた。
中央第一陣を金上盛備1500、第二陣を平田舜範1500、本陣を止々斎3000 後詰め盛隆と富田親子1500 。右陣を佐竹、二階堂連合軍3500、左陣を那須、壬生連合軍4000が陣を敷いている。
4月16日伊達軍 対 芦名連合軍は、対峙した。
しかし、お互いに陣を敷いたまま1日が過ぎた。翌日17日に両軍の戦が動き出す。
輝宗から政宗に対して伝令が出た。
「政宗様、政宗様いらっしゃいますか」
政宗の元に、伝令が訪れた。
「お館様より、政宗様に例の攻撃を始めよとの命令です」
伝令の言葉を聞くと、政宗は後方に控えてる、投石部隊の工兵隊長に指示をだした。
それから、一回目の投石が30分後に、芦名勢、佐竹勢、那須勢の前に落ちた。
ヒュルー、ドシーン
バリバリバリ
落ちた投石は、敵勢の柵を倒すだけにとどまった。芦名勢からは、怒声と叱責と笑いが起こった。
先陣の金上から止々斎に伝令が走り、先ほどの投石は柵を壊すだけにとどまったことを伝えたところ、次は第一陣に落ちると思った止々斎より、警戒を行うように指示がでた。
その後、2回目の投石が柵を越えて飛んできた。それを、芦名連合軍は落ちそうな場所を避ければいいと考えていた。それが、普通の石であればそれでも良かったかもしれない。
第二の投石は、石ではなかった。政宗は冬の間に、現代の花火を攻撃手段として、使うことを考えていた。花火を使った、砲撃である。
放った花火は、敵の一軍、二軍の間に落ちる寸前に爆発した。
「熱い、体に火が付いた誰か助けてくれ」
「腕が吹き飛んだ。痛い」
芦名軍のいたるところで阿鼻叫喚が起こった。
その後、続けて5発の花火が敵陣を襲ったのである。芦名連合は、慌てふためいた。全ての陣の中で、腕や足など体の一部を吹き飛ばされた者、火傷をしたもの、音で耳が聴こえなくなった者、恐怖によって足がすくんでいるもの沢山の者たちであふれた。
その時、敵陣は投石花火にばかり気を取られ、伊達の先陣を見ていなかった。
5発目の花火を受けた瞬間、孫一の鉄砲による斉射が中央、右、左陣に発射された。孫一による訓練によって、鉄砲隊が身につけた三連斉射が、敵軍の先方を攻撃した。
「各隊は、前方の敵に向かって撃てーーー」
ズババーン、ズバーン、ズバーン
あたり一帯が、白い煙に覆われた。
敵連合の前方にいた鉄砲兵達が、全て倒されてしまったため突撃してくるであろう、伊達軍の足を止める部隊がなくなった。
その時、輝宗より伊達の全軍突撃を告げる法螺貝が鳴り響いた。伊達の兵士達の突撃が開始されたのである。中央を鬼庭勢、亘理、前田勢、黒川勢、右陣を後藤勢、実元勢、左陣を原田勢、相馬勢が次々突撃していく。
各将は部下たちに向かって吠えた「全軍突撃!!」
芦名勢、佐竹勢、那須勢を怒涛のごとく攻め立てていく、鬼庭良直は、突撃した敵軍の中に金上の姿を見つけた。
「そこにいるのは、金上殿ではござらんかな。わしは、鬼庭良直でござる。我の相手をしていただこう」
良直の声に、金上は答えた「おお、伊達家の突撃頭と言われる鬼庭殿とあっては、相手せねばなるまい」
二人の槍がお互いに向かって伸びていく。金上は、必死になって槍を良直に向けたがそれはかわされ逆に体に槍を食らうことになった。
これによって、金上は命を落とした。平田は、花火の攻撃によって、吹き飛ばされて落命していた。全軍が本陣の止々斎の部隊に、前田慶次の騎馬隊1000が突撃してきた。止々斎は、後詰に援護を要請していた。
止々斎は、援護を要請していた後詰の方向を見た。その時、止々斎が見たものは本陣を襲ってくる後詰の盛隆、富田親子の部隊であった。
「あやつら裏切ったのか」
止々斎は、怒涛のように怒り狂った。しかし、今は退却するしかない。黒川城に退却するのだ。
「全軍退却」
止々斎の伝令が右陣、左陣に攻めかかる。右陣の真壁は困っていた。二階堂が佐竹陣を攻め立てたのだ、この時二階堂勢は盛隆の指示によって裏切ったのである。真壁の周りは、二階堂勢、原田勢に囲まれている。相馬勢は、退却する敵軍を追っていくことを選択した。
左陣那須、壬生連合軍は黒川勢、後藤勢、実元勢に囲まれ退却ができなくなっていた。政宗の陣より、佐竹勢、那須勢、壬生勢に降るように伝令が出た。その結果、敵勢は降伏した。
止々斎は、盛隆によって切られ、名門芦名家はここに終わりをつげた。
4月18日に伊達軍は、黒川城に入城した。輝宗、政宗は城において戦後処理に追われ。その他の武将は、今回戦に出て伊達軍に立ち向かった芦名勢や留守居を任された武将を倒すために動いていた。
二階堂家は、晴宗の娘と結婚した盛隆が継ぐことになり、二階堂盛隆の名前にもどった。晴宗の娘との結婚は、そのままになったため、一門衆という位置づけを与えられることとなった。
下野国、北方にある那須勢の領土は、太守が捕まったために降伏、実元、後藤勢によって城は開城、那須の10万石は伊達領となった。白川氏の白河城から小峰が訪れ伊達家に降ることが決まった。
石壬生勢は、宇都宮氏の家臣である。宇都宮氏からの使者が来ることを待つことになった。真壁勢は、捕まったが佐竹氏との交渉のため武器を取り上げられるだけになり、身は安全だと伝えられた。
4月20日、黒川城に戦に参戦した、武将たちが集まっている。今回の戦で勝つ事ができたのは、政宗が考案した花火砲撃によるところが大きく全ての武将から政宗は誉め称えられる。政宗の師である、元宗や晴氏は政宗を賞賛した。また、新たに伊達家に出来た、騎馬鉄砲隊をこの戦で使わなかったことは大きい。騎馬鉄砲隊は、秘匿されることになった。
その後、今回の戦の褒美として、芦名の城は黒川城を亘理元宗に与えた。これは、下野を含め越後を戦や外交により、抑えてもらうためである。また、津川城は原田宗政に、船岡城は浜田景隆に与えられ亘理元宗の指揮下に入ることが決まった。那須の城は後藤に遣わされ。那須七騎は、後藤の指示に従って動くことになった。
その他の武将達にも、領土の加増があった。今回の戦で、芦名の家臣で裏切った者たちの所領は安堵されることも決まった。
政宗は、輝宗に対して自分の直臣になっている武将に領土を求めていたところ、鬼庭、片倉に小さいながらも城を与えられることになった。これは、内政面で政宗に従い、今まで仕事をしてきたことが評価されたためである。小西と前野は、金や刀が与えられた。慶次と孫一には、金が与えられた。これは本人たちが、領土よりも金を欲しがったためである。今回の芦名との戦は終わった。
伊達家は、芦名領、那須領、白川領を得たことによって125万石の大大名になり、その名声は中央の織田家や西国の毛利、島津家にまで届いたのである。
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