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炎の矢






 庭に、百花の王が咲き誇っていた。長安に邸宅を構える際、庭師に貂蝉が依頼し、洛陽から運び、整えてもらったものだ。

 春らしく、艶やかな牡丹の紅色が、庭の上で絨毯のように覆い尽くしている。

 部屋の小窓から見える景色は、庭の真ん中にゆるい弧を描く橋のおかげか、赤い太極図のようだった。

 窓に添えられた花のように、一輪の女性が呆としていた。絹の衣に身をまとい、天女のように雅な座り姿だった。

部屋に入ってきた呂布に気づかず、窓の前に置かれた小椅子に腰掛け、貂蝉はどこか遠くを見ていた。

 物憂げなその表情は、消え入りそうなほど儚い美しさを滲ませている。

 呂布は立ち尽くしたまま、貂蝉の顔色がよくないことに不機嫌をあらわにした。


「あら、どうされました?」


「なんでもない」


 呂布の表情の変化を横目で捉えたのだろう。貂蝉は立ちすくむ呂布に笑いかけ、覗き込むように近づく。

 子供じみた独占欲を伝えられる訳もなく、呂布は憮然と貂蝉の隣に腰掛けた。

 風がふき、牡丹の香りが呂布の鼻腔を擽る。

 香りに微睡むように柔和な表情を浮かべ、貂蝉が言葉を続けた。


「おかえりなさいませ。今回もご無事で何よりです」


「なんでもない。取るに足らぬ敵だった」


「うふふ、奉先様、もう少し笑われれば宜しいのに」


「笑う? だと。おかしなことを言うな」


 背もたれに背中を預け、呂布が腕を組む。呂布にとって、笑うことなど、ここ最近では覚えがないことだった。

 義父となった董卓が長安に遷都を強行してからの半年ほどの時間が経っていたが、笑えるほどの状況ではなかった。それなりに多忙であったし、戦にしても常に先陣を切らんと奮闘していた。戦に勝つことが自分の本分である自覚はあったし、大将軍としての待遇に不満があるわけでもなかったが、最近はどこか気乗りがしないことが増えた。

徐々に心のどこかにある靄のような薄暗いものをが表に出てきたように、戦に行く以外は酒を呑んでいる機会が増えていた。

 正体すらわからないものに対処の仕様もなく、呂布はただ誤魔化すように毎日を過ごしている。そんな中貂蝉と触れ合っている時だけは、不思議と心が安らいでいる。

 

「だって、こんなに眉間に皺ばかり寄せて」


 貂蝉の指が、額にあたり、眉間へと動く。

 ほんのりと冷たい指先が、柔らかく、なめらかに滑っていく。

 仄かな色香が鼻腔をかすめた。


「昨日まで戦だったのだ。仕方あるまい」


 自分でも結論が出ないものを突きつけられたように感じられ、思わず言葉が飛び出す。

 貂蝉は呂布の態度をじっくりと見た後、一層顔の皺を深め―――徐に、頬を引っ張ってみせた。

 満面の笑みが、呂布の眼前で花開いた。


「それに、こんな大きなお口なのに、勿体無いですよ」


 呂布の頬が蛙のそれのように横へと伸びる。

 たいそう楽しそうに笑う貂蝉の指を、呂布はできるだけ痛まぬよう引っ張り、払った。


「やめろ、ふざけるな」


「ふざけてなどおりません。もったいないと申しておるのです」


「この口は充分酒を飲むのと食事をするのに役立っている。何の問題もない」


「食べたり飲んだり以外でも、歌ったり楽しくお話したりできるではありませんか」

「それは俺の本分ではない。もっと得意な奴に頼め」


「あら、なぜです? こんなに綺麗なお顔なのに。笑われれば一層素敵ですよ」


 貂蝉がめげずに呂布の頬をさする。

 手のひらで包み込むようなその所作は、呂布に拒みようのない安らぎを与えた。

 今度は貂蝉の手の甲を覆うように、呂布が手を重ねる。

 しかし力強く目をつむったあと、呂布は剥がすように貂蝉の手を頬から離した。


「よせ、俺はそんな男ではない」


「何がですか、奉先様」


「お前のように俺は笑えん。俺は、どうかな。汚れすぎたように思う」


「汚れ、ですか?」


「ああ、徐々に血の臭いも取れなくなってきた。貂蝉、お前があまり触れていい存在ではないように思えてきたのだ」


 戦は嫌いではなかった、と思う。

 かつて率先して行ってきたものに、辟易し始めたのは、おそらく貂蝉と出会ってからではなかろうか。今、戦をしているのは、そうしなければ董卓に貂蝉を貰い受けた正当性がなくなるからだ。自分の巣を守るために、遮二無になって戦をしているだけだ。

 そして、そんな風に人を殺して、血を浴びながら戦に勝利していく自分をふと省みたとき、呂布は恐怖に取り憑かれた。


 自分は、最愛の人の隣で笑いかける資格がある男なのだろうか、と。

 他人からすれば、取るに足らないことが、最愛の者に依存したために、死活問題となって呂布を苦しめていた。

 そんな葛藤を知ってか知らずか、貂蝉がまた呂布の頬を撫でた。


「今更ですよ。それに匂いなんて、大好きな方の香りはいい香りに決まっていますよ」


 気にしない、と意味を理解した上で貂蝉は呂布にもたれかかる。

 呂布は貂蝉がそういうことを知っていた。だからこそ、貂蝉の大きさの前で、自分の矮小さが引き出されたような気がした。


「違う。俺は、お前みたいに綺麗じゃない。汚れすぎた。昨日まで人を殺してきた。たくさんのな」


「なんと言われても嫌です。なおさら離れません」


 言うが早いか、貂蝉が呂布の背に手を回す。

 呂布は態勢を崩さず、顔のみを貂蝉の髪にうずめた。

 香油がしっとりと髪を濡らしている。


「そう言うな、俺はお前まで汚れる方が嫌なのだ」


 それが、呂布にとっての本心だった。

 自分が汚れるのは、自分の都合だ。だが、最愛の人まで汚されるのは、一緒に汚れていくのは、我慢できなかった。

 狼藉者の呂布の妻、というだけで貂蝉は奇異な目で見られていることを呂布は知っている。君主と大将軍に夜伽で取り入った淫女と呼ばれていることは知っている。それでも、本当の貂蝉がこんなにも愛おしく、素晴らしい女性なのだということも呂布は知っている。

 離れることはもうできなかった。他の物に代わりようもないほど、深い愛だった。

 それでも、これ以上、自分のせいで貂蝉の美しさを失わせたくはなかった。


 そして、貂蝉は呂布の訴えに、当たり前のように首を縦に降らなかった。


「いいえ、貴方が正直に本当のことを言ってくれるまで、ずっと離れません」


 呂布は、戸惑いを胸に抱いたまま、貂蝉を抱きしめる。

 呂布も、また気づいてはいなかった。


「なんのことだ」


 貂蝉が呂布を見上げ、笑いかける。

 柔和な表情は、慈愛に満ちたものだった。


「うふふ、答えは自分で探してくださいな。私の一番愛しい人」


 呂布はまだこのとき知らなかった。


 自分の本当の気持ちも、心の引っ掛かりの原因も。



 そして、結局呂布がこの言葉を意味を知るのは、最愛の人を失うその日となることも。











 草原の草が泣いている。風が強くなり、髪を乱れさせた。

 影絵は阿修羅のようにして、呂布の畏怖を示している。

 

力強い声が天に向かって吠えられた。

声に呼応するように大気が震え、森がざわめいた。

 躍動する鼓動が、暴れるように血液を呂布の全身に送っていく。


「さぁ、来い」


 呂布が、手招きするように貴族の男に手を向けた。

 隆々とした筋肉が、役目を思い出したように細かく武者震いをおこしている。


 素手であっても、一騎当千の武人である。

 20人や30人程度で遅れを取ることなどあるはずがない。


 貴族は、部下に引きずられるように立ち上がると、金切り声を上げた。


「何してる!殺せ!」


 余裕がないのが伝わったのか、部下たちに緊張が走った。

 呂布がよくよく見ると、呂布を半円で取り囲むように20人ほどが陣を組んでいる。

 全員が同じ鉄色の甲冑と甲を身につけていた。いずれも正規兵、ということなのだろうと推測できた。円を縮めるように、兵たちが懸命に武器を呂布に向け、威嚇する。

 じりじりと一歩一歩間合いをつめていく相手に、呂布が腰をかがめる。

 そのとき、呂布の後方で声が弾けた。


「リョフさん、後ろだ!」


 レノンの必死の声に呼応し振り向くと、兵が剣を振りかぶっている姿を目に捉えた。

 呂布は逃げるわけでもなく、当然のように兵の腕を掴むと、兵の体ごと右手一本で横一文字に振り回す。円盤投げの要領で、人が宙に舞った。

 一番目の兵と隣接していた兵たちが、旋風のような呂布の動きに巻き込まれ、吹き飛ぶ。

 家の壁にぶつかったのか、家の中から背後を狙っていた5人ほど兵達は、たった一撃の暴風により、戦意を失った。

 レノンの家の壁に頭を打ち付けた兵が、身を震わせて呂布を見ている。


「なんだ、くだらん」


 呂布は、興味のないように再度貴族へと振り向き、投げ飛ばした兵が落とした剣を掴んだ。呂布としては、軽く、という気持ちで剣を地面に叩きつける。

 尋常でない腕の振りと轟音が耳朶を震わせたが、予想と反し剣は中程からぽきりと折れた。


「ふん、粗悪な剣だ。切れん」


 呂布は剣だったもの柄を捨て、拳を構える。

 腰を抜かしていたレノンが、バタバタと足音をたて呂布の隣に近づいた。

 手には自前の武器である弓を携えている。一応、抗戦の意思はあるようだった。


「リョフさん! お前さん何者なんだ。あんなの初めてみたぞ」


「思いのほか敵の体重が軽かったものでな。振り回したらああなった」


「言うのとやるのとはでは大違いだと思うが・・・・・・おみそれしたわ。っ、リョフさん、あれはまずいぞ」

 

 レノンが指差した正面で、黒い外套をまとった3人組が何かを始めている。

 呂布にとっては初めての相手だったが、雑音が風に紛れて確かに聞こえてきていた。

 黒い袖から見える両手に包まれた部分から、赤い火球のようなものが見て取れる。

 眉間にしわを寄せたたまま拳を構える呂布を、レノンが制した。


「魔法だ! 逃げろ!」


「魔法・・・・・・とはなんだ」


 レノンが呂布に驚きの声を上げる前に、魔法使いの手から火が離れた。

 呂布に向かって放られた2本の火の赤い筋は、草原を焼くようして接近する。呂布は、とっさにレノンを抱え、大きく横に身を投げた。

 轟、という音が呂布の耳朶を震わせる。肌が焼ける感覚が幻覚ではないと実感させた。

 呂布はレノンを小脇に抱えたまま、後ろの別の熱源に目をやる。

 古い家屋が勢いよく火柱を上げていた。


「なんと、信じられんな」


「うわぁ、家が燃えちまう! って、おいおい! 地下にキノンとガノンがいるぞっ」


「まずいな、おいレノン。俺があやつ等を倒す。そのうちに、キノンを引き上げろ」


「わ、わかった! 気をつけろ!」


「あとすまんが、その弓を借りても構わんか?」


「お、おう。勿論だ」


 遮二無に家に戻るレノンを横目にし、呂布は左手に弓を握った。小ぶりだが、しなやかさと使い込まれた熱が感じられた。


 ようやく馴染みのある武具に触れられた。

 懐かしさを感じつつ、呂布は矢筒を地面に突き刺し、二本の矢を抜く。

 一つを腰にさし、もう一つの矢を下に向けた弓に矢をつがえながら、火の球のようなものを持ったままの魔法使いに向かって叫んだ。


「今のはなんだ! 奇術か」


「ハッハッハ! なんだ、この田舎者は。魔法の一つも知らぬらしい!」


「貴様には聞いていないのだがな」


「ふん、このゴメス士爵が答えてやっているというのに、なんと無礼な。そして、我が魔法隊を相手にして、生身の人間が勝てると思うなよっ。さらにだ!」


 貴族の男から、先ほどの雑音が聞こえてくる。

 したり顔の貴族は、より一層口角を上げて、告げた。


「この、ゴメス家に伝わる魔法を見よ!」


 帰属の足元に不思議な円形の装飾が浮かび上がっている。

 夜の闇の中で、蛍光のような色合いのそれは自己主張が強く、同時に必死に口を動かし雑音を奏でているだけの貴族に呂布は嫌気が差した。


「時間稼ぎか。レノン、矢を借りるぞ」


 後ろで懸命に仲間を救う男に礼を口にし、呂布が弓を引き絞る。

 ギリリという音と、限界まで引き絞ったゆえの焦げるような臭いが鼻腔を擽った。


 呂布の動きを制するように、最後の火の玉をずっと抱えていた魔法使いから、魔法が放たれる。

 大きく膨らんでいた火の球は、呂布を包むほどの巨大な火球となって放たれた。

 線、というよりは面となった攻撃を前にして、呂布は呆れたようにつぶやく。


「侮るな、同じ手とは」


 火であることに代わりがないのなら、対処など容易い。

 呂布は弓を森に放つように左に向ける。

弦を離し、剛力を乗せた矢を放射した。

 矢は風を切り裂き、大きく弧を描くようにして急旋回する。火の球を避けるようにして、横一文字に並ぶ魔法使い達に接近した。

 魔法使いたちは突然現れた死に抵抗もできないまま、一本の矢に頭部を貫かれ、絶命した。

 力なく倒れる黒い屍体に、兵たちは驚愕する。


「えっ、なんで!」


「魔法使いが、魔法使いが死んだッ!?」


「なるほど、使い手がいなくなると火の玉が消えるのか。なんと面妖な」


 魔法使いが死ぬと同時に、火の玉が霧散した。

 熱源を失い、同時に晴れた視線のむこうで、うろたえる兵たちが見て取れた。


「かかるぞっ! 俺に続けぇ」


 呆然とする兵を鼓舞するように、一人の中隊長らしき人物が拳を掲げた。

 兵としての本分を取り戻したのだろう。その喝に導かれるように、兵たちが一斉に呂布に突進してくる。先程までと違い、各々が命の取り合いを覚悟した顔だった。


「我が領主が魔法で道を開かれる!なんとしても時間を稼げ!」


 中隊長の細剣の突きをかわし、左手を掴む。籠手ごと掴まれた腕は、呂布の豪腕によりあらぬ方向にへし曲げられた。

 呂布は、痛みに落としされた剣を掴み、苦悶の表情を浮かべる顔の下に差し込んだ。


「なるほど、刺突用か。随分穿った武具を使うものだ」


 要領がわかれば、後はたやすかった。

 害虫を駆除するように、淡々と呂布が剣を振るう。

巨漢ゆえに剣さえ持てば、懐にはいられる前に敵を制することは呂布に余裕だった。リーチを生かし、突撃してくる兵の鎧の隙間に剣を差し込んでいく。

刺され、倒れ込もうとする兵を盾や投石とし、呂布は一直線に貴族へと近づいていく。

死体を乗り越えるように兵が進んでくるため、呂布にとって動きを読むのは容易かった。

 今までのどの戦場よりも、兵たちの動きは緩慢に思えた。鎧が重いのか、馬を携えていないからか、呂布にとっては一対一から一対三を繰り返すだけだ。


「しかし、多数相手だと割に合わんなこの武器は。やはり、戟か矛が欲しい」


 歯がゆさを感じながらも、呂布の武は衰える事はなかった。

 地の臭いに昂りつつある気持ちを冷静に捉えながら、淡々と作業を進めていく。


「な、なんなんだよ。この男は」


「化物じゃないか」


「ふんっ!」


 気合を込めて振るわれた拳が、兵の首をへし折る。

 久しぶりに人外と言われたことが、知らずに呂布の胸の奥をくすぐった。

 気づいたときには、最後の兵が貴族をかばうようにして剣先を震わせていた。


「くそっ、砲兵を雷神に預けなければこんなことには、あぁっ」


「遅いぞ」


 緊張に耐えかねたのか、兵らしき男が呂布に突っ込む。

 隙だらけだった構えを軽くいなし、顔面に右手を叩き込んだ。骨が砕ける感触と男が何度か地面を跳ねて行くのが見えた。


「よし、魔法陣ができたぞ!」


「ほぅ、見せてみろ」


 満面の笑みを浮かべる貴族は、汗だくで顔を上げる。よほど疲れる作業だったのだろう。握りこぶしに達成感と力が、込められているのが見て取れる。

 次いで、呂布を捉え、周囲を見渡し、大量の汗を吹き出した。


「な、なんで貴様がこんなところまで」


「三〇人ばかり突破したら遊び相手がいなくなってな。ほら、俺は暇しているぞ」


 今度は、呂布が威圧感を緩めないまま、満面の笑みを浮かべた。

 弓に腰にさしてあった最後の矢を構える。


「俺の弓とどっちが強いか。試してみろ」


「馬鹿め、貴族の魔法がお前の様な力バカに負けるわけがなかろうがっ」

 

 甘く見るな、と貴族が呂布と同じように構えを取った。

 怪訝な顔を浮かべる呂布に構わず、魔法陣を煌々と輝かせ、貴族の男が告げる。


「喰らえっ、フレイム・アロー!」


 放つ寸前にひときわ強い光を放ち、炎の矢が体現する。

 矢尻が顔ほどもある大きな炎を先頭にし、一直線に呂布に向かって突き刺さろうとする。


「ふっ!」


 魔法の種類を見極めたあと、呂布が矢を放つ。

力強い鉄の矢尻は、空気を切り裂き真っ直ぐに炎の中に突っ込んでいき―――炎をまるごと喰らってみせた。

 矢の勢いはそれでもまるで止まらず、骨を砕く音を奏で、貴族の眉間に羽をうずめた形でようやく静止した。


「・・・・・・炎で矢を作るなら、はじめから火矢を使えばよかろうが」


 呂布は、笑顔を浮かべたまま眠る男に、手向けでもない言葉を残す。

 特に感慨もないまま、燃える家へと戻っていった。






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