客将
空気が代わった。
正確には、怒りを押さえ込んだというべきか。感情が暴発したかのような怒気は霧散し、女王は緊張をわずかに緩めた。
その間隙を縫うように、呂布は再度女王に背を向ける。
呂布自身にも、自分の心が乱れていることがわかった。いくら落ち着こうと息を整えても、揺れは大きくなるばかりだ。
耳を閉ざし、ざわつく思考を抱えながら進む。もはや侮辱された、という気持ちは薄らいでいた。今はただ自分自身の動揺が厄介で、どうしようもなかった。
「呂布」
頼むような声が聞こえた気がした。気のせいかもしれない。呂布は一度も振り返らず、扉に手をかける。
引き戸を開けると、怪訝な顔を浮かべるティアとハリルがいた。どちらも心配そうに呂布を見つめている。
「呂布さん、あの」
たどたどしくも澄んだ声が届く。しかし呂布はその声に耳を傾けることなく、階段を登っていった。
眉根を寄せた表情に事態を察し、二人が戸惑いの表情を浮かべた。室内を見ると、女王が物憂げな表情を浮かべ、呂布の足跡を追っている。
ティアとハリルは顔を見合わせ、しばしの思案の後、それぞれのすべきことを目線で話し合う。
ティアは一瞬女王に視線を合わせ、申し訳なさそうに体を階段へと泳がせた。
「なんでもない、引き続き警護をお願いします」
ハリルは扉の前で事態を見守っていた兵士達に声をかける。いずれも興味深そうな表情を浮かべていたが、ハリルの言葉に本分を思い直したように姿勢を正した。室内に身を滑らせると、扉をしめ、懐の鍵を取り出し施錠する。
女王は、ハリルが近づいても表情を崩すことはなかった。どちらかといえば、放心したような様子ではあったが、考え込むように床を見つめている。
堪えきれず、ハリルが声をかけた。3度目の呼びかけで、ようやく女王が顔を上げる。金の目が微かに揺れていた。
「女王様、どうなされたのですか」
「……ハリル、か」
初めて顔を合わせたような口調。ハリルは女王がどういう状態なのか、何を起こしてしまったのかがわからない。
膝を床につき、小声で断りを入れた後、肩を抱き、揺すった。いくらか強い声で尋ねる。
「何があられたのです?」
「……余は、呂布に嫌われたようじゃ」
「なんと」
「間違ったことは言ったつもりはなかったのだが、怒らせてしまったようじゃ。すまぬ、我が麾下には加わってもらえぬ」
拗ねた気持ちを正すように、誠意をこめて伝えたつもりであった。だが、呂布には届かなかった。女王はそう思い、嘆いた。
女王は小さく謝罪の言葉をハリルに繰り返す。声はくぐもって、風邪のように鼻にかかっていた。
悲痛な顔を浮かべる女王と対象的に、ハリルは女王の言葉に違和感を覚えた。要領を得ない言葉ではあったが、今の状況を見て依頼を断れたことはわかる。
それは、状況を打破できる一筋の光を失ったということだ。
だが、真の問題は女王の悪癖が出たかどうかだと、ハリルは思った。
片眉を上げ、目を開く。肩を持つ手と声に、自然と力が入った。
「呂布殿に助力を断られたと。では、女王様は何をおっしゃられたのです?」
「呂布が最期の戦について間違った理解をしとったようじゃから、諭したのじゃ。でも、受け入れてもらえんでの。
そして、やはり何度言っても余と一緒に闘う義理はない、と」
「間違っていると、そういったのですか?」
「うむ、言った。あ奴、あのままだと一生誤解するぞ。そしてまたいつか後悔する。そう思ったのじゃ」
重ねる言葉に、ハリルは深く長いため息をつく。
しどろもどろで弁明していた女王は、側近の態度に瞼を何度も瞬かせた
「女王様」
「う、うむ」
体を大きく震わせて、女王が身を正す。いつもの柔らかな壮年の声からは想像できないほど、有無を言わせぬ口調だった。
「今回、呂布殿と直にお話されたのは何のためです?」
「勿論余に協力してもらい、この城を脱出するためじゃ」
「その通りです。ならば、先ほどの呂布殿の戦の是非については関係ないでしょう」
「違うぞ! 戦の是非ではない。呂布が戦に負けて後悔せぬなどという思いを抱いておったから、それは呂布らしくないというか。敗北を受け入れた事とは違うということをじゃな」
「ですから。それは、今、この窮地に、一切合切、関係ないことでしょう、と申し上げているのです」
文章を細切れにするように、一単語ごと力を込めながら告げるハリル。
「い、いや。だがしかしじゃぞ? ここで正さねば、後々呂布自身が……」
「いつも口を酸っぱくして申し上げているわけですが。
女王様は、正しいことがいつでも正解だと思っていらっしゃる節があります。しかし、世の中それだけでは渡れないものですよ」
「そ、それとこれとは関係ないではないか」
「女王様の抱いた気持ちが真実だとして、今呂布殿にそれを伝えてどうなります?
英雄として呼びつけて助力をお願いするだけでも、相手の気に障ることなのです。それに畳み掛けるように説教して、一体誰が力を貸してくれる気になるというのですか」
「う、む」
「ましてや呂布殿は女王様の家臣でもない方なのですよ。大人の男性が、我慢して女王様のような方の説教を聞き入れる謂れはありません」
ハリルがもし呂布と同じ立場ならば、聞き入れるかはわからない。
ただ相手は英雄である。人生を謳歌し、名を世に知らしめた者に、相応の自尊心がないわけがないのだ。それを若輩の女性に否定されて、すぐ頷くことなどできるはずがない。
あの目配せは、そこまで見込んでのものだとハリルは解釈していたが――女王としてはそこまでの配慮はなかったようだった。
ハリルは前途を嘆きそうになる自分を制し、気持ちを切り替えた。
言葉を飲み込む眼前の少女を改めて見る。若さを持つ、といえば聞こえばいいが、若すぎた。とても腹黒い貴族たちを上から抑えられるとは思えなかった。
しかし、そんなことはとうの昔にわかっていた。その上でハリルは彼女を選んだのだ。
今この国で一番国の行く末を案じているのは、間違いなく女王その人なのだから。
ハリルの微妙な葛藤など露知らず、女王は落ちた声で言った。
「む、むぅ。そうじゃな。確かに思慮が浅かった」
「浅すぎますな。いやはや、私もびっくりですよ。まさかの展開過ぎます」
「すまぬ。つい言わずにはおれんかった」
「人が良いのは結構ですが、時と場合を選んでください。悪意では当然としても、善意でも人は傷つきますよ」
「自戒する」
誓うように女王が告げる。
ハリルは歯噛みする女王から目を背け、背筋を伸ばした。東の空を見透かすように天井を見つめる。幻視のように、遠い王都の情景が浮かんだ気がした。
女王は同じように視線をあげ、ハリルの胸中を察し、視線を落とした。
反省を、何度も自分の心に言い聞かせているようだった。
「女王様はまだまだ学ぶことがありますな」
「承知しておる。やはり、物事は気持ちだけではどうにもならんものじゃな」
震える足をベッドから投げ出す。鉄を仕込んだように重く、自分のものではないようだった。
しかし、悠長なことは言っていられない。恥じと詫びの気持ちが、渦のようになって胸の内で暴れている。だが、このまま呂布に何も言わずにはいられなかった。
「では、呂布を迎えに行ってこようかの」
「おやめください。まだ体が満足に動かないでしょう」
「そうはいかぬ。非礼にはやはり礼節を持って詫びねば。許してはくれぬだろうがな」
足裏が石畳に触れる。捉える、というには力が足りず、幾度か立ち上がろうと試みるが、女王の腰がベッドから離れることはなかった。
ハリルは首を振り、言った。
「呂布殿に魔力を返してもらったといっても、まだ全快ではないでしょう。ここはティア殿を信じましょう」
女王の睫毛が大きく揺れた。
「ティアが迎えにいったのか?」
「ええ、私が行くよりは良いでしょうから。まぁ、こうなったらしょうがありません。なるようになれ、ですな」
「すまぬ、やはり取り返しのつかないことをしてしまった」
「ええ、精々反省してください。ただこういう時はあまり否定的なことばかり考えない方が良いですよ。ツキを遠ざけますからな」
「理論家のハリルらしからぬ言葉だな」
僅かに女王の唇が歪む、ハリルは臆面もなく、
「兄の受け売りですので」
と、いつもと変わらぬ口調で言った。
「ハミトか。あ奴は今どこにいるのじゃ」
「別室に。防衛魔法に力を注いでおりますので、今はお会いになられない方がよろしいかと」
「そうか」
女王は改めて自分に尽力してくれている部下の存在を感じ、頷く。
瞬間、呂布との会話が脳裏に蘇り、目を細め、唇に力を込めた。
「……ハリル、余は理想家か?」
「突然どうされたのです」
「呂布に言われたのじゃ。貴様の妄想になど付き合う気はないと。余は確かに力を持っておらん。王としての志を形にしようとあがいておるだけじゃ。
こうして城に閉じこもり、英雄を召喚しようとしたのも現状を打破できる術を手に入れるためじゃった。
じゃが、その力そのものから見放されたとすれば……余は一体、何を一人で頑張っていたんじゃがの」
思いを切欠にして、女王の記憶が蘇る。
苦く辛い記憶を振り払うように、女王は奥歯を噛み締めた。
どうすれば良かったのか、と愚痴っても仕様のない事だ。
父の病気を前に魔力を貯めることを決めた時、王位を継いだとき、貴族が反乱したとき。
もっと良い選択肢があったかもしれない。だが、国内外問わず、手数も勢力も違いすぎた。
出来うる限りのことはしてきた自覚も自信もある。結果、危機を逃れたことも窮地に陥ったこともあった。
だがそのいずれもが何も意味をなさないことだとしたら――積み上げてきた年月は無意味になる。なにより、女王のために今命を賭している部下たちに申し訳が立たなかった。
まるで陽炎を追うように、幻を無責任に追い求めただけなのではないか。そんな気すら女王は持っていた。
「一人ではありません。私も兄も、こうして城に随行してくれた近衛兵もいるではありませんか。ティア殿だって、力を貸してくれています。首都に戻れた近衛兵長もおります。女王様は決してお一人ではなく、志に共感したものがいるではありませんか。
気持ちを折ってはなりません。仮に呂布殿が戻らないのなら、戻らないなりに方策を立てましょう。
何、周囲を囲う雷神の部隊もお得意の魔法は使えないみたいですし、何とかなりますよ」
ハリルの声に女王が頷いてみせる。
「そうかの。皆、後悔しとらんか」
口にした言葉と裏腹に、女王はハリルの言葉が嘘だと思っていた。
今の自分が不格好にも後悔しかけているのだ。意思に付き合わされた者たちが、同じ感情を抱かないはずはない。
「英雄という光明に会うために、ここまで来た我々です。女王様が信じなくてどうされるのですか。女王様が懸命にあがいてきたからこそ、我々は貴方に命を張ったのですよ」
「今改めてその重さを感じたぞ」
「いやはや、これから数百万の民草の命を預かる方が何を仰るのですか」
女王の心中を察したように、強い言葉でハリルが告げた。
女王は空気を搾り出すようにして、ありがとう、と小さく呟いた。
月がたおやかに弧を描く。
その自然な様が、酷く綺麗だった。
月下、蒸すような暑さの中で足を動かす。
自然と、影のある方へと足が伸びた。館の影に入っていく。
城壁の縁から覗く炎は幻覚ではあったが、視界に入るだけで本物のような熱さを連想させた。
赤い影に照らされた城内は、地獄の釜のような不気味さだった。
ふと、視界の端に人影を捉えた。
地面に寝転がり、うわ言のように口を動かしているようだった。息は荒く、胸が激しく上下に揺れていた。
黒い布をかけられ、頭に見える包帯は赤く染まっている。
そして、そうした人影がいくつも見えた。捨てられた人形のように、皆が僅かな生を主張するように蠢いている。
はっきりとしていなかった視野が、急激に定まる。熱が引いたように、焦点が合った気がした。
ある意味ではあるが、懐かしい光景だった。
兵士から屍体になる前の、人間の居場所だ。
「死にたいか」
誰に言うでもなく、呟く。
唸るような声が、いくつか大きくなった気がした。
呂布はハルバートを肩から離し、声の主へと近寄る。覗き込み、包帯から僅かに露出した目を見つめた。
今度は声をかけることなく、呂布は少しだけ顎を下げる。寝そべる男は、眩しそうに目を細めた。
呂布は刃先を男の首に当てる。布越しではあったが、見当をつけ、振りかぶる。
鈍い音がして、頭が動いた。留めるもののない頭部が、傾き、動きを止める。
呂布は一瞥することなく、次の声の主を探した。
呂布が刃を下ろすたびに、声がひとつずつ減っていく。唸るような声ばかりが呪詛のように響いていた場が、少しずつ静寂を取り戻していった。途中で何度か振りかぶった刃を止めることがあったが、そのときは無理強いせず別の者の近くへと移動した。
ひとしきりの作業を終えると、呂布は刃についた血を払い、壁際に座る。赤い影と黒い闇夜に、血の匂いが滲む気がした。
「呂布さん、何をしているんですか?」
無表情のまま、呂布は声の主へ顔を向ける。ティアは怯えた声で言葉を重ねた。
「これは一体?」
「看取っただけだ」
感慨もなく、呂布が告げる。左手の甲で頬についた血を拭った。
「なんで、こんなことを」
「死にたいといったからだ」
そんな気がした、というだけだった。
年端もいかない少女に対し、言ってもわからないであろうことを、長々と説明する気もなかった。
「でも」
「死ぬしかない兵を生かしておいても、苦しむだけだ」
言い訳するわけでもなく、呂布は短い言葉を重ねる。
ティアは視線を上下に動かしながらも、言葉を探した。短い付き合いではあったが、呂布の状態が今までと違うことは察していた。ただ、どういう言葉をかければいいのかがわからなかった。
ティアは結局無難な言葉を選び、尋ねる。
「呂布さん、どうかされたんですか?」
「何がだ」
射殺されるような目線がティアを襲った。狼と対峙したように、全身の皮膚が泡立つようだった。
言葉は普通のものだったが、声色が明らかに鋭いものなっている。今までと違う、有無を言わせぬ拒否にティアは喉を鳴らし、耐える。
「いえ、ご気分が優れないようだと感じましたので。
……女王様と、何かあられたんですね?」
「ふん、確かに気分は最悪だったな。だが、別にどうということはない。高慢な娘だったというだけだ」
吐き捨てる言葉に怒りが混ざっていた。だがそれが呂布自身にも自分に対してか、女王に対してか判断がつかなかった。
探るような言葉ではあったが、ティアの声は呂布に不思議と落ち着きを与えた。心の一部が冷静になり、徐々にざわめきを潜めていく気がした。
求めるように、呂布が言葉を紡ぐ。
「あと、あの女王とやらは随分無礼だったぞ。いきなりこの俺に説教するとは思わなかった」
「そ、そうですか。それは申し訳なかったです。良い娘なんですけど、その」
「国が大好きなことは伝わった。だが、俺はそんな夢物語に付き合う気はない」
ティアの返答を待たず、呂布が言葉を重ねる。
ティアとしても呂布が手助けしてくれない状況は困るのだろう。命を賭けて英雄を連れてきたのだ。ティアとしても呂布にかける期待は大きいはずだった。
だが、そのことを考えても呂布は自分の言葉を変える気はなかった。志を持っている女王だとは思ったが、そんな夢のために、自分が戦をする意味はない。
女王にいったように、女王のために戦う理由は何一つないのだ。
「そうですか。それは残念です」
呂布の思惑と裏腹に、ティアは声色を変えず、呂布に笑いかけた。
「……何を考えている?」
「え?」
「なぜ笑う。貴様の思惑が破られたのだぞ。女王も死ぬしかない。この城も落ちるだろう。貴様が俺に望んだ事は、全部台無しだ」
「はい、そうですね。でも、そんなにはっきり言わなくてもいいじゃないですか」
ティアが呂布に近づき、悲しげに笑った。
呂布から、堰を切ったように言葉が溢れた。
「では何を考えているというのだ。ティア、貴様は死が怖くないのか。俺を恨まず、ましてや笑える理由がわからん」
呂布がいなくなれば、この城が落ち、皆が死ぬことは呂布にもわかっている。
ティアは神官という立場上、セードルフの将軍の話で考えれば死ぬことはないかもしれないが、戦火に巻き込まれないとも限らないのだ。
ティアは呂布の隣に腰を下ろし、膝を丸める。血の匂いがした気がした。
「私は確かに残念ですが――呂布さんのやりたくないことを強制するなんてできません。
だって、私がしてきたことはあくまでお願いですから」
歌うように少女が告げる。まるで自分を説得するように、呂布を見ようとしはしなかった。
呂布はそのとき、目の前の少女が酷く歪んでみえた。
思わず、説得じみた言葉を吐き出す。
「それは綺麗事だ。ティア、貴様の本心は別だろう」
「確かに助けて欲しいって気持ちは強いですけど、これも本心です。私、女王様のことも大切だけど、ぶっきらぼうで荒々しいけど優しい呂布さんのことも好きです。
だから、呂布さんが女王様の部屋を出たとき、こう言おうって決めたんです。戦争してくれ、って言われていやいや戦うなんて、そんなの……」
言葉にならず、ティアが顔を伏せた。戦争という言葉に恐怖を感じてしまったのか、体が震えている。
自分に振り抱える死の気配。親友を奪われる覚悟。そのいずれもが重く、冷たいものとしてティアの背中にのしかかる。
この状況を打破するには、呂布の助力は不可欠だ。ただ、ティアとしても戦えばいかに呂布とて無傷とはいかないだろうとは思っていた。
どうしようもない。どちらも生かすことなど難しいのだ。ならば、せめて無理強いはしたくなかった。
ティアは葛藤を吐き出すまいと、奥歯を噛む。
呂布はしばらく言葉を待ち、言った。
「泣き落としはきかんぞ」
「わかってます。そんなつもりじゃありません。
ごめんなさい。不快な思いをさせちゃいましたね」
鼻をすすり、ティアが頬を赤くした顔を上げる。聖女然とした女性はそこに泣く、年相応の泣き顔が見えた。
「話、変えましょう。呂布さんのこと聞きたいです」
突然、思いついたようにティアが言った。声も落ち着き、少しだけ拗ねた色を見せている。
呂布は隣に座る少女がよくわからなかった。生来人を推し量ることが不得意ではあったが、目的が読めないのだ。
空を見上げるように顔を上げ、呂布は言った。
「俺のことなど今はどうでもよかろう」
「いいえ、今しかありません。依頼だなんだを抜きにすれば、私呂布さんと友達になりたいですし。
お別れする前に、ちょっとでも仲良くなりたいじゃないですか」
唇の端をあげ、ティアが言った。
呂布は僅かに胸を刺す感情を押し殺し、答える。
「俺の友になる、だと。おかしな事を言う」
「ダメですか?」
「駄目だな」
「なぜですか?」
拗ねた声色をさらに濃くして、ティアが眉根を寄せる。腕に隠れて見えないが、風船のように頬をふくらませている様子だった。
呂布としては、断る理由などわかりきっていた。今から死別するものと仲を深めても辛くなるだけだ。同情や罪の意識で戦場に立つ気はなかった。
断るつもりで口を開くが、
「理由などない。そんなに話したいのならティアのことを話せばよかろう」
こぼれたのは、呂布にとっても言い訳のような言葉だった。予想外の言葉に、自分で自分の口を思わず抑えてみせる。
ティアは幾ばくか思案した後、息をつく。
「わかりました。そう仰るのなら、いくらでもどうぞ! でも、私に聞きたいことなんてあるんですか?」
「いや、特にはないな」
「じゃあそれこそダメじゃないですか。お話が終わってしまいますよ」
「……そうだな。ではなぜ俺に付きまとうのか教えてくれ」
「呂布さんのこともっと知りたいからです」
「それこそ会話が元に戻っただけだろうが」
ティアが軽く微笑みを浮かべ、再び腕の中に鼻下をうずめる。
互いに言葉を発せず、静寂が場を支配する。耳に残るのは、館側の壁に寄りかかる負傷兵の息遣いだ。
「……呂布さん、兵士さんたちは、死にたいと言っていたんですね?」
口ずさむように口を動かし、ティアが呂布に顔を向ける。目だけが動き、呂布の向こうにいたはずの死体を捉えた。水色のはずの瞳が、涙か炎に犯されて赤く揺れていた。
「ああ、そうだ。呼びかけて応答があったのでな。
近づいて、顔を覗き込み、刃を首に当てるだろう。まだ死にたくない奴は、そこで恐怖の色が濃くなる。だが、死を望むやつは、俺のことをじっと見つめて、受け入れようとする。
だから判別はたやすい」
「そうですか。彼らは、もう限界だったのですね」
呂布が頷くと、ティアは徐に立ち上がった。覚束無い足取りで、引き寄せられるように屍体に近づいていく。
地に膝をつき、指を顎の前で組み合わせ、顎を引く。恃むように、思いを込めた。
「祈りか。なんの慰めにもならんぞ」
「はい。ですが出来る限りのことはしてあげたいのです。私が助けられなかったようなものですから」
目を伏せたまま、ティアが言った。
「なぜそうなる」
「私は神官です。人を癒す力を持っています。もし万全であれば、この人たちも救えたはずです」
「傲慢だな。そうやってなんでも救える気でいるのか。
人を治すことができたとしても、戦ではそれ以上に必ず死人が出る。そういうものだ。
――ティア、貴様は」
徐々に荒くなる声色が、言葉を忘れたように止む。何を言おうとしたのか、胸の奥に燻っていたはずの気持ちがはっきりと形にならなかった。
しかし、無性に腹が立った。義務感のように、まるで自分のことを優先しない心情が、理解しきれず、不快だった。
ティアは立ち上がり、呂布へと向き直る。白い修道服が、ふわりと舞った。
「私は、神官ですから」
固い決意を滲ませて、言葉がつながる。自分に言い聞かせているようだった。
呂布はただ寂しそうに笑う少女を見つめた後、突き放すように言った。
「――ようやくわかった。貴様は、良い奴ではない」
「え?」
「芯がある、という風に思っていた。キノンを助けてくれたとき、感謝もした。協力し、ここまで来たのも恩義を感じたからだし、ティアが不快ではなかったからだ。
人のために尽くす、ということは良い事なはずだ。だが、そこにティアがいないではないか」
「私がいない?」
「ティアの意思がない。人のために尽くす、という生き方自体は志のようなものだろう。俺には持ち得なかったものだが、そういう生き方も貫けるならば良い事とは思う。
しかし、それはやりたいからやることであって、やらされて行うことではない」
「そんなことはありません。私は、私が望んで今ここにいます。力を得た者として、神官として生きていくことに迷いはありません」
「では力がなかったら、貴様は同じことをするか?」
「もちろん、治療します」
「だが今のティアと同じようなことはできない。それは間違いないはずだ。出来ることが、そのままやらなければいけないということにはならない」
「私の行いが間違っていると?」
ティアの目が鋭くなる。初めて呂布は睨まれた気がした。
「間違っているかどうかは知らん。正しいかどうかなんて俺の言うことじゃないからな。
ただティアのやり方が気に食わないだけだ。
人のために尽くし、治療し、祈りを捧げる。良い事をしているのだろう、とは思う。ただ度が過ぎている。貴様は自分のために何も出来ていないではないか。
人が良い、ということが度を越せば、それは自分を蔑ろにしているということだろう」
「……そんなこと、初めて言われました」
「俺は人に使われるのは懲りているからな。時々は、頭も働く」
自嘲するように言い、呂布は腰を上げた。
「俺は行く。もうここには用がない。ティア、貴様はどうする? 義理で連れ出してやらんこともないぞ」
「私は、残ります。女王様をほっとけませんから」
試すような言葉を、ティアが突っぱねた。
「そうか。達者でな」
表情を変えず、呂布が行く。
英雄の背中がティアから遠のいていく。
並の人ならば、大軍に囲まれたこの城から抜け出すことは難しい。だが、呂布ならばなんとかなるのだろう。
ティアは諦めと詫びるような気持ちを胸に抱き、俯いた。膝が折れ、体の震えが止まらない。
呂布が遠ざかると、すべてを奪われる恐怖が代わりにティアの中に入ってくる。城壁の向こうにいる軍勢を想像し、寒気がした。
雛が親鳥から見捨てられたような、そんな気持ちだった。そう思ってしまった。
トロワランス教会という宗教の下で、人々を癒す象徴。多くの人の尊敬を集め、希望となっている聖女という存在。それが自分だ。
人のために、尽くす。それは至上命題で存在理由なのだと、きつく固く教わった。
ならば、この恐怖はなんだ。口から飛び出そうとしている願いはなんだ。シンボルたる者が、抱いていはいけない感情ではないのか。
堪えきれないほどに、自分の感情が溢れてくる。なまじ聖女ではなく、ティアとして生きることを諭されたことで、心の閂が外れたように。
英雄など知らない。ただ、全てを助けたい。私も含めた、私の大切な人を守ってほしい。
我侭な自分を自覚して、もはや我慢はできず、声を上げた。
「――呂布さん!」
吠えた。
あらんばかりの肺の中の空気を押し出し、精一杯声を張り上げる。
呂布は立ち止まり、半身だけ振り向く。赤い炎に照らされて、男の影が陽炎のように昇った。
「私を、助けてください! 女王様もハリルさんも、そして呂布さんも含めた、私たちを助けてください!
お願いします! お願いしますッ!」
指の間に砂の感触。知らずのうちに、地面に爪を立てていた。白い服が土と砂に塗れ、汚れていた。
ティアは顔を上げることができなかった。呂布の顔を見るのが怖くて、地面だけを見つめていた。
視界は黒く、血の匂いがする。不快感など構わず、息を思い切り吸い込み、絶叫した。
「――私達のために、戦ってください!」
甲高い声。余韻が耳朶を震わせる。
ティアは肩で息を整る。湧いてくるように震えが走った。
顔を上げられない。自分のために一生懸命になったことが、どうしようもなく恥ずかしかった。
せめてもと足音を探るが、耳が余韻に巻かれたように言う事を聞かなかった。
頬に垂れる汗が、地面に数滴落ちる。
しばらくして、視界の上に靴の先が見えた。
ホッとしたような感情が芽生え、すぐに恐怖へとすり替わる。許されたと決まったわけではない。ティアは喉を鳴らし、地面に穴が開く勢いで息を吐いた。
「私は、呂布さんに嫌われたかもしれません。女王様は君主としては、まだ未熟かもしれません。私たちに足りないものがあるのなら、学びます。補います。
貴方に見合う人間になれるように、努力します。ですから、どうか!」
太い声が、聞こえる。
「……俺に見合う君主か」
恐る恐る見上げると、呂布の顔が思いのほか近く、ティアはビクリと震えた。
呂布は足をついたまま腰を落とし、膝に肘をのせていた。どこかおかしげだった。
「女王は君主としては取るにたらぬと思っていたが……そうか。ようやくわかったわ」
呂布がニヤリと口角を上げる。
「俺にふさわしい君主がどんなものか、俺もよくわかっとらん。物足りぬのは当たり前だ」
自分の言葉にこらえきれないように、呂布が声を上げ、笑った。
呆然とするティアを見て、ティアの頭をゆっくりとなでた。
「俺は誰にも仕えん。俺が戦をしたいときにするし、戦いたい相手とだけ戦う。女王の命令も面倒だと思ったら従わん。それでもよければ好きに使え」
「で、では」
「これから先はわからんが、向こうの大将は戦り甲斐がありそうだからな」
目線だけを城壁に向け、呂布が言った。
ティアは震える手で、頭の上に置かれた呂布の手の甲に触れる。そのぬくもりを確認すると、緊張が一気にほぐれ、尻を地面に落とした。顔が赤く染まっていた。
「ありがとう……ございます」
「そうだな。貸しひとつだ」
「はい、一生かかってもお返します」
「そういう言葉は別のやつに吐け」
「い、いえ。そういう意味ではなく」
「わかっとるわ。ティアは冗談を覚えたほうがいい――」
言葉を切り、ピクリと呂布が鼻を動かす。館の方向をじっと見つめた後、呆けるティアの腰をつかみ、脱兎の如く駆け出した。
驚くティアが抗議の声を上げる。チラリと見えた呂布の横顔が、厳しいものに変わっていた。
「なんですかっ」
「血の匂いだ」
そう短く告げると、呂布は質問を断ち切り、石畳の廊下に身を滑らせた。
駆ける勢いのまま床石を蹴り、階段を一気に飛び降りる。階段途中の九十度曲がる壁を蹴り上げ、さらに加速。滑空する中、ハルバードを右手に構えた。
部屋の入口前にあったはずの篝火が消えており、部屋の入口から漏れる明かりが唯一の照明となっていた。徐々に血の匂いが濃くなっており、その証拠のように、数人の兵士が折り重なるように眠っていた。
ティアも狭い視界で状況を察したのか、驚きを声に出した。
「中か」
倒れる兵士の隙間に足を下ろし、中を見やる。
男が床に倒れており、ベッドの上には自分の首をつかみ、足をばたつかせている女王の姿があった。
呂布はティアを離し、室内へと突進した。状況を読み込めたわけではない。ただ女王の体勢から、敵影が有ると判断しただけだった。
途中、足元で男のうわ言のような声が聞こえるが無視する。一直線に部屋をかけると、女王の眼前を刃が通るように、女王の体の上をなぎ払った。
骨を砕く感触に、半信半疑ではあったが、呂布は人の存在を確信する。思い切り、力のままに右腕を振り切ると、衝撃音と壁に無花果をぶちまけたような跡が広がった。
他に気配はないことを確認すると、呂布は刃を振り、血を払う。女王を見ると、涙目を浮かべ、息を整えていた。
女王は呂布を確認し、一度目をそらすが、覚悟したように向き直る。
「すまぬ、二度も助けられた」
頭を下げ、女王が謝意を述べる。
呂布は無視するように、言った。
「なんだ、こいつは」
呂布が、顎で壁面の血の花を指し示す。
「おそらく透明化魔法じゃろ。余がここにいるとわかり、攫いに来たようじゃ」
「暗殺ではなく誘拐か」
「だと思う。余が暴れたとき、足の腱を切ろうとしたからのう」
「ふんっ、姑息なやつだな」
「呂布、お主はなぜ余を助けてくれたのじゃ。自分で言うのもなんじゃが、余はその、きついことを言ってしまった」
上目遣いで尋ねる女王。呂布は踵を返すと、兵士の傷を見ていたティアの手を掴み、室内へと引きずる。状況がわからない女王は、ただその様子を見守っていた。
「礼ならティアに言え」
「ティア、もしや……!」
「呂布さんのご好意で、力を貸してもらえることになりました。あくまで部下じゃなくて、その」
「貴様を君主とするつもりはない。だが、客将としてなら力を貸してやる。そんな折、貴様にいきなり死なれてはつまらんから助けただけだ」
「そうか。うむ、うむ……」
噛み締めるように何度も女王は頷き、ティアを見つめた。表情から喜び具合が伝わってくる。
「ティア、すまぬ。お主のおかげじゃ」
「いえ、決断してくださったのは呂布さんです。私のおかげとかじゃないですから」
今度は呂布を見つめた。ティアの時に比べ、背筋が伸びているようだった。
「呂布、先程はすまぬ。言いすぎた。それを謝りたくての」
「今更だ。あれが貴様の本心だろう。だが、今更生き方は変えられん」
「良い。余が浅はかじゃった。その……今後共、よろしく頼む」
おずおずと女王の頭が下がる。呂布は、短く了承の言葉を述べ、目を一瞬伏せた。
向かい合う二人の隙間を、か細い声が通過する。
「和解できたようでなによりですな」
「おお、ハリル、無事じゃったかッ」
呂布が振り返ると、入口付近で倒れていた男――ハリルがふらふらとなりながら、立ち上がっていた。血の気が足りないのか、顔が青く染まっている。
「いやはや、死ぬかと思いましたな」
「ハリルさん、お腹から血が!」
駆け寄り、傷口に手を当てようとするティアを押しのけ、
「いや、ありがたいことですが今はそれどころではありません。早急に結界を構築し直さねば」
足を引きずりながらも、扉に近づき、小声で詠唱を始めた。呂布の目には、扉が水彩画のように淡く滲んだように見えた。
「結界?」
「ハミト――ハリルの兄じゃが、そ奴がかけてくれた結界じゃ。余が眠っている間、余を守ってくれたようでの」
「私にできる結界はとても兄には及びませんが、気休め程度にはなりますので」
「その結界とやらが破られたのか。その魔法をかけると何か変わるのか?」
「魔法を使った侵入を防いだり、中にいる人の気配を外部から読み取れなくできます。完全防音です」
ティアが、指で額縁を描くように、四角形に動かした。
「正確には、私ができるのは軽度の魔法を防ぐ程度の結界ですがね。
兄の結界は呂布殿をこちらに案内したとき、解除しております。その後結界はかけておりませんでした。すみません、迂闊でしたな」
「結果的に助かったのだから問題ない。ティア、無理させてすまないがハリルを看てやってくれぬか」
女王の依頼を待っていたように、ティアがハリルに駆け寄る。次いで、目を閉じ、手をハリルの腹部に当てた。微かに淡い光が漏れる。
ティアの息が荒く、激しいものになる代わりに、ハリルの呼吸が落ち着いていく。治療は成功しているようだった。
「しかし、姿が見えないようにする術があるとはな」
呂布が再度壁をみると、壁の血の足元に黒づくめの男の上半身が見えた。ベッドの足元近くには、黒い足が転がっている。呂布が腹部から切断したためだった。
「解けたぞ」
「死ねば解ける。そういうものじゃ」
「なるほどな」
「呂布殿、失礼します」
いつの間にか身を起こしていたハリルが、呂布を避けながら黒い屍体に近づいていた。
ハリルは膝をつき、男の上半身をまさぐる。全身を調べていると、左上腕に目線が留まった。
銀と金の獅子が向かい合った紋様が、腕に巻きつけられた布に描かれている。その布を掲げ、ハリルが女王を見る。
「これを、ご覧ください」
「セードルフの紋章、か。やはり雷神は余のことを知っておったか」
特段の驚きもないようで、女王は焦りの表情を浮かべず言葉を続ける。
「まぁそれくらいのことは覚悟しておったがの」
「兄の結界に阻まれて侵入できなかった刺客のようですな。結界が解けたのを好機と見たのでしょう」
ふらつく頭に喝を入れ、ハリルが状況を整理する。
呂布は顎に手を置きながら、ただ感想を言った。
「結界に透明化とはな。しかし、魔法といっても火を飛ばすだけではないのだな」
「火もありますが、それだけではありませんので。火は主に魔法部隊が好んで使う魔法ですな」
「うむ、確かにセードルフの魔法使いとやらが使ってきた。しかし、あいつらもこの透明化の魔法を使えれば俺も少しは楽しめたのだがな」
「魔法は色々種類がありますし、得意不得意もあるからのぅ。透明化は特に刺客やら影の者に好まれる魔法で――まて、呂布。お主今なんといった」
説明を続けようとした女王が、あることに気づき、言葉を切った。
次いで、問い詰めるように呂布に迫った。
「言っておくが透明でも負ける気はないぞ」
「そうではない、その前じゃ。お主、セードルフに魔法を使える者がおったといったか?」
「ああ、いたが。それがどうかしたか?」
「ティアも見たか?」
女王は、ハリルに寄り添うティアに問うた。
ティアは首を小さくふり、
「いえ、戦場ではそれどころではなくて。砲撃部隊ならはっきり見ましたけど。呂布さんはどこで見たんですか?」
「ティアを追ってきた奴らの中にいた。残らず殺したが、火の玉や火矢もどきを使う奴らがいたのだ」
「それはセードルフ軍で間違いないかの?」
「ティアがそう言っていたのでな」
「た、確かに森であった部隊はセードルフの紋章を身につけていましたけど。……あれ? ということは」
何かに思い当たったように、ティアが表情を改めた。
女王とハリルは確信を得たように、顔を見合わせる。表情が、どこか生き生きとしていた。
「ハリル、これは」
「ええ、私も驚きました。それにタイミングが完璧すぎますな」
「うむ」
「どういうことだかまるでわからんが」
「説明しよう。だが、その前にハリル」
「承知しました。ウェポ子爵をここに」
「わ、私も行きますッ」
ティアの肩を借り、ハリルが扉の奥へと消えていく。
呂布は怪訝な顔のまま、女王を見た。
「あの太った男を呼んで何をするというのだ」
にたりと女王が笑う。人差し指を天井に向け、言った。
「反撃の狼煙じゃよ」