ふぶんりつ。
待ち合わせは公園の噴水前。
暗黙の了解。さちはそう思っていた。
「さーっちゃーん。お祭りいこー」
幼い頃、ドロだらけの服のままで、夕闇迫る夏の日にさちを迎えに来た航平。十年以上も前から毎年続いている。
そして今現在、彼は浴衣を着て、彼女の目の前にいた。
噴水の縁に腰掛け、対するさちはTシャツにハーフパンツ(学校指定)。肩までの髪を結んでいるのは、おしゃれではなく暑いからだ。つまり、普段着以下。
いつもなら、航平も似たり寄ったりの格好。なのにどうして、今年に限って浴衣?
さちと航平は幼馴染。小さな頃はずっと一緒にいたが、最近はそうでもない。ここ何年も、一緒に遊んだことはない。
だが、夏祭りは別だ。
気付いたときから、夏祭りはいつも一緒。近所の公園の噴水前で待ち合わせるのは、幼稚園からの約束。毎年念を押さなくても、それは今年も夏がきて、セミが鳴いて、そして夏祭りが開催されるのと同じぐらいに、自然で当然のこと。
だった。去年までは。
いつも通りに適当以下の格好で待っていたさちの前に現れたのは浴衣姿の航平。
その理由は……?
「航平くん」
さちは無言で航平を凝視していた。だから、これは他人の声。
彼女が公園にくる前から、噴水の側に佇んでいた浴衣姿の少女の声だった。
淡いブルー地にピンクの紫陽花が散った浴衣を纏い、髪をアップにしてかんざしを挿した彼女はさちと同い年。だって。学校で見かけたことがある。名前は知らないけど。
彼女は、普段服装にあまり気を使わないさちすら思わず「かわいい」と見入ってしまうほどのかわいらしさ。
「あぁ、待った?」
航平の言葉に首を振る彼女。
「ううん、今着たところだから」
……そんな台詞、リアルで初めてきいた。
さちの思考は乱れていた。その大半は怒り。
そりゃそーだ。当然。当たり前。これで怒らなかったら、まともな人間じゃあない。
例え約束してないっつっても、こっちに断りもなく彼女と、ですか? ああ、それはオメデトウゴザイマス。精々楽しんでこられるといいんじゃないですか。ってか彼女できたんですね、あー、それはまた良かったですねー。しかもこんなかわいい子と。うわー、うらやましいですよ。にくいねー、このこの。
ですけどね、私に一言あっても良かったんじゃないですかね? いやいや、彼女のことじゃなくって、祭りの話ですけど。前もって言っていただければ、私も友達と約束したっちゅうねん、ボケッ!! ってかさ、よりによって待ち合わせここにする、フツー? 頭湧いてんじゃないのッ!!?
「あ、さち」
とってつけたように航平が言う。怒りをふつふつと煮えたぎらせていたさちはだが、ぐっとそれを飲み込んだ。
噴水の縁から立ち上がり、パンパン、とお尻を払う。
そして、渦巻く感情が欠片も除かないよう、細心の注意を払って言う。
「彼女、大分待ってたよ」
「へ?」
「お邪魔さま」
すたすたと、早足で公園を出て行く。毅然とした態度を保つように、胸を張って。
「あの、あの人と約束してたんですか?」
「え、してないけど」
そんなやりとりを背中で聞いて、煮えたぎる怒りはもうすでに、熱しすぎて気化している。
バカとか死ねとか、ありきたりの罵声も出てこない。超、が付くのも憚られるほど、さちは怒り心頭していた。
それ以来、さちは航平の存在を忘れるようにした。自分の過去から、記憶から消去。あなたは赤の他人ですよ、というポーズは怒りのオーラとともに崩れることはなかった。
だが。
怒りのエネルギーはそうそう持続するものではない。秋が終わって、冬になり、春がやってくるころには、さちの怒りも収まっていた。ただ、航平は彼女にとって、赤の他人のまま。
そして、また夏がやってくる。
七月最後の土曜日が夏祭りの日。
「えー、うん。わかった。じゃあ、五時にね」
笑いながらケータイを切るさちの胸中に、一抹の寂しさがないとは言い切れない。だって、毎年一緒だったのだから。
こうやってお祭りの約束するの、初めてじゃない? と苦笑い。
こうなればちゃんとした物に着替えなければ。いつものTシャツ姿のさちはタンスの中身を頭の中で確認。
まずい、着てく服がない。
どーしよっかなぁ、と悩んでいると「お客さんよー」と、下から母の声。誰だろ?
降りていって玄関のドアを開けて、さちは固まった。
話は一年前に戻る。
「あの、良かったら、一緒に夏祭りに行ってくれませんか?」
夏休み前、航平は校舎裏に呼び出された。
どんな猛者が待っているのか、そしてどんな闘いを繰り広げることになるのか。戦々恐々としていた航平は、そこにいたのがおずおずとした女の子で心の底からホッとした。
あー、良かった。決闘じゃなくって。
航平は特に顔が良いわけでも、運動神経が良いわけでも、頭が良いわけでもない。部活は将棋部だが、将棋は出来るけど黒星の方が非常に多い。
ただ、この数ヶ月で痛いほど身長が伸びた。夜中にみしみしと音が聞こえるぐらいに。
本人に知る由もないのだが、身長と比例して、女子かの注目度が上がっていったのだった。
とりたてて良いところがないかわりに、欠点らしいものが見つからない彼。ちょっとしたきっかけさえあれば、誰かが彼に恋してもおかしくはなかったのだ、実は。
だが、残念ながら、当の本人に自覚はない。
そして航平は、コイといえば「淡水魚ッ!」と力強く答えてしまうヤカラであった。
「別にいいよ」
目の前の彼女が決死の思いで口を開いているというのに、あっさりと応じてしまうぐらいに。
「他のヤツも一緒だけど、いい?」
救いようのない馬鹿はこんなことまで言い出した。先に言うだけの思慮があった、と感心するべきなのか、じゃあ最初から断れよと憤るべきなのか。
ちなみに、言外の思惑が潜んでいそうな一言だが、そんな器用なことができる航平ではない。
思いもよらない一言を告げられた彼女は一瞬怯み、考えた。
「か、構いません!」
彼女はポジティブだった。
捉えようによっては遠まわしに断られたともとれる言葉に、喰らいついて離さなかった。
とにかく一緒に行って良いって返事はもらったんだからッ!
じゃあ噴水の前で待ち合わせ、ということになったのは、当然毎年そこでさちと待ち合わせているから。
この馬鹿は、当然今年もさちと祭りに行くつもりだった。それは今年も夏がきて、セミが鳴いて、そして夏祭りが開催されるのと同じぐらいに、自然で当然のこと。
祭りの当日、普段着以下のジャージで出て行こうとするのを姉に止められた。
「まった」
「何?」
にやにやと笑む年の離れた姉に訝しげな視線を向ける。昔から、関わって碌な目にあったことがない。やや腰が引けるが、そこは男の子の矜持、ぐっと堪える。
「さっちゃんとお祭り?」
「そうだけど」
何、その顔。
姉はむんず、と弟の襟首を掴んだ。ぐいぐい、と居間へ連れて行く。
「かあさーん、男物の浴衣ったあったよねぇ」
「え、ちょっと、待てよ! そんなのいらねぇって!」祭り行くだけだってば。
「バカねぇ。イイ歳して。デートなんだから、ちゃんとした格好で行くのがスジでしょうが」
「バ……ッ!? デートじゃねえよ!」
「あんたは本っ当にバカね」
「バカでもねえよ!」
……こうして、人生で初めて浴衣に袖を通し、祭りに行く羽目になった航平。浴衣のせいか、なんだかそわそわする。そう、それは浴衣のせいだ。姉貴が「デート」とか言ったのはまったく関係ない。絶対関係ないッ!
いつもの公園。いつもの噴水の前。いつも通り、適当な格好のさちはこっちを凝視している。
そりゃそーだ。
呆れられるのか、罵られるのか。
大笑いされそう。うん、指さして大笑いだ。ってか、どーしてアイツは浴衣じゃないんだ? そりゃ、浴衣姿なんて見たことないけどさ。オレが浴衣着てんだから、あっちだって浴衣着ててもいいじゃんか。どんだけ毎年一緒に行ってると思ってんだ。その辺、分かっても良くね?
見当違いの怒りは本当は怒りではなく、得体の知れない高揚感で。それを誤魔化すためにあさっての方向に考えがいっている航平は気付かなかった。
さちがどんな顔をしているのか。
「航平くん」
意識の外から声を掛けられた。掛けたのはさちの横にいる浴衣姿の子。ん? と一秒ほど考えた航平は、そういえば約束していたことに気付く。
あ、忘れてた。
「あぁ、待った?」
忘れててすみませんでした。
「ううん、今着たところだから」
この子は浴衣だ。良かったー。オレだけ浴衣だったら大分浮いてたじゃん。やったラッキー。
不意に、さちが立ち上がった。ぱんぱん、と尻を叩く様子は一見普通なのだが、物凄い怒りのオーラが見える、ような気がする。
「彼女、大分前から待ってたよ」
押し殺した、ドスの効いた声。やっぱり、なんかすげぇ怒ってる……。
「へ?」
「お邪魔さま」
ずかずかと公園から出て行ってしまう。声も憚られるほどの怒りのオーラは気のせいではなかった。
「あの……約束してたんですか?」
「え、いや、してないけど」
いつものことだから、改めて約束なんてしてない。
「なんか怒ってるし」
「お祭り、行きましょうか」
「……そうだね」
後ろ髪引かれながらも、祭囃子の聞こえる広場へと向かう。
その年の祭りのことは、あまり良く覚えていない。
ただ、ひどくつまらなかったのは覚えている。
それから。
航平はさちに無視され続けていた。無視というか、赤の他人扱い。声を掛ければ返してくれるが、それ以外の反応はない。教科書ももう貸してくれないし、弁当のオカズも分けてくれない。ジュース一口飲まして、なんて頼むことすらできない始末。
あの夏祭りの日から、さちはずーっと怒っている。
理由は?
考えてもわからないものはわからない。
さちの考えることはいつもそう。オレの手には負えない。
だけど、夏祭りはさちと一緒じゃないと楽しくないのはわかった。すごくすごくよく、わかった。
そしてまた、夏祭りの日がやってくる。
「姉貴」
「なに」
「浴衣、着せてくんない?」
「はぁ?」
航平はさちの家に行った。お祭りは楽しくないといけない。その為にはさちがいないと駄目なんだ。それで、オレができることといったら。
「ごめん」
謝ることしかないじゃんか。
玄関を開けると、そこには、去年のデジャヴュ。浴衣姿の航平がいた。
ただ、去年と違うのは、彼が玄関先で正座をしていること。
「ごめんッ!」
がばっ、と土下座する航平。その姿は潔いのだけど。それはいいのだけど。
え? ええ?
戸惑うさちを置いてきぼりに航平は土下座を続ける。
「何か、色々あったけど、本当にごめん。だから、これからもオレと一緒に夏祭りに行ってほしい。やっぱり、さちと一緒じゃないと楽しくないんだ」
言葉には反省の色がうかがえる。だが。
「なんで怒ってたか、わかってる?」
「それはムリ」
「あんたねぇ」
即答されて忘れていた怒りがムクムクと蘇えってくる。だが、それを押さえつけるように航平は必死に言う。
「でも! 一緒にお祭り行こう!」
……何それ。
「もう、他の人と約束しちゃったし」
ため息まじりに突きつけると、この世の終わりのような顔をする航平。
さちはケータイを開いた。
ルルルル……ピ
「あ、もしもし。うん、あたし。それがさ、急に先約が入っちゃって……や、そんなんじゃない、と、思うんだけど。くされ縁でさ、一緒に行ってやんないと泣きそうな顔してんだもん。うん……本当にごめんねぇ。今度なんかおごるから。うん、じゃあごめんねー」
パタン、とケータイを閉じる。
「さち……?」
「……用意するから待ってて」
「え?」
「一緒に行ってやるから、いつもんとこで大人しく待っててって言ったの!」文句あんのッ!?
なんだか、バカバカしくなってしまった。
ずっと怒ってたのも、航平を避けてるのも。全然自然じゃない。自然なのは、航平と一緒に夏祭りへ行くこと。
でも、怒ってたのは事実で。だからさちは航平を睨みつけて言ったのだ。顔が赤いのを、航平にバレなければいいな、と思う。
「マジでッ!なんでッ!?」
絶対無理だと思ってたんだけど!
航平が犬なら、間違いなくちぎれそうなほどに尻尾を振っている。そんな顔で彼は笑った。
言いたいことは山ほどあったのだけど。
「忘れた」
だって、航平は私と一緒がいいんだって。
些細なこと、でもなかったけど、しょうがないから水に流してあげる。
いいから待ってて、と告げると、さちは家の中へ戻る。珍しく切羽詰った表情で、
「おかーさーん! 浴衣ってドコにあるっけ?」
裾が翻る紺地に赤い花の浴衣は随分昔に買ったもの。ビーサンをパタパタと走らせる度に揺れる髪は一つに結っただけ。さちの姿はお世辞にもきまってるとは言えない。だが、走ってくるさちの姿は航平の心には確実に残る。それは絶対だ。
噴水前で待つ航平の前でぜーはー、と息を整え、乱れた髪と裾と襟元を整える。裾からはだけて見えた足にドキドキするよりも、慣れない浴衣でさちが転ばなくて安心する航平。
「ま、待った!?」と問うさちの顔は赤い。気がする。
航平はえへら、と笑う。
「ううん、今きたとこ」
「ウソつけッ!」
「あ、今やなこと思い出した」
祭りへ向かう途中で航平が呟いた。辺りはもう薄暗い。
うっすらと祭囃子が聞こえてくる。久々のその音色に、さちの心は軽い。
「何?」
「去年のこと」
む、とさちは若干身を固くする。
「全ッ然楽しくなかったんだよね」
「へ、へー」
「金魚すくいも射的も型抜きも、これっぽっちも張り合いがないっつーか」
「ふーん」
「だって、『私は見てるから、航平くん頑張って』とか言うんだぜ?」
「それはありえないわ」
即答したさちの袂に入ったビニール袋は、今日の戦果を入れるためのもの。その膨大な戦果で二人は夜店のおじさんを本気で泣かせたことが幾度もある。
その為、去年の祭りではどれだけの夜店、屋台が安堵の涙を流したことか。
「だろ? 祭りっつったら、屋台の一つや二つ潰す勢いで行かないと」
夜店のおじさんが聞いたら卒倒しそうな言葉を吐く航平と、重々しく頷くさち。
「だよね」
それに、
「帰りに暗がりの方に行こうとするしさぁ」
さちはこけかけた。
「虫とかいそうだから行きたくねぇっつーの。なぁ?」
その状況で虫かよ、とツッコみたい衝動を堪える。
「ここまで朴念仁だとは思わなかった」
ちょっと、将来的に一抹の不安が。だいぶ苦労するんじゃないの、私……。
「……なんか悪口言われた気がする」
気のせいじゃない?
「とにかく、これで幼馴染復活ってことでいいんだよな?」
「まあね。毎年あそこで待ち合わせだからね。ちゃんと約束したからね」
「ん、わかった」
よし、とさち。
未来に不安はあるものの、今日は遊ぼう。なんと言っても、二年振りの夏祭りなんだから。
「久々に金魚全すくいでもやってやるかぁッ!」
「さち」
「何?」
「あー、なんだ、す……すき焼き食いたくね?」
「やだ。熱いし」てか、売ってないと思うよ。
「じゃあスキーとか?」
「今、夏だけど」
「すき……っとした気分だよね」
「そうだね。一年間のわだかまりが解けたしね」
「……すきっ腹が痛い」
「あ、じゃあ先になんか食べようか。あんず飴とかより、焼きそばとかイカ焼きの方がいいよね。もう屋台やってるかな」
「すき……ンヘッドのおじさん、今年もいるかな」
「どーだろーねぇ。今年もやぐらの屋根に上がって、ダイブしちゃうのかねぇ。あれ命綱付けてないんでしょ? PTAからクレームきたんじゃなかったっけ?」
……。
「それで?」
仁王立ちのさち。
「な、何?」
さきほどから顔を真赤にして、しどろもどろの航平。
何、じゃないでしょうが。
さちは息を吐く。ぼそり、と、
「へタれ」
「……うるせえよ」
全くしょうがないので、さちは自分から航平の手を握ってやったのだった。
だけど、ちゃんと言ってちょうだい。 了
この話を思いついたのは2009年の7月25日です。近所の夏祭りがありました。
学生のカップルが歩いていて、女の子は洋服で、男の子が浴衣を着ていました。あと、おじーさんとおばーさんが、仲良く歩いてお祭りに行く姿も見ましたよ。
末永く、ずっと一緒に二人でお祭りに行くカップルってかわいいなぁ、とか、男の子だけ浴衣って珍しいなぁ、とか思っていて出来た話がこれです。
書きたかったのは当然、浴衣姿で土下座する男の子なのです。