タイタニック
引越しが終わって全員でテーブルを囲んだ夕食の間も、真由美さんはずっと硬い表情のままで僕を見ようとはしなかった。定位置と言ってしまえばそれまでだが、彼女と僕の席は遠く離れており、そして今はそれ以上の距離を感じていた。
P300Aの追加投与は拒絶された。あの伊都淵さんだってすぐに成長した訳ではないといった理由で。しかし当時と今とでは状況が違う。僕の弱さや迷いが救える命も救えなくしてしまうんです。そう懇願してみたが「君の人格を変えてしまうようなことは出来ない」と所教授の首が縦に振られることはなかった。梓先生も黙って首を振るだけだった。僕は陰鬱な気持ちでドームを出ていった。結果をもたらさない能力に何の意味があるだろう。知識が増えその使い方を覚えても、感情を統率する人間性が劣っていては、どんな力を持っていようと張子の虎に成り果てる。こんな矮小な男を人類の希望として選んだことは、伊都淵さんらしからぬ判断ミスだったのではないか、僕はそう考えていた。僕が自分に投資をしていたなら、その額を五分の一にまで減らしていたことだろう。女々しい人間重機の繰言は、誠さんが見つけてきた本物の重機の中で涙と共に流れ出していた。
取り囲んでいた空気が甘く芳しく感じられて顔を上げると。重機の運転席から見下ろす場所に真由美さんが立っていた。
「いま、いい?」
僕は必死に涙を拭ったが、撥水加工の施されたウールが水分を吸い取るはずもない。おそらく顔中赤い毛糸だらけにしたままで真由美さんに返事をした。
「ええ……」
いくらトコログリア接種済みとは言え、氷点下の屋外に立っていて辛くないはずはない。しばれかけたドアを開け真由美さんに手を伸ばす。その手を掴んだ彼女は「よいしょっ」と言ってキャタピラに乗り、そして狭いキャノピー(運転席)に入ってきた。僕はオペレーター用シートを譲る。
「さっきはごめんなさい。つい感情的になっちゃって」
「……いえ」
真由美さんの話がどう続いてゆくのかはわからない。彼女の頭の中を探りたくて仕方ない。僕がその誘惑に打ち勝つにはかなりの努力が必要だった。
「待っててあげる」
僕が何か話し出すのを待ってくれるのか? 脳波を読まなければ、そんなトンチンカンな誤解さえ二十三歳の若者はしてしまうものだ。僕は謝罪した。
「申し訳ありません」
分厚い手袋をはめた手でニットキャップを被った頭を掻く。隔靴掻痒ではないが、していることそのものが無意味ではある。
「何故、あやまるの? 帰ってこないつもり?」
え? どうやら僕は感違いしていたようだ。真由美さんは僕が戻るのを待っててあげると言いたかったのだ。僕は壊れた扇風機の如く首を振った。
「いえ、帰ってきます。ここには母もいますし……でも、それがいつになるのか――」
内気な僕は「真由美さんが居るから」とは言えなかった。恋心というものは妻子が居て同僚の女性を食事に誘うような不真面目な男でさえ純真な少年に変えてしまうものだ。昼間したように真由美さんが顔を覆うマフラーを下げて言った。少しだけ不安気な表情にも見える。
「何年も帰ってこられないなんて言わないわよね?」
僕は予想される生存者数と、ドーム建造に要する期間を素早く計算した。伊都淵さんの計算通りなら一千二百万人――つまり東京都の人口が生き残っているはずなのだが、今までに救出なった人々の割合を考えると、かなり下方修正せねばならないと考えていた。バイオ流体緩衝材の培養から教え始め、ここと同じ規模のドームを700~800程作り上げる。基礎工事が始まった時点で次に移るとして――
「一年から一年半ぐらいでしょうか」
真由美さんがにっこりと笑った。
「待っててあげる」
ホモローチ惨殺の記憶が消えた訳ではない。雄さんの発言も気になっていた。僕にこんな重い使命を課した伊都淵さんを恨めしくも思っていた。だが――
白夜だったので「周囲がパッと明るくなったように感じた」とは言えないが、感覚的にはそれに勝るとも劣らないものがあった。僕の憂鬱は自分自身を騙し切れないところに根ざしていたのだ。手袋を脱ぎ捨てて淡いピンク色の肌を露出させる。
「実は僕の手と足は作り物なんです」
「わかってる、あなたのお母さんに聞いたわ。だからこそあたし達を助けることが出来たんでしょう?」
「気持ち悪いとか思いませんか?」
「全然思わない」
この期に及んで何を迷うことがあろう。二人の吐息で曇るユンボのキャノピーの中、僕は真由美さんをふんわりと、それこそ壊れ物を扱うかのように抱きしめた。彼女の唇は温かかった。恐らく悲嘆にくれていた僕が体温調整を忘れていたせいだろう。キーを捻るとユンボのエンジンが始動する。その音で誰かがドームから出てくるかも知れないとは思ったが、僕達の激情を止められるものは最早何もなかった。
狭いキャノピーの中で、僕と真由美さんは結ばれた。何度目かの愛を交わし終えた時、ガラスに付いた真由美さんの手の跡がとても印象に残った。――タイタニックだ――その記憶は僕自身のものではなかった。伊都淵さんのものか、それとも父のものなのか、何であろうと構わない。僕は果たすべき責任が増えたことが嬉しかった。
「見つかったか?」
雄さんと僕はドームを中心に30km圏内の捜索を終えて戻っていた。雄さんの橇にはどこからか集めてきた食料品のダンボール箱が乗っているだけで僕のホバーも同様、LPGボンベと誠さんに頼まれたガラクタのみが荷物の全てで、生存者はおろか動物の一体も見つけられずに居た。本当に2~3パーセントの生存者が居るのだろうか。シェルターらしきものを数件見つけたが中に人の気配はなく、これを100km圏に延ばしたところで大した成果はないように感じられていた。僕は力なく頭を振る。
「そうか、市庁舎の地下も避難物資だけが残されていて人の気配はなかった。あの衝撃波では地下に潜る時間さえなかったのかも知れないな。明日は100km圏まで伸ばしてみよう。誠の作った短波無線機の通信範囲はせいぜい50kmだ、危険は伴うが仕方あるまい」
「見つかるでしょうか?」
「見つけるんだよ、何としても」
それが終わればいよいよ僕達は旅立つことになる。留守を守る人の数を、出来れば男性の頭数を増やしておきたいと思っていたのは雄さんも同じだったようだ。
おそらく外気温は氷点下30℃を下回っていただろう。ホモローチの死骸は腐敗が進むのも遅く、大掛かりな捜索に出る前に氷中行軍に慣れてもらおうと連れ出した智君に大きなショックを与えていた。改めてホモローチを観察すると三分の一程が女性? 雌? つまり胸に膨らみがあった。荷物は僕が下ろしておくからと言うと、彼は青い顔をしてドームに入って行った。明日こそ――たったひとりでもいい。生存者を見つけられますように。僕はよく晴れ上がった空を見上げた。
一時間進んでは視覚と聴覚を解放する。それらしい動きがあれば半径5km圏内ならどちらかのアンテナに引っ掛かるはずだ。しかし何も動きはない。そして僕達が今日の捜索に出かける前、智君が雄さんに話しているのを訊いた――小野木さんは真剣に探しているようには見えないんですが――常人から見ればそうかも知れない。雄さんは「丈は、あれで必死に探しているんだ」と答えてくれていた。目を凝らし耳を澄ませると、集中のため僕は黙り込んでしまう。そんな僕に不安を抱いた智君はパーティーを組む相手を入れ替えて欲しかったのかも知れない。
四時間が経過し、捜索範囲を広げても生存者を見つけることは出来なかった。氷のオブジェを掘り起こせば何かしら出てくるものはあるのだが、それが生存者である可能性はゼロに等しい。家族らしい四人が体を寄せって凍りついていたのを見たとき、智君は朝食を全部もどしていた。彼はかなり疲れているようだった。前を行く僕との距離が開きつつある。帰りはホバーに乗せていってやるか、そう思って再び視覚と聴覚を捜索モードに戻した時、地響きと共に凄い勢いで前方から迫ってくるものをみとめた。
「猪だっ! デカイぞ。逃げろっ」
氷の平原に身を隠す場所などない。話しかけてみるか? いや、そんな余裕はなさそうだ。高校柔道部の主将としてインターハイに出たという智君だったが、185cmの体を凍りつかせたように立ち尽くしている。猪の鼻息は荒く凶悪そうな牙を振りかざしながらの突進だった。選択の余地はない。僕は智くんを突き飛ばしておいて黒い弾丸にタイミングを合わせた。数歩助走して猪を飛び越える。跳び箱の要領だ。目標物を見失った猪は数十メートル駆け抜けてからヒヅメで氷を蹴立てて四輪――いや四足だな、とにかくドリフト気味にUターンしてくる。今度はホバーにもたれかかったままの智くんに狙いを定めて。
殺るしかないか――僕は全速力で駆け出した。ええと……猪の急所は耳の後ろか心臓か。なになに、肋骨の三番目と四番目の間を……って、そんなの探してる暇はない。あの厚い皮脂を見る限りスラッグショットでも撃ち込まなければ突進は止まないだろう。瞬時に猪に駆け寄った僕は首筋めがけて手刀を叩き込む。何か硬い物が陥没するような感触があった。猪はそのままよたよたと二~三歩進むと、どうと横倒しに倒れた。その音で顔を覆っていた両手を開くと、智君が震える声で言った。
「す、すげえ……小野木さん、格闘技でもやってたんですか?」
倒れた猪は100kgは優にありそうなガタイをしている。それが時速50kmで突進してきたら大抵の格闘家も逃げ出していただろう。泡を吹いていた口からはみ出した牙も15cmはある。僕だって出来れば逃げたかったのだが、そうすれば智君とホバーを見捨てることになる。猪には可哀想だが、こうするしかなかったのだ。我々の血となり肉となってもらうことで成仏してもらおう。確かボタン鍋にするには臭み抜きのため、血抜きをする必要があるはずだ、と猪の後ろ足を持ち上げて気づく。分銅のような物が通されたロープが巻きついていた。
「何だろう?」