サイトカイン・ストーム
退却を始めたゴキブリ人間たちの頭部が熟れたザクロのように破裂してゆく。どの個体も同じように体液同様、黄色く変色した脳髄を撒き散らし、その飛沫は僕の足元にも飛んできた。僕は焦った。以前は逃げ出しただけだったじゃないか。距離が接近していたからなのか? いや、あの時とそう変わらないはずだ。イトペディアにアクセスしても回答は得られない。あの時点で伊都淵さんが未接触であったゴキブリ人間の情報などなくて当然だ。
僕は自分がとんでもないことをしたことに気づいた。どう転んでも敵わない伊都淵さんより早くゴキブリ人間対策を講じて、更に彼等を懐柔することが出来れば、みんなの前でいい格好が出来るのではないか、真由美さんに頼もしい男だと思ってもらえるのではないか、そんな功名心に駆られて繰り広げた殺戮の相手は、異形のハイブリッドに姿を変えていたとはいえ元は紛れもなく人間だったのだ。
≪殺らなきゃ殺られていたんだ。仕方ないじゃないか≫
≪追い払うことだって出来たのに、僕はそうしなかった。それに彼等を切り裂いていた時、僕は愉悦にさえ浸っていた。あの気の弱かった僕が……≫
後悔は絶え間なく押し寄せてくる。何がリーダーだ、伊都淵さんに持ち上げられていい気になっていただけじゃないか。ガランと音を立てて鉄パイプが転げ落ちる。膝の力が抜け、涙が溢れ出した。9.02直前に存在が確認されたタキオン粒子があれば、それに乗って時間を逆行したくなった。
「タケ坊の奴、遅くないか?」
作業の手を止めることなく誠が雄一郎に訊ねた。
「そうだな、出掛けてもう4時間になる。あの身体だ、心配したことはないと思うが見てこよう。衛星電話を持って行くぞ」
ガスタービン発電機の配管をしていた雄一郎が立ち上がって腰を伸ばす。
梓先生が言った通りなら、相手が何であろうと丈の身体に指一本触れることは出来ないだろう。そうは思うのだが、茫漠とした不安が雄一郎にはあった。じっと右手を見つめる。中山達との闘いで意思があるかのように動いたそれと同じものを丈は持っている。まだまだ精神的に未成熟な丈が自身の発揮する力に酔いしれて暴走してしまう危険がないとは言い切れない。「導いてやってくれ」伊都淵からもそう言われていた。だが、それが自分に務まるのだろうかといった不安もあった。『動いてこそ見つかる答えもあるってもんだ』今は亡き農園オーナー――丈の父親の言葉を思い出す。とにかく丈を見つけよう。ローラーブレードに足を通し、クロスボウを手に取ると雄一郎は一気に緩斜面を駆け下りて行った。
かつて国道だった場所に出てすぐ雄一郎は強烈な臭気に襲われた。何だ、この臭いは……クロスボウを左手に構える。見渡す視界の中、氷に出来た斑点の様に横たわる茶褐色の個体は頭部らしき部分が破裂して黄色っぽいジェル状の物を流出させていた。死んでいるのか? 雄一郎はおそるおそる近づいてみる。間近で見たことがなかったため、それがゴキブリ人間の死骸だと認識するまでに少し時間がかかった。流れ出ていたのは脳漿のようだった。これほどの数が居たのか……いや、もしかするとこれでも全部ではないのかも知れない――丈はどこにいる。
俄に丈の安否が気になった雄一郎は異形の屍の間を縫って走り出す。こいつ等は何故死んでいるのだろう。丈がやったのだろうか? そんな事を考えながら数キロ程走った時、見覚えのある赤いコートが目についた。膝をついて俯いているように見える。
「丈っ! 丈なのか?」
雄一郎の呼び掛けにも返事はない。積み重なった異形の残骸を回り込んで赤いコートに駆け寄った。
「丈……怪我はないか? これはお前がやったのか?」
力なく顔を上げた丈の目はゴーグルのレンズが曇っていて見えない。泣いているようだった。
「雄さん……僕は人殺しです」
そう言ったきり丈はまた俯いてしゃくり上げる。雄一郎は衛星電話を取り出した。
――雄一郎か、どうした?
「伊都淵さんをお願いします」
電話に出たカジが伊都淵を呼んでいる様子があった。
――何かあったようだな」
脳波を読むことの出来ない電話越しでも伊都淵の勘の鋭さは人並み外れて優れている。明らかに何かを察知している口調だった。雄一郎は推察を混じえて現状と丈の様子を伝えた。
――頭部が? 実はこっちもマリアが――君が襲われかけた熊のことだ。丈君から話は訊いているだろう。彼女が一体捕獲してきてくれたんだ。それで尋問しようとしたらいきなりバン! 頭が破裂して死んでしまったよ。
「それも丈がやったんでしょうか? こいつ、随分ショックを受けているみたいなんですけど」
――おいおい、丈君はバケモノじゃないんだぞ。800kmも離れた場所から思念で命を奪うなんてことは出来んよ。これはきっとサイトカイン・ストームだろう。
「サイトカイン……何ですか? それは」
――おそらく彼等にはプラスミドを使った遺伝子導入がなされたんだと思う。そんな時代遅れの方法でゲノム(DNA塩基)量も染色体の数も違う異種間が上手く融合するはずはないんだ。免疫系が異形の細胞をウィルスと判断して攻撃を加えたんじゃないかな。放っておいてもホモローチの第一世代は勝手に死滅するだろう。
「ホモローチ? それが奴等の名前なんですか?」
――ホモサピエンスとコックローチのトランスジェニックだからホモローチ、ゴキブリ人間じゃあ語呂が悪いだろう。
命名を得意気に語る伊都淵は雄一郎に褒めて欲しいようでもあったが、今はそれに取り合っている場合ではない。
「専門的なことはよくわかりませんが、これは丈がやったのではない訳ですね?」
――奴等の死体は頭部が破裂したものばかりなのかい?
「いえ、体が半分になっているものもあります」
雄一郎は丈を取り囲むようにして積み重なった死骸を見て言った。電話の向こう、黙り込んだ伊都淵は何か考えているようだった。
――何体かは丈君がやったのかも知れないな。彼と代わってくれるか。
「伊都淵さんだ」
そこに居るはずの雄さんの声が遠くで聞こえるような気がしてならない。手渡された衛星電話に僕は耳を近づけた。
――何体殺したんだ?
一時も休むことなく襲いかかる悔恨に苛まれていた僕に、ダイレクトに訊いてくる伊都淵さんだった。僕は電話を取り落としそうになった。
「……多分、六十人ほどだと思います」
――雄一郎君にも話したが頭が破裂した連中は君のせいじゃない。
「本当ですか?」
気休めではないのだろうか? だが、顔を上げて見た一面にゴキブリ人間の死骸が散乱している。僕の知らない何かが彼等に作用したのかも知れないと、思えるようになっていた。
――ああ、詳しいことは雄一郎君の意識を読んでくれ。確かに彼等も元は人間だったが意思を交わすことは不可能だったろう? 私がそれを試す前に死んでしまったが、マリアと一緒に居た依子の話では意識らしい意識は持っていなかったそうだ。今回のことは襲ってきた連中から身を守るためだった思うしかない。そして早く君自身の能力を掌握しろ。
雄さんの意識からサイトカイン・ストームの情報を仕入れる。それでも僕は十人程殺してしまっていた。許されることではない。「はあ」と弱々しい声が洩れる。自分の声ではないような気がした。
――君の出発前にも言ったが、時間がどれだけ残されているかはわからないんだ。そうやってメソメソしている時間があるならドームの建造を進めろ。君のせいで生き残っている人々の命が危険にさらされるとしたら、それこそ後悔してもし切れるものではないぞ。傍に居れば背中のひとつも張ってやりたいところだが、そうもいかん。自分で立ち直れ。過ぎた事を気にしてても始まらん。君は失敗をしてはいけないと考えているんじゃないか? だとしたら大間違いだ。人類の歴史そのものが失敗の連続に過ぎないんだから。戦争然り、科学然り、政治や経済だってそうだろう。失敗を糧にするんだ。
伊都淵さんの言葉は厳しく僕に降り注ぐ。そうだ、僕はシェルターの人々を守らねばならないんだ。母を、子供達を――
――君はまだ成長途上だ。命を奪った行為を容認する訳ではないが、彼等は君が手を下さなくても死んでゆく運命だった。小さな子供は蝶の羽根を毟ったりもするだろう? そしてそれがいけないことだと学んで行く、成長ってはそうゆうものだよ。この俺だってガキの頃はカエルの肛門に爆竹を突っ込んでみたりヘビを小間結びにしたりもした。そのくらい誰だって通る道じゃないか」
いや、幾ら何でもそこまでは……とにかく、伊都淵さんの言わんとすることはわかった。彼の子供時代が相当な腕白坊主だったことも。そして闘うということは相手を打ちのめすばかりではないということを伊都淵さんは伝えようとしてくれていた。
「ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です。ドームの建造にかかります」
「その意気だ」
僕は電話を雄さんに返して立ち上がった。雄さんもホッとした顔になっている。
「丈は優し過ぎる。俺もシェルターを奪い返す時、6人殺している」
ならず者どもに奪われたシェルターの奪回作戦については誠さんや伊藤さんから何度も聞かされていた。その6人については雄さんが直接手を下したのではないということも。
「でも、やむを得ないことだったんでしょう?」
「あのまま生きながらえてくれればとも思ったが、怪我の手当もせず放置したのは間違いなく俺の判断だ。命を奪う行為をやむを得ないとは、お前の親父さんだったら絶対に言わなかったろうな。それを俺はやってしまったんだ」
僕ならどうしていただろう? 真っ先に頭に浮かんだ疑問はそれだった。罪のない命を守るため、時として力に訴えなければいけない場合だってある。雄さんの選択は正にそれだったはずだ。だが僕にそれが出来たかと問われれば自信を持って答えることは出来ない。返答の代わりに僕は言った。
「帰りましょう。戦利品を誠さんに見てもらわないと」
「そうだな。戻ろう」
僕達はホバーがゴキブリ人間の死骸に接触しないよう、注意して進んでいった。