Optimist(楽天家)
遅かったか――
駒ヶ岳サービスエリアに作った氷のホテルの中に人影はない。僕は落胆に肩を落とした。多少、時間はかかっても彼等を同行させていれば……悔恨は尽きることなく僕の胸に溢れ出てくる。氷の檻で見たような血痕はなかったが、積み上げられていたはずのダンボール箱は散乱し、中身のなくなった缶があちこちに放り出されている。
「血液型は整頓好きのAよ」といった真由美さんとその母親が居て、この散らかりようはない。
組織的に襲撃を仕掛けてきたゴキブリ人間どもの数を思い出す。人の良さそうな父親だけが男性のパーティーでは、奴等の急襲に為すすべなく保存食として連れ去られたと考えるのが自然だった。僕の背中が見えなくなっても手を振り続けてくれた真由美さんのチャーミングな顎のホクロが僕の記憶の中でクローズアップされていた。
僕は、はたと気づいた。緊急避難用にと石田さん一家に教えておいた、掘り起こし放置されたままの地下タンクがあったはずだ。一縷の希望に縋って氷のホテルの裏手へと回った――誰かひとりだけでも命を取りとめていてはくれないものかと。
「石田さーん! 居ませんかー?」
加減して叩いたつもりだが屋外に放置され錆の吹き出した地下タンクは大きく凹んでしまう。耳を済ませてみるが反応はない。僕はもう一度肩を落として回れ右をした。その時だった。常人の感覚では捉えられないほどの小さな空気の揺れを感じた。タンクに登って点検口に被せられた直経50~60cmほどの蓋を開くと、聞き覚えのある涼やかな声が僕の耳に届いた。
「小野木……さん?」
「そうです。ご無事でしたか」
真由美さんの心細げな顔が僕の照らすLEDランプの中に浮かび上がる。彼女は手をかざし顔を逸らせた。残念ながら眩しかったのは僕の笑顔ではなかったようだ。
「ご両親は?」
「……寝てます」
僕は円筒形のタンクから滑り落ちそうになった。この状況でよくも寝ていられるもんだ。しかし何故ここに? 緊急用とは告げてあったがゴキブリ人間どもが襲ってきてからでは、ここまで逃げてくる余裕などなかったはずだ。そのままの疑問を真由美さんにぶつける。
「世界がこんなになっちゃったのに、お父さんったらビールばかり飲みたがって仕方なかったんです。最初のうちは母も大目に見ていましたが、そのうち1本が2本になりで……」
石田博氏が無類のアルコール好きだったのは救出した時の様子からわかってはいたが、死んだ父同様、さほどアルコールに強くない僕に、所謂〝大酒飲み〟の気持ちは理解出来ない。
「怒った母がビールの箱をタンクの中に放り込んじゃったんです。そうしたら父は「万が一のためにタンクに入れるかどうか試してみよう」と言い出して……ほらあの体型でしょう?」
確かにあの立派なお腹がこの狭い通路を通り抜けられるかどうかの不安はあったろう。だが彼の目的が他にあったのも疑いようのない事実だ。
「それで?」
真由美さんが奥で眠りこけているはずの両親の方をちらと見やる。バツが悪そうな顔をしていた。
「入ったはいいけど出られなくなってしまったんです。タンクの中はとっかかりになるものも何もなくって。それで小野木さんが戻ってくるまで、そこに居なさいって母が……」
「ええ、でも真由美さんとお母さんまで中に居らしたのは何故ですか?」
「父がおいおい泣き出したもんで、ふたりで引っ張りあげようとしたんです。でも小柄な母やあたしでは……」
そう言うと真由美さんはペロリと舌を出した。重量級の父親を引っ張りあげようとして結局、二人とも引っ張り込まれたしまったという訳か。漫画みたいな一家だな。僕は思わず声を上げて笑ってしまった。彼女も釣られてエヘヘと笑う。タンクの奥からは大小二種類の鼾が聞こえてくる。この一家なら大抵の災害は乗り越えることが出来ただろう。
食料なし、ビールのみで六日間のタンク生活を送る羽目となった石田さん一家は、コンビニの店内から救い出した時同様、旺盛な食欲を示した。ホバーの上で胡座をかいて缶詰を頬張る石田博氏の姿は、杜都市で別れたマリアを彷彿とさせた。
「すると、杜都市には大勢の生存者が?」
「そうです。これから行く中ノ原市にも氷のドームを作る予定ですが、完成には約一ヶ月を要します。どちらに住まわれるかはご家族で協議してお決めになって下さい」
「そりゃあ先に工事に着工している杜都市だろう。東北のカリスマが居るならなにかと安心だし」
「でも、それだとまた小野木さんに迷惑をかけちゃうんじゃない?」
博氏の奥さんが僕の方をちらと見て言った。
「次の東北行きが僕の担当になるのかどうかは分かりません。伊都……東北のカリスマの判断に委ねてありますから」
「じゃあ、あなたはどこに?」
「は?」
真由美さんの問い掛けに僕はドギマギしてしまった。「あなたと一緒に居たい」と言われた訳でもないのに、だ。特段目立った容姿ではない。スタイルも梓先生のようなモデル並みといった風でもないのだが、初めて見た時から僕を魅了して離さない何かが彼女にはあった。「慌てて結婚なんかするんじゃねえぞ、遺伝子が求め合う女性が必ずどこかに居るからな」小学生だった僕に父親が言った言葉が蘇っていた。
「ええっと、ですからカリスマ次第なんですが、ドームの建造がある程度進むまでは多分農園――中ノ原市に居ることになると思いまふ」
素敵なお姉さまの前で萎縮するチェリーボーイ同然となった僕は慌ててそう付け加える。何やら発音まで怪しくなってしまっている。真由美さんはふっと唇を緩めて言った。
「じゃあ決まりね。命の恩人にお礼らしいお礼も出来ていないんですもの、何かお手伝いさせてもらわなきゃ。いいでしょ?」
水を向けられた彼女のご両親は、なるほど、といった感じでこくりと頷いた。真っ直ぐに見つめてくる真由美さんのやや吊り目がちな瞳に、僕は吸い込まれて行きそうになっていた。