ドク・ホリデイ
「するとヤスミさんは最初からわかってて、ああいうことを?」
「悪いヤツのことは悪いヤツだった俺の方が詳しい。お前等は人が好すぎるんだよ。最初っから排気口を塞げって俺が言ったら従ったか? 特に鈴木は頑固でいけねえ。『話せばわかるはずです』とかなんとか言って俺の言うことに耳も貸しゃあしなかったろうな」
確かにそうかも知れない。今回のヤスミの提案を受け入れたのも雄一郎には苦渋の決断だったろう。榊はそう考えていた。ひどく咳き込んだヤスミの吐き出した痰が氷の台地を赤く染める。
「大丈夫ですか?」
「ああ、なんでもねえ」
「なんでもないって、血が混じってるじゃないですか」
「うるっせえな、俺がなんでもねえって言ったらなんでもねえんだ」
急に不機嫌になったヤスミに榊はそれ以上の追求を止めた。
教団地下では雄一郎によるトコログリアの処置が始まっていた。激痛を伴うと聞かされたそれに信者達は及び腰だったが『今回のことでおわかりでしょう。地下で生活することには多くの問題がついてまわります。強制はしませんがトコログリアの接種をお勧めします。この世界で生き抜いて行くためには屋外の活動に耐えうる肉体が必要なんです』との呼び掛けに最初に応じたのは、二十歳になるかならないかの女性だった。
「今からでも人生をやり直すことは出来ますよね?」
それは雄一郎への問い掛けではなく、自分を納得させたいがためのものに思われた。
「肉体は魂の入れ物に過ぎない、と伊都淵さんは言ってました。処置を申し出られた時点で、あなたはもう新しい人生を歩んでいるのだと思います」
雄一郎の言葉に、少女は心底嬉しそうに微笑んだ。全身を固くして激痛に耐える少女を見て、ひとりまたひとりと処置を願い出る者は増えて行き、最終的には全員に処置を施すこととなっていた。
「氷でドームを?」
「ええ、パソコンはありますか?」
作業場の奥まったところにあったパソコンに雄一郎はメモリを差し込んだ。ドームの設計図と完成予想図、バイオ流体緩衝材の培養法などが書かれた画面がモニタに映し出された。
「ここには設備も整っており身を惜しまず働く方が大勢居られます。屋外なら電気が落ちてもパニックを起こすことはないでしょう」
「こんな簡単に培養が出来るものだったのか……」
かつて導師デクと呼ばれた石井はモニタを食い入るように見つめていた。
「専門技能はないですが建築現場に居た者、土木作業員だった者が居ます。やりましょうよ、石井さん」
発電機のメンテナンスを担当する中川の声に、石井も決意を深めたようだ。
「そうだな、みんなの意見を聞いてみよう」
もとより統制のとれた集団ではある。伊都淵の提案であり、それを持ち込んだ雄一郎が建造の目鼻がつくまで残って作業を手伝うと言ったことも幸いし議題は速やかに決議された。
「あの……いいですか?」
一番最初にトコログリア接種を受けた女性が手を上げる。
「屋外での作業着が必要になると思うんです。あた、高校は服飾科に通っていてデザイナー志望だったんです。あたしに作らせてもらえないでしょうか? 嫌な思い出ばかりの修行衣は脱いでしまいたいんです」
その提案は満場一致で受け入れられた。後日、作業場の一画が縫製工場となる。21人の女性たちはどこからかミシンを運びこんできて裁断、採寸、縫製を手際よく行なった。採寸の際、冗談が飛び交い笑顔が弾ける場面も何度となく見られるようになる。黒田と高橋の着ていた法衣が裂かれ、中綿は取り出されて人々の新しい洋服へと変わっていった。懸案だった電力は風力発電の設備が完成し設置を待つのみとなっていた。原発のお膝元だったこの地域だが、この厳しい気象に救われていた。衝撃波で吹き飛ばされたプラントは氷点下の冷気で自然に温停止となり、二次被害の拡大をとどめていた。物事は視点を変えることによってプラスにもマイナスにも見えるということか、石井は今更ながらに人生普遍の摂理を学んでいた。
「ここらでいいんじゃねえか」
ホログラムマップを手にしたヤスミが言ったのは教団跡から15kmの地点だった。榊は橇を止めた。
「運のいい野郎だぜ、ブリザードだったら良かったのによお」
ヤスミが快晴の空を見上げてごちた。それでも吐息さえ凍りつきそうな外気温ではある。
榊に橇から引きずり下ろされると、高橋はきょろきょろと周囲を見回す。両手両足は頑丈な結束バンドで拘束されていた。
「手え出せや」
ヤスミの言葉に高橋は拘束が解かれるのを期待してバレーボールのアンダハンドレシーブよろしく両手を差し出す。するとヤスミはその手をいきなり蹴り上げた。自らの手で顔面を強打した高橋の鼻から血が流れ出していた。
「こいつはさっきのお返しだ。俺達は行くぜ、達者でな」
背を向けて立ち去ろうとするヤスミと榊に高橋は慌てて拘束された手を振り上げる。
「待ってくれ、これを外してくれるんじゃないのか」
「俺の話を真に受けてたのか? お前に舞い戻ってもらっちゃ困るんだよ」
生還する気でいたのだろう。高橋の顔から表情が抜け落ちた。
「だったらここで凍え死ねというのか。待ってくれ、せめてナイフでも置いていってくれよ」
「なんでもかんでも信者にやらせてて自分の体の使い途まで忘れちまったみてえだな。その口についてるのは何だ。歯で噛み切るんだよ結束バンドは金属じゃねえんだぞ。後ろ手に縛らなかったのは大サービスだぜ、行こう」
ヤスミは榊に顔を振った。
「ハイクッ!」榊が犬達に号令をかける。氷煙を残して去ってゆく橇に高橋の叫びが浴びせられる。
「無茶だ! こんな分厚いバンドが噛み切れるもんか、待ってくれ。なあ、待ってくれー……」
高橋の哀願が聞こえなくなるまで榊は声を発しなかった。
「どうしたい? 無口だな」
「こういうことには慣れなくって……」
「それでいいんだよ、人にはそれぞれ役割ってものがある。ヤクザと呼ばれた俺達がいたからこそ上手く回ってたことだってあるんだ。必要悪なんて偉そうなことは言やあしねえが、これは本当だぜ」
「わかるような気が……します、ヤスミさんはいいヤクザだったんですね」
「バッカ野郎、そんなのが居る訳ねえだろ。ヤクザはヤクザ、あの金看板は悪いことをしますって決意表明なんだ。それと俺の本名はヤスミじゃねえ、田下っていうんだ。田下馨。いい名前だろう。ったく、お前等ときたら俺の高尚な洒落も解さねえんでやがる。ヤスミ――ホリデイだろうが、肺病病みの助っ人ドク・ホリデイを知らねえのか?」
「知りませんよそんなの。誰なんですか? 俺達若者にもわかる例えにしてくれないと突っ込みようも――あっ! 流れ星だ、見ましたか?」
榊が東の空を指差して言ったがヤスミ――田下馨から返事はなかった。それっきり口を閉じた橇上の田下馨は眠ったものだと思っていた。




