制圧
抵抗する者も逃げ出す者も居なかった。汚染された空気からは解放されたものの、今度は氷点下の冷気に四肢の萎縮を余儀なくされる。逃げようにも逃げ出すだけの体力が残ってなかったのだ。銃を手にした者も居ない。パニックに襲われどこかで放り出してきたのだろう。氷に身を投げ出したまま起き上がれない者も居た。このままでは全員が凍死してしまう。そう考えた雄一郎は井上を見張りに立たせ榊と共に地下に向かう決断をした。
「貸せっ」
榊から乱暴に懐中電灯を奪われても、放心したように蹲ったまま黒田は声も発しない。物憂げな目で見上げただけで氷点下の外気にブルブルと体を震わせていた。
回廊の折り返し地点まではダミー氷塊の隙間から薄灯りが射しているが、突き当たりを曲がった途端に常人の視界は失われる。だがP300Aが全身に行き渡っていた雄一郎に懐中電灯は必要なくなっていた。
「ヤスミさーん! どこですかー」
ここへの道中、農園跡のシェルターで使った燻り出し作戦を興味深く聞いていたヤスミだ。雄一郎の意図は理解してくれるものと信じていた。
「ここ……だ……」
やはり常人には捉えきれぬほどの小さな声が聞こえた。白川の居た仮玉座の方向だ。場内に立ち篭める煙を吸い込まない様、身を低くして歩をすすめる。榊もそれに倣うが、彼の大柄な体格が浮遊するディーゼルエミッションを吸い込ませる。雄一郎は激しく噎せ返る榊に「そこで待て」とハンドシグナルで伝えた。
玉座の手前、機関室と書かれた部屋の奥で何かを叩くような音がする。雄一郎がドアを開けると発電機の吸気ダクトに頭を突っ込んだまま銃床で床を叩く白黒二色の修行衣があった。
「良かった、無事だったんですね」
「ああ、例の燻り出し作戦を聞いてたからな、つぅ……」
ヤスミはだらりと下げた右腕を左手で抱える様に雄一郎達に顔を向けた。
「怪我をしているんですか?」
「大したこたあねえ」
「正悟師――あいつに薫陶棒で肩を殴られたんです。鎖骨が折れているようです」
ヤスミの状況をデクが代弁する。換気装置の所在を訊ねると、あるにはあるが電源が落ちた今は使えないと答えてきた。
「防災グッズはどこに? あなたは動けますか?」
デクは頷いて大師控え室を指差した。
「出るぞっ!」
ダミー氷塊の底から雄一郎の声が聞こえて井上はほっとしていた。信者達が体を起こし全員で襲ってきたら弾倉にある弾だけでは制圧し切れない。尤も、意識のしっかりした数名ですら氷塊にもたれかかるのがやっとの状況ではあったが。
雄一郎達は持てる限りのダンボールを担いで屋外に出てきた。雄一郎、榊、デクの三人は白川の部屋で見つけたガスマスクを着けており、榊の背中にはヤスミから手渡された小銃が背負われている。乱暴に梱包を開くと防災グッズが詰まったバッグをひっくり返す。寝そべったままの信者の体にカイロを貼り付け、アルミの温熱シートでくるんでは氷塊まで引き摺って行って信者同士の体を寄り添わせた。手袋を脱いで行うその作業に雄一郎とデクの手は真っ赤になっていた。
「動ける者は手伝ってくれ」
デクの声に腰を下ろしていた数人の信者が立ち上がった。
「排気口の覆いを外してきます」
次にすべきことは心得ているといった様子で榊が教団敷地の裏手へと走っていった。
「……私にも」
温かそうな法衣で着膨れした黒田が言った。雄一郎が冷たい一瞥を送ると暴挙にでも遭ったかのように首をすくめて黙り込んだ。
「発電機を動かせる人は居ますか?」
雄一郎は信者達を見回して言った。一塊りになっていた信者の中からひとりが手を上げる。身をくるんでいだアルミの温熱シートがガサガサと音を立てた。
「歩けますか?」
「転んで足を捻いてますがなんとか……」
ワイヤーフレームの眼鏡をかけた信者が自信なさげに答えた。雄一郎は数秒で決断を下した。
「おぶって行きます。煙を吸い込まない様、これで顔を塞いで下さい」
戻ってきた榊からガスマスクを受け取ると信者の顔に被せる。マスク越しに躊躇う様な視線を黒田に向けたが「さあ」としゃがみこんだ雄一郎に促されて、それに従った。
信者を背負ったまま階段を駆け下り、機関室へ向かう雄一郎は疾風のようだった。集光式の視界は赤外線式のノクトビジョンの様に緑色の世界にはならない。二分とかからずに機関室にたどり着いた。発電機の操作にかかる信者に「すぐ戻ります」と残してヤスミを担ぎ上げた。
「……つぅっ、お手柔らかに頼むぜ。こちとら怪我人なんだから」
「少しだけ辛抱して下さい」
そしてまた教団の地下を疾風が駆け抜けて行った。
避難した全員が地下に戻ったのはそれから二時間後、煙は排出されていたがいがらっぽいディーゼルエミッションの臭いは残っている。玉座に上がろうとする黒田の後ろからデクが声を掛けた。
「まだ、そこに居られるつもりですか? あなたにその資格がおりなのでしょうか」
「何だと? この裏切り者の無礼者を外に放り出せいっ!」
黒田は真っ赤な顔で怒鳴った。顔を見合わせる信者は居ても命令に従う者は居ない。狼狽えた黒田は怒鳴り続ける。
「どうしたっ! 聞こえなかったのかっ!」
幾ら声を張り上げようと誰ひとりとして呼応する者は居ない。信者達は〝悪鬼の化身〟と黒田が呼んだ雄一郎達の果敢な行動を目の当たりにして、ようやく正常な思考を取り戻していた。
「大師様、いや、白川さんの命令に従わなければどうなります? あなたのボディガード、ヒマヤーナは全員凍死したんですよ」
発電機を再起動させた信者中川が人差し指を上に向けて言った。ヒマヤーナの四人は信者たちが屋外へ避難した時点で三人、デクの手当も虚しく最後のひとりも命を落していた。
「白川さんだと? 無礼者っ! お前も同罪だ、タントラの業だっ! 修行衣を脱がせて外に放り出せいっ! ぐっ……」
黒田が胸を抑えて座り込む。短時間に起きた急激な温度変化が、従順だった信者達の反乱が黒田の弱った心臓に致命的なダメージを与えていた。悟りの境地、ニルヴァーナに達していたはずの白川が寒さにも煙にも耐えられなかった挙句、生活習慣病とも言える心疾患に白旗を上げている。信者達の意識から何万遍と唱えてきた教義は消え去り、四つん這いで呼吸の仕方を忘れてしまったかのようにごろごろと喉を鳴らす肥満体を冷たく見下ろすばかりだった。やがて腕はその巨体を支える力を失って俯せに倒れ込む。黒田の体は細かく痙攣を始めていた。
「どなたか医療の心得のある方は?」
信者の輪を見回す雄一郎に中年の信者が進み出て言った。
「我々は下級信者と呼ばれていました。サラリーマンだったり主婦だったり学生だったり、取り立てて技能を持たない者が地下での作業に割り当てられていました。お陰で〝神の試練〟いえ、9.02を生き延びることが出来たのですが……ですからそういった人間はここには居りません。鈴木さん、でしたね? あなた方は凄い。銃を突きつけた我々を、そして今またその愚劣極まりない男まで救おうとしている。もはや神を信じる気持ちは失せましたが、これはその男に降された天罰だとは思えませんか?」
そうかも知れない、だが目の前で命を落とそうとしている人間が居て何もしないでは居られない。雄一郎はリュックを探る。もう一瓶、緊急用トコログリアが残っていたはずだ。
「やめとけ!」
榊に体を支えられたヤスミが一歩前に進み出る。
「女は犯す、てめえらだけ温かそうなオベベを着る。おまけに犬まで食らおうとする奴だぞ。さっき誰かが言った通り、救いようがねえってのはそいつのことだ。それに見ろ、もう手遅れだ」
黒田の痙攣が緩慢になってきた、ひいっひいっと喉の奥で笛が鳴る様な息をふたつ吐いた後、肉体は全ての機能を停めていた。
「次はそいつだ」
いつどこで着替えたのかグレイの修行衣を身に纏い信者達に紛れていた正悟師アートこと高橋弘樹をヤスミが指し示す。信者達の視線が集まり高橋の顔から血の気が引いていった。
「こっ、殺さないでくれっ! 俺はただ黒田に言われる通り――あんたを殴ったのもそいつに言われたからなんだ。何でもやる。そうだっ! そこの玉座の下は収納庫になっていて金塊がたんまり入っている。半分……いいや、全部やってもいい」
高橋は死人に口なしとばかりに黒田に全ての罪をおっかぶせて命乞いを始めた。しかしその言葉など耳に入らぬかのように高橋を囲む輪が縮められて行く。額をこすりつけんばかりに床に平伏した男に、何かが投げつけられた。高橋の体に当たって転がり落ちたそれは白い修行靴だった。
「けだものっ!」
女性信者だった。靴を脱いだ足は裸足で冷たい床に立っている。怒りの滲んだ瞳からは幾条もの涙が伝っていた。性奴隷となっていたうちのひとりだろう。靴は次々と高橋に投げつけられた。両足が裸足になっている女性信者も居る。高橋を囲む輪は尚もじりじりと狭められて行った。
「待って下さい」
輪の外側から雄一郎が声を上げた。
「私刑はいけませんっ!」
顔を上げ、縋る様に声の主を探る高橋に、雄一郎は中ノ原市で見殺しにした六人の姿をダブらせていた。信者達は身じろぎもせず雄一郎の次の言葉を待った。だが雄一郎自身、どうすればよいのか結論を出しかねていた。実行犯でないにせよ、ヒマヤーナと呼ばれた暗殺部隊に非人道的な指示を出していたのが黒田と高橋であることは間違いない。だが山田の言った言葉が耳に残っていた『あのヒゲオヤジが人を傷つけることを許すと思うか?』 やがてまたヤスミが言った。
「そいつの処分は俺に任せてくれねえか」
「殺人は容認しかねます」
雄一郎は視線を高橋に据えたまま、半ば自分に言い聞かせる様に言った。
「おいおい、俺がヤクザだからって何でもかんでもそうやって片をつけると思ってもらっちゃあ困るぜ。こいつにチャンスをやろうってんだ。犬と橇を貸してくれ」
何をしようというのだ? 雄一郎が怪訝な表情をヤスミに向ける。
「何でも、ここでは悟りを開くとこの極寒にも耐えられるようになるらしい。そうだったよな?」
「ええ……しかし」
急に水を向けられたデクは問い掛けの意図を掴めない。黒田らの教えが嘘っぱちであったことはとうに露見していたのだ。
「いいから終いまで聞けや。こちらの正悟師様にそれを証明してもらおうってんだ。そうさな……10kmだ。ここから丁度10kmの地点にこいつを放置してくる。勿論、服は着せたままだ。無事戻ってこられたら仲間として迎え入れてやるってのはどうだい?」
「絶対、嫌っ!」
女性信者が金切り声を上げる。続いて若い男性信者も不平を唱えた。
「そうだよ、例え戻ってきたって今までこいつがみんなにしてきたことを考えたら仲間になんか……」
反対意見を挙げた二人にヤスミが歩み寄って耳打ちをする。頷いた二人はそれぞれ隣の信者へと情報を伝えて行った。雄一郎の耳にはヤスミの声が届いていた。その内容が雄一郎の意思に反することも。だが、この場を納めるにはそれしか方法がないこともわかっていた。この世界で生き抜いて行くため、時には理想に背を向けねばならない場合があるのだ。
「榊君、ヤスミさんは怪我をしている。一緒にいってやってくれないか?」
ヤスミらしからぬ提案に訝しげな表情をする榊であった。今度は雄一郎が榊に耳打ちをする。一瞬、驚いた様に雄一郎を見返した榊だったが「何も言うな」とばかりに首を振る雄一郎に「はい」と短く同意を示した。
「決まりだな。それじゃあ、ちゃっちゃと片付けてくるか」
すれ違いざま、ヤスミは囁くような声で雄一郎に告げた。
「言ったろう? お前等に汚れ仕事は無理だって。こんな時に俺を使わないでどうするよ」