決断
「食料を運び込みます」
足立にそう言って、雄一郎は榊と井上を外に連れ出した。
「どう思う?」
訊かれた榊が首を傾げて言った。
「ドーム建造ですか? 男性四人のうち三人が負傷していて足立さんは高齢、他は全部女性では難しいのではないでしょうか、なあ」
振られた井上も肯首で同意をしめす。雄一郎も同じ意見だった。ならばどうする? 結論はすぐに出た。衛星電話を取り出し誠に連絡をとる。
「ドームから直線で160kmほどの距離だ。生存者は今のところ九名。回収は可能か?」
「50km圏までたどり着けば短波無線機が通じるんだろうけど、コンパスも使えない状況では難しいかも知れない。誰かひとり戻す訳にはいかないか?」
雄一郎は考えた。生存者の捜索は丈のチームとの競争ではない。今、命を長らえている人がいるなら、その人達の未来を優先させる。それも意義のあることだと考えた。
「榊君を橇で帰そう。ホログラムマップに現在地点を記して持たせる。怪我人が三名居る。クローラは完成したのか?」
丈が持って帰った横転した軽トラックに、誠はコンバインのクローラを組み合わせて製作中だった。伊都淵のEVクローラを真似て作られたその全天候型ビークルは、雄一郎が中ノ原を発つ時、ほぼ完成しているように見えていた。
「ああ、ただ九人を一度に運ぶとなると橇をけん引した方がいいだろうな。運転席はひしゃげてひとりしか乗れないから荷台に怪我人を乗せ、他は橇だ。燃費に多少不安はあるけど、なんとかなるだろう」
話は決まった。三人は橇一杯に詰め込まれた食料と防災グッズを屋内に運び込む。缶詰やエネルギーバーの名前が書かれたダンボールが積み上げられてゆくと、人々は目を輝かせて集まってきた。
「いいんですか? あなた達の分がなくなってしまうのではありませんか?」
ブルカもどきのせいで年格好は判然としないが、声の様子から若いことだけはわかる。心配げに訊ねる女性に雄一郎は言った。
「これは、ここに来るまでにあちこちのシェルターから集めてきたものです。若く怪我もしていない我々です。どこででも補充は利きます。悲しいことにこれらの備蓄は消費する側の数より多く残っているようです。防災グッズの中には手回し充電式のライトや使い捨てカイロも入っています、確か温かいご飯も食べられるように――」
雄一郎はバッグを逆さまに引っくり返す。
「これこれ、加熱剤を水に入れて……読めばわかりますよね。暗い所で冷たい食事ばかりしてては気も塞ぐばかりですから。遠慮せずにどうぞ」
「……ありがとうございます」
礼を言う女性の肩と声が震えていた。
「あたし、藤井亜希子といいます。鈴木さんの試合は社長に連れていってもらって見たことあります。海外での試合もテレビで観ました。凄かったです、あの左フックのダブル」
「それは……どうも」
国民のテレビ離れが進み、スポンサーとなるべき企業が軒並み赤字決算となる中、テレビ番組は安く買うことの出来る韓国ドラマばかりとなっていた。雄一郎のタイトルマッチはペイパービューでしか見られなかったはずだ。愛想のない返事となってしまったのは、それを若い女性が観ていたことに対する驚きのせいでもある。
最後に運び込んだのは下着と生理用品が詰められた箱だった。丈が見つけ出してきたものの中で、中ノ原の女性達が一番喜んだもののひとつだった。中身をどう説明してよいか悩んだ挙句、雄一郎は無言で手渡す。中を覗いた亜希子は嬉しそうに微笑んで同僚らしき女性達の許に運んで行った。
次に雄一郎はバッグから出した温熱シートを横たわっている男の全身に使い捨てカイロを貼り付けを、その上を温熱シートで巻きつけるようにして覆った。天性の調達屋だった丈が見つけられなかったもの――気付け薬に使えるウイスキーやブランデー――は雄一郎がホテル跡から探し出していた。但し、ミニバーの小瓶ではあったが。それを男の口に流し込む。瞼を開いて眺める虹彩にトコログリアの反応は見られなかった。そして榊に言った。
「トコログリアの入った箱を持ってきてくれないか」
「鈴木さんがやるんですか? ここで?」
「低体温症の症状が出ている。このままではこの人は助からない。麻酔があるわけじゃない、やるなら気を失っている今しかない。君もあの痛みを覚えているだろう? 梓先生から厳しいレクチャーを受けたから大丈夫だ。頭が動かない様に押さえていて欲しい。井上君、君は犬達に食事をさせて休ませてやってくれ。処置は十五分後だ」
指示を受けた二人は再び外に出た。
食事を始めた人々に背を向けて処置にかかる。井上が手にするライトの灯りを頼りに極細のカテーテルを鼻から挿入して行く。井上が顔を背けたようで灯りがずれた。「ちゃんと照らせ!」「はいっ」短い遣り取りの後、印が書かれた範囲で挿管を止めてサージカルテープで固定する。薬瓶に差し込んだ注射器をチューブに繋ぐと固唾を呑んで見守る榊と井上の前で雄一郎は一気にプランジャーロッドを押し込んだ。
「ぐっ」男が呻いた。顔は苦痛に歪んでいる。素早く、しかし慎重にカテーテルを抜く。どこかの粘膜を傷つけたようで微量の血液がついていた。苦悶の表情は消えない。失敗か? 息の詰まる時間が流れる。
苦悶に歪んだ男の顔が緩み血の気を取り戻してゆく。雄一郎は男の胸に耳を当てた。
「心音は正常だ。呼吸も安定している、成功だ」
いつの間にか雄一郎の後ろに立っていた亜希子が小さく手を叩いた。顔を覆った布は外されていた。振り向いて見る亜希子の笑顔は眩しかった。全てが変わってしまったこの世の中で唯一変わらないものがあるなら、それはその笑顔ではないかと思えるほど雄一郎の魂に安らぎを与えた。傍らに転がる薬瓶には〝トコログリア/非常用〟と書かれていた。
「行ってきます」
「ああ、進路はホログラムマップの軌跡をたどるんだぞ。クレバスや氷河の危険がある。近道をしようとしないで確実に、だが出来るだけ早く戻ってきてくれ」
「わかりました。ハーッ!」
井上の号令で犬達は走り出す。姿が見えなくなるまで見送って雄一郎は屋内に戻った。榊が移動についての説明をしているところだった。
「ええ、電気も食料も充分にあり、お医者さんも居られます。9.02以前とまでは行きませんがプライバシーも確保出来ます」
「我々は、何もお帰しできるものを持ってはいないんだが」
怪我をしていたうちのひとり、初老の男性が口を開く。
「話すのが遅れましたがこれは東北のカリスマの指示です。この国を再興させるのはお金でもなければ物資でもありません。ひとりひとりの困難を乗り越えようとする努力なんです。ここまで生き延びた皆さんなら、きっとその力になっていただけると信じています。今からでも遅くはありません。医療でも建築でもなんでもいい、自分が出来そうなことを見つけて学んで下さい。あなた方が再建の礎になるんです」
人々の眼は扉の脇に立って弁舌を奮う雄一郎に向けられた。戸惑いがちだったそれぞれの顔に雄一郎が待ち望んだものがあらわれていた。
「一介のサラリーマンだった僕に何が出来るかはわかりませんが、あの時死んでいても不思議はなかったんだ。やりましょう、死んだ気になれば僕にだってきっと何か人の役に立つことが――」
右腕を三角巾で釣った若い男性が立ち上がる。続いて中年の女性が立ち上がって言った。
「途中でやめちゃったけど私は看護師の学校に通っていたことがあります。教えてもらえるなら――いいえ、学びます。傍で見て肌で感じて覚えます」
「うちは美容師やってん。髪を切るぐらいしかできひんけど、それでも人の役に立つって言えるんかな?」
「勿論です」
思ったより生存者が少なくても、予定数のドームが建てられなくても人々が希望を失わない限り未来は続いて行く。伊都淵の言葉が実感として雄一郎の内に響いてきた。