遭遇
意外、そう言うのは原田兄弟に失礼だろう。彼等のはしゃぐ声で目覚めた僕は、湖にかかった橋の残骸をサーフボードで滑降する二人を見て嬉しくて堪らなかった。この旅が単独行になる寂しさを覚悟していた。兄弟が起きて動き出した気配を意識の片隅で感じた時、彼等はドームに帰るつもりなのだとばかり思っていた。
「そこでバルカンを決めるぞ、見てろ」
海地は、傾斜を下ってきたかと思うとジャンプしながら180℃ターンをしてリグを返す。ウィンドサーフィンをやったことのない僕が見ても、かなりの離れ業のように思えた。
「すっげー、完璧じゃん」
風真の喝采に気を良くしたのか海地は再びボードを抱えて傾斜を登って行く。マストは取り外されていた。僕は動きを止めていた脳味噌に火をいれた。
「次はフォワードループだ」
それがどんな技なのかは知らないが、語感から前方宙返りではないかと思っていた。先ほどより高い位置から滑り降りてくる海地のボードからガリッという嫌な音が聞こえた。前輪の片方が脱落したようで、ボードが妙な角度に傾いたままの滑降となっている。飛び降りようにもフットストラップに彼の履いていたワークブーツがガッチリ嵌り込んで、それを許さない。僕は跳ね起きた。
股関節のキャパシティがどれほどのものか試したことはないが、恐らく僕はチーターより早く走れるようになっていたのだろう。同時に視力を解放しなければ海地の姿を見失うほどの速度だった。宙に投げ出された海地が描く放物線を予測し落下地点に入る。一緒に舞い上がったボードは空中でようやく海地を拘束から解き放っていた。
重力加速度はあったが、元々痩せっぽちの海地の体を支えることなど今の僕には雑作もないことだ。衝撃を緩めるため、彼の体を宙で受け止めて地表に降り立つ。何が起こったのかわからない様子の海地を立たせると風真が走り寄って言った。
「タケ坊……どこに居たんだ? 全然、見えなかったよ」
僕はホバーを指差す。
「寝てた。凄いな、さっきの技」
「調子に乗り過ぎちゃったな……タケ坊が居なきゃ大怪我するところだったよ、ありがとう」
素直に感謝を述べる海地だった。特に口うるさく注意しなくても、二度とこんな真似はすまい。その時、思いもよらない方向から拍手が起こった。
「凄いな、ウィンドサーフィンは見慣れているけど、さっきのは殆どサーカスだった」
ホバーを停めていた場所から15m程北、橋の反対側にあった氷解の陰から、ひい、ふう、みい、よう――五人の人影が姿を現した。全員がエヴァンゲリオンみたいなかっこいいヘルメットを被っている。いつからそこに居たのだろう。原田兄弟のアクロバットに紛れて忍び寄っていたのだろうか。警戒を怠っていたことが悔やまれる。拍手をした男は臆する様子もなく近づいてきた。
「こんな世界になっても趣味に興じることが出来る、若いってことは素晴らしいもんだ。真柴です。宜しく」
ヘルメットを脱いだ男性が手を差し伸べてくる。伊都淵さんと同じくらいの年格好の堀の深い顔立ちの男性だった。脳波に悪意はない。今度こそ正真正銘の――言葉も感情も失っていない人間らしい――生存者に巡りあうことが出来たようだ。僕は嬉しくなった。
「小野木といいます。こっちの二人は原田海地と風真、兄弟です。当たり前のことを聞くようですが、あなた方は生存者ですよね」
僕は真柴さんの手を握り返して言った。力強い握手には親愛の情が込められている。彼は僕達の目を覗き込んで言った。
「ああ、君達もそうみたいだね、トコログリアの接種は……済んでいるようだな。どこから来たんだい? 住む所はあるのかい?」
あれだけ探して見つからなかった生存者がいきなり現れて驚いてしまったことを差し引いても、真柴さんの言動は本来なら僕が先に口にせねばいけないものだ。彼の冷静な立ち振る舞いは僕が一日も早く身に付けねばならないものだった。
「隣の県から来ました。真柴さん達はどちらに?」
「鵜飼県か――以前は僕も井ノ口市に住んでいた。というか、出張でこっちに来ている時に例の災害にあってね。我々はここから20km程西に行った所に住んでいる。今この国が置かれている状況、背中の黒い人間達について情報があるなら教えてくれないか。電話もインターネットも通じなくなっていてね」
僕は手短に、且つ要点を確実に伝える。氷の世界を漂流しているうちに気が狂れてしまった若者の戯言にでも思えたのだろう。日本が南極の座標に引っ越したというくだりでは彼等のうちの幾人かから失笑が上がった。しかし僕達が東北のカリスマの指示で動いていること、ホモローチに関する情報を語る段になると、彼等全員がヘルメットを脱いで聞き入ってくれていた。
「奇想天外過ぎて戸惑っているが、どうやら信じるしかなさそうだな」
真柴さんが顔を振ると、残りの四人も頷いた。斎藤と自己紹介をされた小太りの男性が口を開く。こちらはもう少し年齢がいっているようだ。雄さんが持っていたのと同じメーカーのホログラムマップを手にしている。
「その氷のドームを作るのに必要なバイオハザードってのは手に入るのかい?」
「バイオ流体緩衝材です。胚と培養槽の設計図を持っています」
「人が地下で生活しているようでは日本の再建は有り得ない、か。確かにその通りだな。我々のコミュニティに案内しよう。是非、力を貸して欲しい」
「はいっ!」
僕は真柴さんの申し出に力強く頷いた。
彼等の移動手段は徒歩であった。そして海地のボードも修理が必要となっていたため、たった20kmの移動に四時間を費やすことになる。悪天候でなかったのが幸いだった。
僕は笑った。何故かって? フルフェイス型のヘルメットはチークパッドが文字通り頬を圧迫する。エヴァンゲリオンの全員が口笛を吹いているような――言うなれば数字の3のような――口になっていたからだ。それはイケメンの真柴さんでさえ同じだった。
自分は機械屋だと真柴さんは言った。建機リースの会社に営業に来ていた時、あの衝撃波に見舞われたそうだ。横転したショベルローダーのバケットに閉じ込められて意識を失い、手にしていた商品サンプルで氷を砕き、丸24時間かけて脱出したという。凄まじいまでの生への執着だ。氷の街を放浪中に出逢った数人とカラオケ屋の地下に避難して倉庫の冷凍食品を食べることで餓えをしのぎ、ホモローチが死に絶えたことを確認してから倒壊の少ない建造物を探して移動し続けていたと話してくれた。僕達が警察所や庁舎を探してきたことを告げると「その手があったか」と悔しがられ「しかしこう見渡す限り氷漬けでは、それを見つけるのも難しかっただろうな」と付け加えられた。
「そして今は、ここに住んでいる」
戦争映画で見たトーチカの小型のような物を指差して真柴さんは言った。
「建物が吹き飛ばされる前はエレベーターで出入りしていたんだろうな。斎藤さんが氷を踏み抜いてくれたお陰で見つけられたんだ」
覗き込む空間はエレベーターのカゴひとつ分の容量だ。先に飛び降りた海地がひゅーっと口笛を鳴らす。
「これは……」
杜都市の地下要塞然としたものほどではないが、分厚い扉を開けた先に続く長い回廊は圧巻だった。
「どっかの金持ちが道楽で作ったか、或いは強迫観念にとりつかれたヤクザの親分が隠れ家にしようとしたのか、いずれにせよ見ず知らずの我々が住むことになるとは思ってもみなかったろうな」
真柴さんはにやりと笑って僕を奥へと誘う。ドアの上にはそれぞれ〝機関室〟〝倉庫〟などと書かれていた。何やら巨大な蟻の巣に迷い込んだような気分だった。
「この六名を含む二十三人がここで暮らしている」
「電源はどうしているんですか?」
「LPG発電機だよ、さっき通った機関室にある。ただそれも長くは保たない。だから、ああやって外に出ては物資の補給に励んでいるんだ」
気づけば汗が滲みそうな温度だった。僕は体温を2℃下げた。
「トコログリア未接種の方はいらっしゃいますか? 薬品とカテーテルがホバーにあります」
「お年寄りが二人未接種だが、無理だろう。あの激痛に耐えられるだけの体力はない。他にも二名、接種を望まない者がいるが強制は出来ない。それがこうして暖房を入れざるを得ない理由だ」
そうだった、所教授が処置を見合わせた大半はお年寄りだったそうだ。鼻腔奥の骨膜をカテーテルの先で突き破って、という処置にはかなりの激痛が伴う。麻酔のない現状で体力の衰えたお年寄りへの処置は無謀に思えた。
「会議室に住民を集める。さっきの話をもう一度聞かせてやってくれないか?」
「わかりました。ホバーの荷物を運び入れましょう。食料と防災グッズが相当数あります」
「君達の分は残さなくていいのかい?」
「中ノ原市を出た時点で僕達は手ぶらだったんです。ホバーの荷物はあちこちのシェルターに手つかずで残されていた物を失敬してきたものです。足りなくなればまたどこかの氷を掘り返します」
「掘り返す? 君達は削岩機でも持っているのかい?」
「いえ、これです」
僕はリュックに差し込まれた蛮刀をしめす。伊都淵さんの指示で動いている僕が普通でないことは理解してもらえていたようだ。
「そうか、じゃあご好意に甘えさせてもらうとしよう」
真柴さんがドアを開けた部屋には十数名の人々が居て、壁にもたれたり机に腰かけたりと思い思いの滑降で原田兄弟の武勇伝に耳を傾けていた。
「ホバーの荷物を運びこんでくれ。食料や非常持ち出し袋をがあるそうだ」
真柴さんの指示で全員が席を立ち、機敏な動作で僕の脇を走り抜けて行く。武勇伝の披露を打ち切られた原田兄弟は幾らか不満そうな顔をしていたが、すぐに彼等の後に続いた。
「これを見てください」
スタンバイ状態のパソコンにUSBメモリを差し込んで開く。フォルダにはドームの設計図、バイオ流体緩衝材の培養法などが入っている。
「どんな頭をしているんだ、東北のカリスマは…これは?」
真柴さんが或るファイルに目をとめる。
「軽トラックをEVクローラに改造するための手順ですね」
「燃料さえあればな――」