出発前夜
所教授と梓先生、原田さんの奥さんにスーザンも加わって必死に手は尽くしてくれたのだが、五十代のご夫婦と六十代の男性の3名が命を落とされることとなった。トコログリアなしで鍾乳洞に避難し、ホモローチの襲撃にも耐えて命を長らえた方々の逝去はドーム全体に落胆を運んできた。
結局、僕が探し出すことが出来た生存者は8名、そして隣県まで足を伸ばして捜索に当たった雄さん達のパーティーが連れ帰った家族が3名。後顧の憂いがなくなった訳ではないが、旅立ちの時は迫っていた。
智君は遠征のメンバーから外した。ルールに守られた中での闘いならそれなりに力も発揮出来たのだろう。だが、この世紀末のような世界では多少のルール破りに目を瞑ってでも臨機応変に対応を変える柔軟性が求められる。彼自身、それを身体でもって理解していたようだ。ドームに残って守りを固めてくれと言った僕の提案を素直に受け入れてくれた。 代わって僕のパーティーに加わったのは海地・風真の原田兄弟だ。十八歳と十六歳の彼等は早くから外の世界に慣れていたし、狩りをするほどの順応性も見せていた。風向き次第ではあるが、彼等にはサーフボードといった移動手段もある。僕のローラーブレードについてこられることも彼等を選んだ理由のひとつだった。
「これを持って行ってくれないか」
夕食後、誠さんから渡されたのは大きな蛮刀みたいなものだった。
「タケ坊が持ってきてくれた車のリーフスプリングを削って作ったんだ。ホモローチ以外にも敵は居るかも知れない。飛び道具のある雄はともかく、お前は何も持っていないからな。俺を安心させるためと思って持って行ってくれ」
鈍く輝く分厚い刀身は氷柱でも切り裂けそうだった。手渡されたそれはズシリと重みを感じる。3kgはあるだろう。滑り止めを施された柄まで着けられている。短いスプリングから作った軽い――それでも1.5kgはある――ほうを原田兄弟にひと振りずつ渡すと、彼等は狭いドーム内でさかんに素振りを繰り返していた。危なっかしくてしょうがない。
「これが鞘だ。刃は鋭いから自分の体を切らないように注意してくれ」
手縫いで作られたような革製のそれをリュックのストラップに取り付け、背中に交差させる形で差し込んでみる。映画バイオハザードのアリスになったような気分だった。
「かっこいいじゃん、タケ坊」
風真が調子に乗って言った。
「小野木さんって呼ばないとお前を刀の露に変えてやる」
「へっ、何それ?」
あれ、違ったっけ? テレビの時代劇でそんなことを言っていたような記憶があるのだが――この年頃の少年は時代劇など観ないのだろうか。面倒になったので僕は説明を放り出す。
「いいや、もう。好きに呼べ」
かくして、僕は高校生にタケ坊と呼ばれることとなる。
「こんなの振り回すには相当な体力が必要になるな。筋トレでもするか」
「毎日、ホバーを引かせてやるよ。筋力もつくだろうさ」
「冗談! 俺は馬車馬じゃないっつーの」
努めて明るく振舞う海地の言葉には、明日からの長旅を大したことではないと自分に言い聞かせているような響きがあった。長くて一年半――真由美さんにもそう伝えてはいたが、この二日間の生存者探しの惨憺たる結果が未来に暗い翳を落としていた。果たして僕達はどれだけの人を発見し、幾つのドーム建造に関われるのだろうか。それは雄さん達のパーティーも同様だったようで、意識して明るい口調で話していた榊さんと井上さんが印象的だった。
「ありがとうございます。出来ればこれを使うことなく帰ってきたいと思います」
僕は誠さんに礼を述べ、荷物の積み忘れがないかを確かめるためにドームを出た。
アニメでクローンが入っているようなガラスチューブが必要な訳ではない。バイオ流体緩衝材の初代は鮮魚加工所から借りた桶で培養されていたそうだ。トラックの荷台にブルーシートを敷いてでも間に合う。氷を切断するための道具も埋もれた廃墟を探せば見つかるはずだ。しかし必ず発見出来る保証がないのが生存者で、その人達の気概にも不安はあった。知己の多かったここは僕や雄さんのする事を信じてくれる人達ばかりだったが、シェルターを襲ったような連中が居ないとも言えない。例え善良な生存者が見つかったところで、世間から見れば僕は若造で、パーティーを組む原田兄弟は平時なら高校生なのだ。僕達の話に耳を傾けてくれるだろうかといった懸念もある。険しい岸壁を前にアプローチを躊躇する登山初心者の気分だった。
「下手の考え休むに似たり」
突然の声に僕が振り向くと、そこには梓先生が立っていた。
「旅の成功を案じているんでしょう? そんなもの始まってみなければわからないじゃない。ひとりの生存者も見つけられずに戻ってこなきゃならないことだってあるかも知れないけど、それはそれで仕方ないことよ。出掛ける前からうじうじ悩まないの」
「僕の考えていることがわかるんですか? ひょっとして梓先生も――」
「だったら患者の治療に役立てることが出来て助かるんだけど、残念ながらわたしに人の考えは読めないわ。あなたのわかりやすい表情から想像しただけ。こう考えてごらんなさい。あなたに出来なのならそれは誰にも出来ない事なの。だからあなたの失敗を責める人なんて誰も居やしない。あなたが必要だと思えば他人の意志もねじ曲げてでも目的を遂行なさい。それで事を成せるなら、最後には誰もがあなたに感謝するはずよ」
教師だった僕だが、こうして理路整然と――それこそ一分の隙もなく解いて訊かせてくれる梓先生を見て、僕なんかより余程人に教えるのが上手いと感心し、同時に納得させられてもいた。行き詰まったらそれから考えればいい、一度にあれもこれもと考えてみたところでその通りに物事が進むはずなんかないのだから。僕はこんなに多くの人に支えられているんだ。彼等の期待に応えようとするのではなく、彼等の代弁者として働こう。民の代表者たる政治家の在るべき姿が見えたように思えた。彼等が本来の使命を忘れず、さもしい欲望や権力に執着することがなければ、この国もこうはなってなかったのかもしれない。
「シェルターに行きなさい。待ってる人が居るわ」
「もう大丈夫です。教授にもそうお伝え下さい」
「いいから、行きなさい。餞別を用意してあるんだから」
有無を言わせぬ口調で梓先生は言った。餞別? 所教授の訓話を聞かされるのではないのか、と僕は思っていた。ところが暖房の利いた地下に降りて行く僕を出迎えてくれたのは真由美さんだった。いやはや、こんな嬉しい餞別はない。僕達は言葉を交わす時間を惜しむように唇を重ね合い、服を脱ぐ間も待たず愛し合った。
「もうだめ……子宮がだるくなっちゃった」
真由美さんの言葉に、僕の腰も限界に近づいていたことに気づく。それでも僕達は体を離さなかった。二人の間に髪の毛ひと筋の隙間があるのも我慢ならないかのように体を密着させていた。やがて真由美さんは上体を起こすと、僕の手を自分のお腹に押し当てて言った。
「必ず帰ってきてね、この子のためにも」
「え? そんなに早くわかるもんなんですか?」
彼女はにっこり笑って首を振る。
「あたしにはわかるの。ここにはあなたの分身がいる。そしてあたしを守ってくれるって」
この国がこうなってしまう以前、僕の携帯電話に『今日は危険日です』とメールを送ってくるサイトがあった。誰が僕のアドレスを教えたのかは知らないが、それが届くたび、ハイハイといって削除していたものだ。僕は危険日という呼称が好きになれなかった。
「戻ってきます、必ず」
妻にも感じたことのない気持ちを真由美さんに抱いていた。
「どこかであたしよりきれいな人を見つけても帰ってくるって約束出来る?」
「出来ます」
父さんは真由美さんのお母さんに、僕はその娘に恋をしたのだから、これこそ〝遺伝子が求め合う恋愛〟に違いない。僕はきっぱり言い切ることが出来た。