檻の中の惨劇
エウロパの旅人――日本再生篇の連載を開始します。前作にはたくさんのアクセスをいただき、大変ありがとうございました。本作もお読みいただけますれば幸いです。
「気をつけてな」「誠に宜しく」≪イッテラッシャイ≫と、口々にプラス意識にかけられた言葉に送られて僕は杜都市を後にした。全長6.3mのホバークラフトに積み込まれた荷物は液化ガスのタンクであったり農園に届ける食料であったりで、それらは7人乗りの客室を取り去った2/3を占めていた。
伊都淵さんと依子さんが作ったというホバーは、僅かな斜面や路面の凹凸さえもが障害となるエアクッションタイプとは異なり、地軸のずれにより安定した磁気を浮力と推進力に利用している。これなら非力な女性でも軽々と引けることだろう。しかし……
往路で救出を約束した石田さん一家をピックアップする予定のプランは、犬達に引かせた橇を僕が颯爽と先導するという構想であり、僕が犬の代わりをするのは計算に入ってない。井ノ口市を発った時同様、気の利いた台詞で杜都市の人々に別れを告げることが出来なかったのは、それが理由でもあった。
――忘れていた。氷の檻に閉じ込めたアイスギャングどもが居たではないか。奴等が改心していれば助け出してホバーを引かせればいい。妙案が浮かんで上機嫌となった僕は、鼻歌混じりにホバー先端に備えられた発電表示計を振り返る。船体全面に張り巡らされたソーラーモジュールの総発電量は0.4kw、磁性発生器を作動させるのがやっとといったところだった。明るくなったとは言え、日射のないこの状況ではやむを得ないのだろう。
僕の脳味噌はイトペディア(伊都淵さんに詰め込まれた脳内ウィキペディア)で一杯になっていた。彼の言葉が蘇る。
――諸外国にも生存者は居るだろう。先進国ならトコロログリアに似たものを開発していたかも知れないし、立派なシェルターを持っていたはずだ。それでもあの衝撃波だ、生存者は多くて全人口の3パーセントといったところだろう。氷河期のようなこの気象条件が、その数字を減少させている可能性もある。当面、他国からの援助は期待出来ない。君が一人でも多くの人を救うんだ。そして彼等が暮らしてゆける環境を作れ――
半月前までしがない小学校教諭だった僕が随分と大役を仰せつかってしまったものだ。だが、僕がやらねば誰がやる。そんな気になっていたのも確かだ。一歩やマリアに速度を合わせる必要のなくなった今、時速60km/hでの巡航が可能だった。予定通りなら往路の半分、三日もあれば農園に着く。母さん、そしてみんな、待っててくれ。僕は氷を蹴る足に力を込めた。
しかし、一人旅は寂しいものである。話し相手はおろか意識を遣り取りする相手もなしで4時間も氷を蹴り続けていると、人恋しさに気が狂いそうになる。そんなんじゃ長距離トラックのドライバーは勤まらないって? 対向車もなければサービスエリアにもひとっこひとり居ない状況を想像してみるといい。4時間が10時間にも20時間にも感じられることを知るだろう。新潟中央ジャンクションのバンクも速度を落とすことなく駆け抜ける僕の胸には愛おしい石田真由美嬢の面影が……って、つい半月前に妻子を亡くした男の言う台詞ではないな。電子望遠鏡並みの視力を開放しても、氷の山々が邪魔をして彼女達を残してきた氷のホテルどころかアイスギャングを閉じ込めた氷の檻にさえ視程は届かない。今日はここまでにしておこう。僕は氷でツルツルになった高速道路脇にホバーを寄せて電源を落とした。ソーラーモジュールをスライドさせた荷物に占拠されていない部分には低反発素材のマットが敷かれている。簡易ベッドは快適でソーラーの屋根を閉めれば風雪もしのげる。しかし寂しさは埋まることはなかった。
――脳細胞のひとつひとつを自分の分身として認識せよ――
つまり、生存本能を司る部分だけ起こしておいて体温調整と危険回避に努め、他の部分は休めろということだ。伊都淵さんから植え付けられた知識は就寝時に関する注意事項までこと細やかなものだった。
たった三時間程の睡眠で身も心もリフレッシュされた僕は、すこぶる快適に目覚めた。
――起きている時は不寝番を休ませてやること――
その言いつけを守るべく、生存本能組に休暇を与えてやる。彼は自分の脳細胞を何て呼んでいたっけ……そうそうオイラーズだ。自分の脳細胞と語り合うなんざ分裂症患者に近いのではないか? と、ボクラーズに問い掛ける僕が居た。何をかいわんやである。ともあれ今日中に石田さん一家を残した氷のホテルにはたどり着いておきたい。僕は出発の準備を始めた。
人間――今の僕がそう呼べるなら――文明などなくても生きて行けるものだ。脳味噌の使い方に精通するだけでいいのだから。遠くだって見えるしバイオナビ機能が目的地まで方向を間違えることなく案内してくれる。犬や熊とだって意思疎通を図れるし、人工筋肉なしでも相当な力を発揮することだって出来るそうだ(これまた伊都淵さんの知識だった)。ただ孤独は辛い。人が生きて行く上で一番大切なものは語り合い笑い合える仲間がいることなのだ、と僕は身に染みて感じていた。
とにかく退屈なのである。江戸時代の飛脚はよくもこんな孤独行に耐えていたものだ。石田一家の救出ありアイスギャングとの遭遇あり、そして高飛車な犬と母性本能の塊のような熊、彼等との会話があった往路とは打って変わって見事に何の変化もない復路だった。時間短縮のため速度を上げることも考えたが、ローラーブレードのベアリングが過熱して保たないだろう。高速道路の追い越し車線を、マイペースな婆さんの乗った車の後ろについて走るようなストレスを感じており、今やアイスギャングとの再会すら待ち遠しくて仕方のない僕であった。氷の檻までの距離は約80km、後一時間とちょいで到着する。
4kmほど先の氷の檻が見えてきた頃、僕を強烈な臭気が襲った。何だこれは? アイスギャングどもが食い散らかした缶詰の始末をしていなかったにせよ、そう簡単に腐敗が進むはずはない。なにせ気温は氷点下なのだから。臭気には鉄臭さも混じっていた。堪え性のない若者達が食料を争って殴り合いでもしたのだろうか? と、ほんの一週間程前まで彼等同様堪え性のなかった僕の緩い思惑とは裏腹に、頭に鳴り響くアラームは第一級の警戒警報を発令していた。
ひどい……血溜まりの中に五人のアイスギャングが横たわっていた。凶器となりそうなものは空き缶のプルタブぐらいしかなかったはずなのだが、仰向けに横たわったのも俯せになったのも、その体からは内臓がすっぽりとなくなっていた。誰がこんな……想像もつかないほどの惨劇が氷の檻の中で繰り広げられたようだった。
その時――空気が動いた。