第1話:異世界召喚
48歳の男、鈴木大介は、土砂降りのガード下で立ち尽くしていた。
手に持っているのは、液晶が蜘蛛の巣状に割れた型落ちのスマートフォン。そこには、残酷な通知が届いていた。
【通知】未納分の社会保険料および住民税の差し押さえ執行について
「……今月、あと三千円しか残ってないのに」
二十数年前、中堅大学を卒業しながらも、空前の新卒切りの嵐の中で社会に放り出されてから、一度も「日向」を歩いたことがない。
非正規、契約、派遣。
国が作った「柔軟な働き方」という名の搾取システムに、人生の最も輝かしい時期をすべて捧げてきた。
安定した生活、結婚、持ち家。そんなものは、テレビの向こう側の異世界の出来事だと思っていた。
這うようにして向かった派遣先の物流倉庫。
そこで待っていたのは、二十代の正社員リーダーによる「公開処刑」だった。
「鈴木さん、これ何? 昨日の棚卸しのミス。君のせいでチーム全体の査定に響くんだよ。分かってんの?」
実際は、そのリーダーが昨日、スマホをいじりながら入力ミスをしたものだ。鈴木は隣で、彼が適当に数字を打ち込むのを、苦い唾を飲み込みながら見ていた。
鈴木が周囲に縋るような視線を向けると、背後にいた他の派遣仲間たちは、まるで示し合わせたかのように一斉に視線を床へと落とした。
(助けてくれ、君たちも見ていただろう……?)
心の叫びは、虚しく静寂に吸い込まれる。
ここでリーダーのミスを指摘すれば、明日には「現場の和を乱した」という名目で、鈴木のメールボックスには契約終了の通知が届くだろう。
「……申し訳、ありません。私の不徳の致すところです」
「謝って済むなら警察はいらないんだよ。あーあ、これだから老害は困る。若者の足を引っ張ることしかできないのかよ」
リーダーは、手にした缶コーヒーをわざと鈴木の足元にこぼした。
跳ね返った茶色の液体が、ボロボロの作業靴を汚す。
鈴木はそれを拭うこともせず、ただ、冷たい床に額を擦り付けた。
仕事帰り。空腹に耐えかねて立ち寄ったコンビニで、彼は一番安いおにぎりを一個手に取る。
レジを待つ列の横で、テレビが「氷河期世代への追加支援策」というニュースを流していた。
画面の中、高給取りのコメンテーターが冷笑を浮かべて語る。
『結局、彼らが今の状況に甘んじているのは努力が足りなかったからです。今さら国に頼るなんて、甘えもいいところですよ。自己責任でしょう』
鈴木の背後で、大学生風の若者がヒソヒソと笑う声が聞こえた。
「うわ、あのおっさん見てみろよ。汚ねぇな。ああはなりたくねーな」
その言葉は、雨よりも冷たく鈴木の心に突き刺さった。
努力。
この二十数年、一度でも手を抜いたことがあっただろうか。
盆も正月もなく、誰かがやりたがらない汚い仕事を、文句一つ言わずに引き受けてきた。
それでも、社会は彼を「努力不足のゴミ」として処理した。
公園のベンチ。鈴木は震える手でおにぎりの袋を開けようとした。
だが、かじかんだ指先には力が入らず、おにぎりは無残にも泥水の中に落ちた。
「……あ」
それが、彼の心の糸が切れた音だった。
涙さえ出ない。ただ、虚無だけが胸に広がったその瞬間。
足元の泥水が、まるで生き物のように赤く脈動し始めた。
――え?
異変に気づく間もなかった。視界が爆発的な深紅の光に塗りつぶされる。雨の音も、車の走行音も、自分を嘲笑った若者の声も、すべてが真空に吸い込まれるように消え失せた。
「……っ!?」
激しい眩暈に襲われ、鈴木は膝をついた。
だが掌が触れたのは泥水ではなく、ひんやりとした、滑らかな大理石の床だった。
恐る恐る目を開ける。
そこは、見慣れた公園ではなかった。
高くそびえる円柱、見たこともない紋章が刻まれたステンドグラス、そして漂う、芳醇な香水の匂い。
「――お待ちしていましたわ、勇者様。」
頭上から降り注いだのは、鈴を転がすような、あまりに美しい声。
見上げれば、そこには汚れ一つない純白のドレスを纏った、目も眩むような美女が立っていた。
彼女は泥水にまみれた鈴木の手を、愛おしそうに、まるで宝物でも扱うかのように両手で握りしめた。
「私はアステリア・フォン・ブラック。この国の王女です。……貴方のお名前、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「……す、鈴木……鈴木、大介、です」
「大介……様。素敵なお名前ですわね」
アステリアは、その名前を甘く、大切そうに咀嚼した。
そして、泥で汚れた鈴木の瞳を真っ直ぐに見つめ、優しく語りかける。
「大介様あなたこそが、魔王を倒す唯一の鍵なのです。どうか、私達に力を貸してください」
鈴木は、その微笑みに、魂ごと飲み込まれた。




