二、蝶の華
二
エコビレッジ・蝶の華へは、まず見学に行くことが決まったのだった。お母さんが野本さんに電話して、野本さんも一緒についてくることになったらしい。お母さんは私を理解しようと、私とは別に診療内科に通うし、自助団体にも付き添ってくれる。その姿に心打たれたのか、野本さんの方から個人的な連絡先を教えてくれた。それは違反なのではと私は思ったが、言えなかった。
「あーあ、オマエが優柔不断だからこうなるんだよ」サラマンダーが私をなじる。そんなことを言ったって、今の私はお母さんがいないとなにも決められなくて、実質私は私ではなくお母さん。私の体は私のものであって、私のものではない。
蝶の華に行くと決まって、なぜだか野本さんが同行することになった。運転はお母さんだ。私は免許を持っているけれど、アルコール依存のうちは運転はしないと決めた。というよりは、アルコールが入った状態で運転なんかしたら、私の人生だけでなく、万一事故になれば他者の命を巻き込む。それだけはしてはならない。だから私は、自分では車を運転しない。絶対に。
蝶の華は、閑静な田んぼの中にあった。だいぶ広い棟が二棟あって、そのうち奥にある棟が受付になっている。周りには農業をしている人も居らず、そこの集落は蝶の華しかいないようだ。広い土地には野菜が実り、棟は学校の体育館が三個並んでも足りないくらいだった。
「予約した、高橋亜紀です」
お母さんが私を後ろに、受付する。私がやるべきものを、お母さんはいつも横取りする。アンタはなんにもできないんだから。私はお母さんの後ろから、中を見る。中にいたのは数人の女性だった。受付は男だ。けれど全体的に、女性の住人が多い。棟の中のホールでは、女性が五人で、三人の乳幼児をあやしていた。
「ああ、高橋さん。では、奥の間にどうぞ」
通された部屋は畳の部屋だった。十畳ほどの部屋には床の間もあって、純和風なつくりでとても落ち着く。手入れされたい草は青青していて、私の鼻に緑の香りを運んでくる。酒を合わせたかった。ほどなくして、六十代くらいの男性と、二十代の女性の二人が部屋に入ってきた。
「ここの村長の明田ともみです。みんなには村長って呼ばれてるので、亜紀ちゃんもそう呼んでね」
「私は補佐の、杉本あけみです。私はあけみんで」
なんだか変わった施設だと思った。受付したときもそうだったが、ここの住人はみんなお互いをあだ名で呼ぶ。私はあっけにとられるも、野本さんがニコニコと、
「じゃあ私は、のもとんかしら」
「いいですね。のもとん。それで、のもとん。この子が言ってた子?」
村長が私を見て笑った。ぞっとするのはなぜだろうか。六十の大の男が村長って。私は今すぐ帰りたくなって、お母さんの服の袖を村長に見えないように引っ張った。くしゃ、とお母さんの服にシワが寄った。お母さんは煩わしそうに私の手を振りほどく。まるではなから決めていたように。解かれた手の行き場がなくなり、私は泣きそうになった。
「この子、アルコール依存症なんです」
「お母さんも苦労なさいましたね」
村長が私に向けるのとは違う笑みをお母さんに向けた。お母さんが安堵したように私の身の上を話し始めた。就職に失敗したこと、お母さんが離婚したこと、私がアルコール依存症にかかったこと、自助団体に通いだして一年たつのに、毎月の様にスリップしていること。村長はそのどれもをうんうんと頷いて肯定してくれて、お母さんの目からは涙がこぼれていた。ウンディーネはそれを舐めなかった。私の涙は癒してくれるけれど、そのほかはただ、見守っている。サラマンダーが私の頭の真上に座り込む。脳みそが爆発しそうなくらいに熱かった。
「大丈夫。亜紀さんはわたしたちが卒業までちゃんと見守ります」
「卒業?」
私が聞き返すと、
「そう。滞在者の心が普通の状態に戻れた時、この家を卒業するんだ。もっとも、この家に残る人もいるんだけれどね」
わはは、と村長が笑った。ここには五十人ほどの人間が集団生活を送っている。最初は村長と村長の妻で経営していたが、私の様に病んだ人間を短期滞在させるようになってから、ここに住む人たちが増えていった。蝶の華には、傷を抱えた人間が大勢いるのだという。どんな傷だと言うのだろう。私のように、酒に溺れた人間もいるのだろうか。少しだけ興味を持ってしまうのは、私に傷があるからだろうか。私のこれは、他者から見ても痛々しく、治療が必要なもので、彼らがそれを担ってくれる?
「この前も、知的障がい者の真野さんって子が、この施設に移住したのよ」
野本さんが嬉々とした様子で言った。サラマンダーが私の肩に止まって私の頬をぺちぺちと叩いた。「逃げるなら今だぞ」
「そうよ、こんなところ、普通じゃない」ウンディーネも涙を流す。ハッと我に返った。ここは姥捨山だ。私はここに収監されて、出られる保証はどこにもない。野本さんもお母さんも、私をここに閉じ込めるつもりだ。私はおもむろに立ち上がって、畳を踏みしめて走り出す。しかし、うしろのドアにカギがかかっていて、私の足はそこで止まった。
「ほうら、亜紀さん。みんな最初はそう。アナタ、アルコールのせいでロボットみたいになってるんだよ」
村長が立ち上がって、私の傍に歩いてくる。立ち上がってもそれほど私と身長差はなく、浅黒い顔の村長が私の手を握りしめて、
「大丈夫だから。この子はうちで預かります」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
お母さんが手をハエの様にこすり合わせた。私はいよいよ恐怖する。ここは普通じゃない。五十人近くの人間が共同生活なんて、どう考えても普通じゃない。私は普通だ、自助会に通うことを除いては。私は抵抗するように手を振るも、男性である村長には力でかなうはずもなかった。村長がじゃれて私を羽交い締めにするように抱きしめた。ゾッとする。
「大丈夫、大丈夫」
村長が赤ちゃんにするみたいに私をあやした。私の胸がぞわりと毛羽立つ。黒板を爪で引っ掻いた時みたいに、鳥肌が立って私は耳を塞いだ。ウンディーネとサラマンダーが村長に噛み付く。
「じゃあ、亜紀さんの担当は、ちゃーみんにしようか」
暴れる私をよそに、お母さんと野本さんが部屋を出ていった。村長は私の体をぎゅっと抱きしめて、私に逃げ場なんてまるでなかった。ウンディーネとサラマンダーは相変わらず、村長とあけみんをぽかすか殴っていた。
「それじゃあ、部屋に案内するね」
広い十畳の畳部屋から歩いて一分ほどの、別の部屋だった。廊下は床張りでピカピカしている。靴下をはいているから滑りそうだった。こんなに広い棟なのに、どこかしこも片付いていて、まるで使われていないかのように無機質な恐怖をまとっている。
ここには大きなホールがあって、そのほかは畳の部屋が何十もある。トイレも複数あって、五十人のうち半分がこの棟に、隣の南棟には小中高校生を中心に二十人が生活しているらしい。この学生たちは、この蝶の華で生まれ育った子供たちで、私はここは、なにかの宗教なのだと感じた。村長を中心に、みんながみんな、狂っている。あけみんは私の手を握る村長をにこにこしながら見守っている。途中からあけみんも私の手を取って、私は監獄に連れていかれる囚人のようだった。
何十ある部屋のひとつに入ると、まだ幼さを残す女性の姿があった。村長が女性に頷くと、女性はすぐに状況を理解した。村長が私から手を離して、私は狭い部屋に女性と二人きりになった。
「ちゃーみんです。えっと、明田ちず。村長の娘なんだけど」
「……高橋亜紀です。お願いします、帰らせてください!」
ばっとちゃーみんの両手を握って、私は懇願していた。あの村長とあけみんは少しおかしかったが、この人は普通に違いない。村長の娘と言ったって、きっと普通の人間もいるはずだ。私は一縷の望みにかけて、精一杯ごまをすった。ちゃーみんが私の手を握り返した。あたたかかった。血潮を感じる。伝わる熱が私を幻想に引き寄せる。大丈夫、帰らせてあげる、ここは怖いよね、一人で心細いよね。ちゃーみんの口が綺麗に引き上がった。
「大丈夫。でも別に、そんなに嫌がることない場所だってわかるよ、そのうち」
村長にはまるで似ていない、三十代のちゃーみん。ちゃーみんは私の頭を撫でて、
「私、料理担当なんだけど。亜紀ちゃんはどうする?」
「どう? 帰りたいです」
「帰るのはまたあとで。それより、ここに住む人たちはみんな、自分の役割を果たさなきゃならないの。まあ、亜紀ちゃんは今日が初日だから、部屋でゆっくりしようか」
ちゃーみんが私のために押し入れから布団を出す。ちゃーみんは私に自由にしてねという割に、部屋を出るときにそれに施錠していった。私の意思なんて無視して、私はこの部屋に監禁された。出るためにはどうしたらいいのだろうか。とりあえず、暴れることだけはしないようにしようと思った。
「なんなんだ、ここ……」
「抜け出せ、逃げ出せ。ここは普通じゃないぞ」サラマンダーが私の頭の上を回って言う。
「抜け出せるわけないわ。お母さんも、迎えに来る気なんてないのよ」ウンディーネの涙が私の肩をぬらした。
「やっぱり、ここは普通じゃないよね」
喉の渇きを覚える。なにかに夢中になっているときは平気なのに、こうやってひとりになると、私の喉はどうしようもなくカラカラになる。これを潤せるのは、酒しかない。酒をよこせ、私の渇きを。缶チューハイがいい、グレープフルーツ味の。アルコール度数は十以上で、私はそれを一気に五百ミリリットル飲み干す。ぐわっと酒が体を巡って、やがて脳を浸していく。気持ちがいい。想像しただけで失禁しそうだった。
「あの!」
鍵のかかったドアを叩く。誰も聞こえないらしい。虚しく響く音は太鼓に似ていて、トン!トン!と不規則なリズムを刻んでいた。
「あれ! お隣さん入ってきたの?」
部屋は壁で区切られているけれど、壁越しにも隣の住人の声が聞こえた。私は壁際に走った。隣の人に尋ねるように壁を小さく叩く。大太鼓がドンと鳴った。
「あの! この部屋ってどうやれば出られるんですか?」
私は壁際によって、壁に耳をくっつけた。隣人が笑った。声が幼く、可愛らしい。私より年下だろうか。だけど落ち着きもあった。
「どこかに電話があるはず……内線で連絡したら、トイレくらいは行けますよ!」
「ありがとうございます!」
「……」
「……」
私の独り言を聞かれたのだろうか。ウンディーネやサラマンダーとの会話を。手が震える。アルコールが抜けたからか、私の秘密を知られたからかはわからない。
ここでは私に自由なんてない。卒業すれば出られる、と言っていた。村長のあの言葉の意味が分からない。
「あの!」
「なんです?」
もう一度壁の向こうに話しかけた。ぴこぴこ、とゲームの音が混じっている。
「卒業って、どうやったらできますか?」
「……そのうち、わかるよ。私はもう、明日卒業だから」
それ以降、隣人は静かになった。寝てしまったのかもしれないし、私が質問攻めにするから鬱陶しかったのかもしれない。ゲームの音もやんで、やがて外にはカラスの声が夕日に溶けた。
夕食の時間は五時から六時に始まるらしく、ちゃーみんが私の部屋の鍵を開けてくれた。がちゃがちゃ、と聞こえた時は心底嬉しく、期待の混じった顔をちゃーみんに向けた。ちゃーみんは部屋に入ってきて、私に視線を合わせるようにしゃがんだ。パツパツのスキニーパンツがきしんで、ちゃーみんの太ももを見る。
「ご飯の後は、大浴場でお風呂に入ってね」
「明田さん」
「ちゃーみんでいいよ」
「あ、ちゃーみん。私、どうやったら卒業できますか?」
ホールに歩く中、私はちゃーみんに聞いてみた。きしみもしない床はやはりピカピカで、私はそれが落ち着かない。ホールに向かう途中でもたくさんの部屋があって、そこから人が出てくることはなかった。ちゃーみんはうーんとうなった後、
「そうだね。村長が言う通り、亜紀ちゃんはまだ、そのときじゃないよね。アルコールに支配されて、ロボットみたい」
「ロボット……」
「うん。機械みたいだよ。変だよ、亜紀ちゃん」
ちゃーみんが私に面と向かって言った。私が変? 変なのだろうか。いや、変なのは自覚している。アルコール浸しの脳みそは、酒のことばかり考える。体にアルコールが入ると気分も緩んで、私はその時だけ自由になれる。しんしんじわじわと頭が鳴いて、私はまた、アルコールを欲して辺りを見渡した。
「わ、新しい子? 村長の言う通り、ロボットだねえ」
「あの」
「あ、私は美香子。美香ちゃんって呼んで」
美香ちゃんは私ににこやかな顔を向けた。あんなにひどいことを言っておきながら、なんら臆することなく。
そのあとも、すれ違う人、すれ違う人に「ロボットみたいね」と言われ続けた。この施設ではもはや私のことを知らない人間はいないようで、私は居心地の悪さを感じていた。村長の言葉をみんなが馬鹿みたいに繰り返す。ロボット、ロボット。私は段々それこそが真実のように思えてきて、右手と右足を同時に前に出した。
「ご飯とおかずはバイキング形式。でも、あとから来る人のことも考えて取ってね」
言われ、私はお盆に皿を乗せて、ホールの長テーブルに置いてある料理を取り分けていく。
「トマト、赤い。俺みたいだな」サラマンダーが興奮している。
「野菜、野菜。みずみずしいわ、私みたいね」ウンディーネが笑っている。私もつられて笑って、野菜をたくさん盛り付けた。一応、あとから来る人のことも考えた。ロボットの様にギクシャクした動きで、お皿にたくさんの野菜が乗っかっていく。
真っ赤なトマトはフルーツの様にみずみずしい。赤く熟れ、汁が滴る。レタスもキャベツもパリパリで、唐揚げは揚げたてなのか湯気が立っていた。ご飯は十穀米で赤黒い。
全部盛り付けて、私はホールに設置された長テーブルの一番前の端っこに腰かけた。やはり動きがぎこちなく、私は本当にロボットになった。キーガシャン、ガクガク。
「……? 食べていいのかな」
サラマンダーに聞く。
「みんな食べてるから、いいんじゃない?」サラマンダーのそっけない答え。周りを見ると、みんな各々に食事を始めていた。まだ十人くらいしかいないけれど。その背中は人間のものだった。
私は手を合わせて「いただきます」とあいさつした後、まずは真っ赤なトマトを口に入れた。
「甘い……! 美味しい!」
瑞々しく、甘い果汁が口の中にあふれた。ここまで甘いトマトなんて、フルーツトマトくらいしか食べたことがない。中玉のトマトとしたら、異例の甘さだった。
私がトマトにかじりついていると、美香ちゃんが私の前に腰かけた。
「美味しいでしょ」
みかちゃんはお盆をテーブルに置くと、椅子に座って「いただきます」と手を合わせた。ロボットの私は表情が上手く作れないながらも、人間を真似して笑顔を浮かべた。
「はい、すごくおいしいです。トマトなんて、甘くて」
「はは、だろうね。うちの野菜はね、みんな木で熟してから収穫するの。スーパーのトマトなんかは、青いうちに収穫して、流通の間に追熟させる。これらはまるで別物。私もここに来た時にすごくびっくりしたの」
美香ちゃんがトマトにかじりついた。横に厚くスライスされたトマト。あとから来る人のことがなければ、お代わりしたいくらいに美味しかった。じゅわ、と溢れる果汁が私の喉を潤した。酒の肴にはもってこいだ。カプレーゼなんかにしたら美味しいだろうな。
「それと、今日は反省会の前――みんながご飯終わったら、歓迎会があるから、楽しみにしてて」
「歓迎会?」
「うん。私が作った歌で、お出迎えするのがここのならわし」
興味がないと言ったらうそになるが、素直に喜べない。私は唐揚げを口に入れる。学校給食のものみたいに、カリカリで香ばしくておいしい。じんわりと肉の油が舌のうえを通っていく。肉は柔らかくて、やがて私の血となり肉となる。そうして一体になった私は、きっとまた脳みそをアルコールに浸すのだ。
「私、ご飯のあとはお風呂に入って、もう寝たいんですけど」
「あはは。やっぱり、亜紀ちゃんってアルコール依存症に毒されてるね。大丈夫、人間ってね、本来そんなに睡眠なんていらないんだよ。ここにいる人たちはね、みんな深夜一時二時に寝ているけれど、ほら、元気」
美香ちゃんがホールにいる人たちの方を見た。私も視線をあげて彼らを見る。疲れ果てているようにも見えた。真っ黒な服、青い農業着、スーツ、エプロン姿。日焼けした人、してない人。女性に男性、若者、老人。いつの間にかホールは満席に近く、バイキングの野菜はほぼはけていた。
「ここはね、畑の人は畑、会計の人は会計、料理の人は料理。それぞれ役割分担があるの。亜紀ちゃんは、なにがしたい?」
「私? 私もなにかしなきゃならないんですか?」
「当たり前。働かざる者食うべからず」
いよいよ面倒になって、私は肩に乗るサラマンダーとウンディーネに目配せした。いいよ、と言われて、私はご飯もそこそこに席を立つ。
「あれ、もう食べないの?」
「はい、食欲なくなりました」
残したものはバケツに捨てて、そのあと畑の肥料になるらしい。幸い九割は食べ終えていたから、それほど残渣は出なかった。
夕食の後に、大浴場に向かった。最初はどこにあるのかわからなくて、近くにいた人に聞いてようやくたどり着くことができた。
脱衣所は狭く、農作業を終えた人たちでごった返していた。汗と土が混じったにおい。私は口呼吸でさっさと脱衣を済ませる。脱いだ服は、シャツ、パンツ、下着、ズボン、と書かれたかごに突っ込んでいく。誰もかごに脱衣を入れていないことが気になったけれど、私はさっさと風呂を済ませたかった。
「あ、今日から入った亜紀ちゃん?」
「あ、はい」
「そっかあ。ここの石鹸は、体と髪の両用なんだけど。最初はごわつくけど、悪いものが流れたらこれ以外には使えなくなるよ」
「石鹸で頭洗うんですか?」
「蝶の華特製の石鹸だよ」
うげ、と舌を出したいのをこらえて、私はそそくさと服を脱ぎ終えて浴室に入った。脱衣所とは売って変わって、風呂のなかは広かった。特に湯船。十人は入れるだろう大浴場に、一日の浸かれが吹き飛んだ。
シャワーは十か所あって、私は体を見られないように端っこの席に陣取った。私の隣では、四十代くらいの女性がパンツを洗っている。
「あれ、亜紀ちゃん。ここは衣類は自分で下洗いするの。持って来て」
「え、あ、はい」
言われて、私は脱衣所に向かう。脱衣所の洗濯籠の中にはすでにたくさんの洗い物があって、私は底から自分の衣類を探すのに手間取った。
汗臭い洗濯物の中からようやく自分の衣類を見つけて、私は再び浴室に入る。
「こっち、こっち」
さっきの女の人が、私を手招きする。
「私はかっち。で、その衣類はお湯で下洗いしたら脱衣所の専用のかごに入れるの」
「なんだか、すみません」
「いいのよ、慣れるまではいろいろ驚くだろうけど。干した洗濯は、大広間にたたまれたものが夕方に置かれるから、自分のを探して持っていくの」
あ、と声を漏らす。私の洗濯物に、名前は書いていない。もう洗ってしまったから名前を書くことはできなかった。これはこのまま脱衣所のかごに突っ込まれる。だったら明日の夕方に、いの一番に洗濯物を探さなければと思った。
「さっさと出ようぜ、こんなとこ」「そうよ、こんなところ、アナタの居場所じゃないわ」サラマンダーとウンディーネが私をせかす。けれど私は、一日の疲れを流すように、長々と湯船に浸かり続けた。
風呂を出ると、ホールの長テーブルが後ろに移動されていて、前方にはスクリーンが降ろされていた。シアターよろしく、スクリーンには蝶の華のメンバー紹介や農作業の紹介動画が流れていた。
「あっ! 亜紀ちゃんこっちこっち!」
ちゃーみんが私を手招きした。キシキシの髪の毛を拭きながら、私はちゃーみんの隣に三角座りする。ちゃーみんもお風呂上りらしく、髪の毛が濡れていた。
「この時間はドライヤー奪い合いだもんね。貸して」
ちゃーみんが私の手からタオルを取って、私の後ろに回って私の髪をタオルで挟んだ。濡れた髪の毛がぽんぽんされて、私は昔を思い出す。お母さんもよくこうしてくれたっけ。あのころの優しいお母さんはもういないけれど。
「キシキシだね」
「はい、あの、持ってきたシャンプーって、使っちゃダメですか?」
「ダメじゃないけど。市販のシャンプーは添加物多いんだよ。蝶の華特製石鹸は環境にも優しいし、髪にも優しいの。ちゃんと使ってくれて私はうれしいな」
まるで昔のお母さんの様に、ちゃーみんが私の髪の水けをぬぐった。頭皮がむずむずして気持ちがいい。人に髪の毛を触られるのは好き。とても気持ちがいいから。
「気緩めんな」サラマンダーの不機嫌な声。
「私たちがいるの忘れないでよ」ウンディーネまでもが私を責める。
ホールの前に檀上があって、そこに美香ちゃんが立った。みんなから拍手が起こり、まずは村長があいさつした。
「今日からまた一人、仲間が増えました。高橋亜紀ちゃん。あーきんと呼びましょう」
やめてほしかった。変なあだ名はどうやら村長の趣味らしい。みんなが私に注目する。あーきん! あーきん! 手拍子が聞こえる。
美香ちゃんがギターを手に、椅子に座る。ぽろろん、明るい曲調が始まって、美香ちゃんはマイクなしで歌いだした。圧倒された。マイクなんてなくてもよく通る声。そしてオリジナルの歌詞が妙に染み渡るのは、私がホームシックだからだろうか。周りを見ると、泣ている人も一定数いた。それくらい、美香ちゃんの歌は圧倒的だった。
美香ちゃんが歌い終わると、拍手喝采が起きた。
「ありがとう! じゃあ、あーきんがら一言!」
美香ちゃんが私に無茶振りした。私はちゃーみんに手を取られ、壇上に上がらされる。
五十人の住人が、私に注目している。酒が欲しい。こんな風に暑い日には。
私はマイクを受け取る。マイクを通してなお、私の声は美香ちゃんには及ばなかった。
「よろしくお願いします」
絞り出した声に、さっきよりいっそうの拍手が起こった。私は恥ずかしくて、なのにどこか認められた気持ちになって、ぺこぺこと頭を下げながら壇上を降りた。
「九時以降は、子供たちは南棟に戻るの。で、九時からは自由時間。時々、反省会」
「反省会?」
ちゃーみんに倣う様に長テーブルを元の位置に戻しながら、私はサラマンダーとウンディーネを盗み見た。ふたりとも腕を組んで私をにらんですごんでいる。大丈夫だよ、私はこんな場所に染まったりはしない。ふたりに誓うように視線を向ける。相変わらず私に厳しい目を向けていた。
「週に何回か、今日一日の報告をするの。特に新しい滞在者が来た日とか」
「報告」
「うん。会計係には特に必要だし」
そういうもんなのかな、と、私はちゃーみんと同じ、料理担当のテーブルに座った。長テーブルは六人が同時に座れて、私のほかのテーブルは三十くらいあって、そのうち六割が人で埋まった。
「では、反省会を始めます」
村長の補佐のあけみんが司会を取り仕切る。あけみんはいつも村長の隣にいる。私が知る限り、ずっと。
「まず、今日の報告を」
会計係は、今日の収支を発表する。農業係は、取れ高を。蜂蜜係も、蜂の様子を。洗濯係は、洗濯物の扱い方を。料理係は、今日の料理の材料について。
一通り報告が終わると、村長が口を開く。
「では、今日の反省点がある人は?」
今度は挙手制だった。
農業担当の男性が手を上げ、村長が指名する。男性が立ち上がる。心なしか、空気がぴりついていた。
「農業担当のかなかなが、トマトを二個ダメにしてました」
かなかなさんが手を挙げる。
「それは……! 虫食いだったんです」
二人がいがみ合う。周りの人も手を挙げて、
「かなかなの行動はよくなかったと思います」
「かなかなが悪いよね。虫食いでも、うちは商品にするし」
「一言断ったほうがよかったよね。かなかなが悪い」
「そうだね、命をいただくんだから、一個たりとも無駄にはできない」
私は面食らって、なにも言えなかった。まるで一人の人間をいじめているようで居心地が悪い。かなかなさんの顔が真っ赤になる。目に涙をためた、その時だった。
「皆さん、静粛に」
村長が立ち上がって、みんなをなだめる。あれだけ行き交っていた悪口がやんで、みんなが村長の言葉に耳を傾ける。それはまるで、教祖のありがたいお言葉であり、崇めたてまつる神の子のようだった。
「かなかなは確かに悪かった。だけど、かなかなにだって考えがあった。わたしたちの畑の野菜は、虫食いでも売りに出すし、食卓にも出す。なぜだかわかる? かなかな」
「はい……虫が食うほどおいしい、のではなく、虫が悪い部分を食べてくれるので、残りの部分は美味しく食べられるからです」
よろしい、と村長が笑った。
「かなかなは、今後気を付けるように」
「はい」
口々に大人たちが村長をほめそやす。さすが村長だ、村長なくして我々はありえない。
村長の隣にいるあけみんがパソコンに議事録を打ち込んでいる。カタカタと無機質な音に、無表情のあけみんの方が、私なんかよりよっぽどロボットらしかった。ガヤガヤとみんなが私語を始めたので、私も隣に座るちゃーみんに声をかけた。単なる世間話だった。
「ちゃーみん、ちゃーみんって村長の娘なんですよね」
「そうだよ」
「お母さんって、一緒に暮らしてるんですか?」
「うん、いるよ。あそこ」
ちゃーみんが指さしたのは、洗濯もの担当の初老の女性だった。女性がちゃーみんの視線に気づくと、慈愛に満ちた笑みをちゃーみんに向けた。ちゃーみんもお母さんに手を振って、私を見て、また笑った。
「でも、この家では子供は大人たち全員で育てるし、だから私も、ここにいるみんなのことを家族だと思っているよ」
私にはまるで理解できないけれど、そういう家族の形もあるんだなと、ぼんやりとそんなことを考えた。
その日の夜は、ちゃーみんと同室で床に就いた。ここでは、滞在者にはひとりにつき何人かの住人が世話係に付き添うのだとか。寝付けない私に、ちゃーみんは昔話を聞かせてくれた。村長がちゃーみんのお兄さんに自転車の乗り方を教えていたのに、ちゃーみんのほうが早く乗れるようになったこと。ちゃーみんのお兄さんは今も家に寄り付かず、ひとり暮らしをしていること。お母さんはちゃーみんを生むときに苦労したこと。ちゃーみんには二歳の子供がいて、みんなで育ててくれていること。
「お子さんと一緒に寝なくていいんですか?」
「いいの。どちらにせよ私は東棟で庵は南棟だし。それに、いつでも会いに行けるしね」
私とお母さんも、これくらい距離を置けたのならば、なんら苦労することはなかったのだろうか。
滞在二日目。私は自ら希望して、料理係に就くことになった。準備できたら来てね、とちゃーみんは先に厨房に向かった。
部屋を出ると、隣の部屋の女の子と鉢合わせた。あっちが先に頭を下げて、私も慌てて頭を下げた。
「卒業。今日でしたっけ」
「あ、うん。お姉さんは、昨日来たばかりだよね」
初対面なのにタメ語で話されて面食らう。今の子ってこんな感じなのかな。大して変わらないけれど。隣人の女の子が、「一緒に行こうよ」と誘ってくる。
「あの、アナタは家事はなにを担当してるんです?」
「私? 私はなにも。部屋でゲームしてただけで、もう卒業。なんか私、賢いんだって」
他人事のように言って、私たちはつるつるの廊下を歩いていく。ホールについて、隣人の女の子は慣れた様子で炊飯器からご飯をよそった。私の分もよそってくれて、私はそれを受け取って長テーブルの前に座った。先客の隣一個分あけて座ると、隣人の女の子が私と先客の間に座る。
朝ごはんは、ここの住人は簡単に卵かけご飯なのだと聞いた。滞在者も倣って朝ごはんを食べるから、ご飯と味噌汁は沢山用意してある。
「卵かけごはん、食べられそう?」
すでにちゃーみんは厨房に立っていた。私にほかほかの味噌汁をよそう。私は普通盛りによそってもらったご飯を置いたテーブルから立ち上がり、ちゃーみんから生卵と味噌汁を受け取った。ホールと厨房はカウンターで繋がっていて、大きな額縁みたいに窓になっている。
「取れたての新鮮な卵だよ」
「ありがとうございます」
「なに気を緩めてんだよ」サラマンダーは今日も健在だ。
「そうよ、なじんではだめ」ウンディーネも今日も涙ながらに訴えてくる。私は十穀米のご飯に生卵を割り入れて、蝶の華特製のしょうゆをたらした。まずは味噌汁を飲んでから、かき混ぜた卵かけごはんを口に入れた。
「美味しい」
「でしょう? ここのご飯は本当に美味しいし、体にもいいの。お通じもよくなるよ」
隣人が言った。それは今朝、体験済みだった。朝起きぬけにトイレに駆け込んだくらいだった。昨日の夕飯は唐揚げ以外は全部野菜料理だった。おまけに、自家製の野菜ジュースもついていた。野菜を多くとると健康になることはよく知られているが、心なしか私の体も軽かった。隣人の女の子が卵かけご飯をかき込んだ。豪快に食べて、味噌汁をすする。可愛らしい見た目とは裏腹に、やや大雑把な印象を受けた。
「お姉さん、名前は?」
「高橋亜紀」
「あーきんだよ」
ちゃーみんな厨房から顔を出した。隣人の女の子はふうん、と頷いて、私の肩口にいるサラマンダーを見ているような気がした。
「私。先に部屋に戻りますね」
結局、隣人の女の子の名前はわからなかった。私もさっさと朝ごはんを済ませて、食べ終えた食器をカウンター越しにちゃーみんに渡した。ちゃーみんが、あっち、と指さした入り口から厨房に入ると、ちゃーみんが嬉しそうに破顔した。
「じゃあ、今日からよろしくね、あーきん」
「いや、あーきんっていう呼び方は」
「村長ってネーミングセンスだけはないからね。でも、可愛いじゃない、あーきん」
ちゃーみんが私を見て笑っている。取り出した包丁を慎重に私に渡して、
「あーきんは、玉ねぎをくし形に切って」
「はい。って、これ全部ですか?」
百はあった。私は包丁を手に取る。家にいたころに多少は料理をしていたけれど、私はあまり料理に自信がない。私が恐る恐る玉ねぎの皮をむくも、周りの誰も、私に言及するものはいなかった。ここでは各々の自主性に任せるらしい。ペリ、ペリ。玉ねぎってどこからが可食部でどこまでが皮なのだろう。硫化アリルが目にしみて、私は涙と鼻水を垂らしなが玉ねぎを切った。
「昨日はよく眠れたの?」
厨房の責任者、るーさんがトマトを切りながら言った。包丁の切れ味がいいからか、トマトは完熟なのに切っても一切潰れなかった。トマトの甘い香りが鼻孔をくすぐる。昨日のあの味が思い出されて、唾液腺がきゅっと鳴った。
「あまり……枕が変わると眠れなくて」
「だよね。あたしもそう。ここに来たばかりのころはなかなか眠れなかった」
がっはっは、と豪快にるーさんが笑った。この厨房には、私とちゃーみんとるーさんと、はっくんさんとまんまさんがいる。普段は四人で五十人分の食事を作っているのだそうだ。五十人の命を象る仕事。農作業だけでなく、料理だって人の命を作る仕事だ。みんなそれを誇りに思っている。胸を張って野菜を切る様は、それこそ百獣の王もかすむほどの貫禄があった。
「あーきんは、徳島に興味あるんだよね。るーさんが徳島の人だから、聞いてみたらいいよ」
ちゃーみんがアスパラを揚げながら私に言った。じゅううと油が鳴いて、香ばしいにおいが立ち込める。私の身の上なんて、ちゃーみんには話していない。きっと野本さんが勝手に話したのだ。憤慨しつつも、私は否定する気も起きなかった。玉ねぎの皮をむきながら、
「私、阿波しじらに興味があって」
「阿波しじらね。渋いわね。普段から着るの?」
「いえ、着たことは……」
私が言いよどむと、るーさんはまたがっはっはと笑って、
「じゃあ、昼ご飯が終わったら、着付けてあげようか」
「え?」
「るーさん、何枚も持ってるもんね。ここに住んでる人は、一枚は持っているよね」
「いや。私なんかが着るなんて」
ちゃーみんが揚げ物の油を切りながら私とるーさんの方を見た。私がおろおろしていると、ふたりは声をそろえて笑った。がっはった、うふふ。サラマンダーとウンディーネはシラケた目をふたりに向けている。「騙されるな」「信じちゃダメよ」
「あーきんって、自分に自信がないよね」
「それは……否定しません」
「もう、否定できるようになったらいいね」
ちゃーみんがまた、アスパラに衣をつけて油に放る。るーさんはトマトをきれいに盛り付けて、上から塩とオリーブオイルを掛けていた。
昼休みになると、それぞれの持ち場から人が帰ってくる。ご飯は全員が南棟で済ませるから、だいぶ大所帯だ。私は夕飯に同じく、一番前の席の端っこに座ったのだが、今日はたくさんのひとが私の周りに席を陣取った。
「アルコール、やめられそう?」
「いや、私にはまだなんとも」
「あの子……今日卒業した子はね、三日で卒業だったんだよ。十七歳だって、賢い子だったな」
心当たりがあった。私の隣の部屋にいた、あの子だ。まだ十七歳だったとは驚きだった。もっと大人のようにも思えたし、確かに子供のような純粋で邪悪さを孕んだ人でもあった。
「それって、私の部屋の隣にいた?」
「あ、知ってた? そうそう、その子」
私は二日目だけれど、まだ卒業の話なんて上がってこない。トマトを口に入れる。甘い果肉が口の中ではじけた。ごくりと飲み込むと、喉の渇きが癒されるようだった。
「その、卒業の条件って、なんなんです?」
ここは一泊七千円だ。これは私が自腹を切らなければならない。だったら、手っ取り早く卒業したい。
「そもそも、オマエは母親に捨てられてここに来たんだよ」サラマンダーが私に耳打ちする。そのサラマンダーをウンディーネが止めている。いつもの光景だ。私はなにひとつ変わっていない。
「卒業は、村長が決めるんだよ。ああ、この子は大丈夫だ、ってなったら卒業」
「その基準って?」
「さあ、それは俺にも」
たけさんが私の顔を覗き込んだ。だいぶ端正な顔つきのたけさんは、ここに移住してきてまだ間もないのだと聞く。だからか、私に色々なことを教えてくれた。卒業のこと、滞在者のこと、野菜のこと、お風呂は男女で時間が違うこと。
「でも、私、アルコール依存症が治るか自信なくて」
「大丈夫。ここに入った人はみんな、よくなって帰っていくから」
たけさんは穏やかな男性だった。私が一人で食事をとっているのを見かねて、今日は一番に私の隣に座ってくれた。たけさんが私にトマトをひと切れ分けてくれた。
「トマト、好きなのかなって」
「なんでわかったんです?」
「だって、最初に全部食べちゃったし。食べてるとき、めっちゃ笑ってた」
恥ずかしくなって、私はたけさんから顔をそらしてトマトを口に入れた。じゅわっと広がる赤い果汁が、私の頬を赤く染めた。
たけさんは農業担当だ。トラックの免許があるから、大きな市場に農作物を運搬するのが役割なのだという。たけさんは体育会系の出身で、もとはサッカー選手を目指していたのだという。実際、U18には選ばれていたけれど、大学時代にひざを故障してから、なんとなく時間が過ぎていった。サッカーしか能がないから、とたけさんの寂しげな表情は、私の胸をも締め付けた。
「たけさんは、明るいし人望もあるし。農業に向いていると思います」
「だろ? 俺も最初は、ここを知って滞在したときはあんまり乗り気じゃなかったんだけど、家に帰って、また普通の会社員生活をしてみたら、『あれ、なんか違うな』って。そこからは、早かったよ。ここに移住するのに二か月。村長も快く受け入れてくれて、俺は恵まれてるよなあ」
たけさんの話を聞くうちに、私の周りにはたくさんの住人が座っていた。みんな美味しそうに自分の農園の野菜にかじりついている。みずみずしく、私の喉の渇きを癒してくれる、野菜とたけさん。
「たけさん、明日も農作業ですか?」
「うん。だから、明日もあーきんのお昼ごはん、楽しみにしてる」
末尾にハートマークはつかなかったけれど、たけさんは私を自分と重ねている部分はあった。たけさんはサッカー一筋だったけれど、それを失った。その喪失感は、どれほどのものだったのだろう。十八年間、ほぼサッカーのことしか頭になかった。自分はサッカー選手になるのだと信じて疑わなかった。それは純粋で美しい、ガラス細工のようだと思った。
昼が終わったら、少し休憩して皿を洗って、それからまた、夕食の準備だ。
「あーきん。畑に行ってみない?」
昼休み、私はホールで料理係のみんなから離れた場所に座って、お酒に思いをはせていた。トマトでだいぶ心は潤ったものの、酒からの支配は断ち切れそうにない。喉が渇いて死にそうだったところに、村長が私に話しかけてきた。今は六月で、まだ暑さはそれほどでないにしろ、紫外線が一番強い時期だ。私はやんわり断ろうとしたのだが、
「いいね、行ってきなよ」
「そうよ、行きなさい」
ちゃーみんとるーさんが同意して、もはや私に逃げ道なんてなかった。あとは任せて、とちゃーみんが力こぶを作っている。私は紫外線なんか浴びたくないのに。燦燦と降り注ぐ太陽は、光だけでなくUVまでもを私たちに刺し殺す。
「じゃあ、行こうか」
村長が私の手を取った。私は思わずその手を引っ込める。村長の手はガサガサだった。大きく節くれ立った手は触り心地が悪く、私の手にその感触が深く残った。
「ごめん、恥ずかしかった?」
「いえ……迷子にならないので、つながなくていいです」
村長は「そう」とだけ答えて、そのまま私の前を歩いて行った。
靴を履き替えて、外に出る。六月の快晴、湿気でじめじめして歩きにくい。まとわりつく空気に抵抗しながら、私は麦わら帽子と長靴を履いて畑に向かった。
大きな大きな畑だった。そこには夏野菜のトマトやキュウリが実っている。ナスもあったし、トウモロコシもあった。ハウスにはアスパラガスが群生して、私はまるで異世界に来たような心地になった。
「すごいだろう」
「はい……広いし、こんなに実って」
村長が私に軍手と剪定鋏を渡した。私は軍手をはめる。遠くにたけさんが見えた。手を振られた気がして振り返すと、たけさんが「かわいい」と言いながら手を振ってくれた。先に振ってくれたとばかり思っていたけれど、たけさんはただ私の方を見ていただけらしい。恥ずかしくなって、村長の陰に隠れた。
「まずはトマト。聞いた話、あーきんはトマトが好きなんだって?」
「あ、はい。トマトというよりは、ここのトマトがあまりにもおいしくて」
「作り甲斐があるねえ。じゃあ、赤く熟れたものを収穫して、このコンテナに入れて」
コンテナは十ほどあって、私は言われた通りにトマトに剪定鋏を入れていく。ぱちん、ぱちん。周りの会話が消えて、私はトマトに見入っていた。トマトサワーっておいしいんだよな。トマトの甘みがアクセントになって。
じわじわと汗をかいて、私は汗をぬぐった。軍手がトマトの水分で湿ってくる。額から流れる汗が目に入って、時々視界が悪くなった。私はトマトを切って、また切って、さらに切った。
コンテナ十個分を一心不乱に収穫して、周りの人たちは休憩に麦茶を飲んでいた。
「あーきん、こっち」
畑係のかなかなさんが私を手招きする。
「はい、麦茶」
「ありがとうございます」
かなかなさんは、昨日あんな風に大勢から責められたのに、なんら変わりなく農作業をしている。いや、かなかなさんのコンテナを見ると、ちゃんと虫食いのナスやキュウリが収穫してあった。
私はキンキンに冷えた麦茶を喉に流し込む。
「っはー、おいし……」
「この麦茶ね、これもうちの麦茶なんだよ」
「へえ、麦まで」
畑だけじゃなく田んぼもあるし、まだまだズッキーニだとかシイタケだとか、肉や魚以外のものは自給自足しているらしい。昨日の唐揚げは特別な時にしか出さない。たとえば、産卵用の鶏の買い替えの時期とか。
命をいただいている。そのことに関し、昨日かなかなさんはみんなに責めを受けた。それはきっと、みんながこの畑を、畑の野菜たちを愛しているからなのだと理解した。
「さて、あと一息。あーきんは今度は、たけさんとズッキーニを詰めたら、市場にもっていって」
「わ、市場ですか?」
「うん。小さな販売所もやってるんだけど、評判がいいから市場にも卸すの」
よくある、スーパーの一角にある販売所から始まって、今はそれなりに全国にも流通しているのだそうだ。けれどきっと、ここで食べることほどはおいしくは感じないだろう。ここで仕事をしたあとに食べるからこそ、おいしさもひとしおだ。そして、採れ立ての野菜にかなうものなんて、この世界に存在するのだろうか。
屋根付きの倉庫に入って、私はズッキーニをパッキングしていく。袋に詰めて、たけさんがシールで封を止めていく。専用の機械にがきんと通すと、自動的にシールがはめ込まれるのは、見ていて楽しかった。
「虫食いのは、うちで食べるから」
「でも、ここの野菜は、虫食いもおいしいって」
「うん。それはうちだけしか知らないことだから、外の人はやっぱり、見た目とか気にしちゃうんだ」
外の人。という言い方が、私とたけさんの距離だと思った。私はあくまで外から来たお客さんで、たけさんは中の人、つまりここの住人だった。私とたけさんはほんの五十センチの距離にいるのに、心は地球の裏側くらいに離れている。身分違いの恋。私がたけさんに惹かれる理由って、なんだろう。
「村長とは、うまくやってる?」
たけさんが私に目だけを向けた。がこん、がこん、とシールを貼り続けながら、器用な人だ。たけさんはここに来る前は営業の仕事をしていて、営業成績はトップだったのだと聞く。そりゃあ、これだけの人懐こさだったら、営業でも力を発揮するだろう。証拠に、さらなる市場の進出の契約を、つい先日たけさんが取り付けたのだとか。
いつもスーパーで野菜を見ても、なんにも思わなかった。「国産がいいよね」「うんそうね」それくらいしかお母さんとも話さない。私たちは日々生産者の実りをいただいている。レジ打ちだって、運搬だって、農業だって、営業だって、なんだっていい、私たちはつながっている。私の住む町にも、いつか蝶の華のズッキーニが並ぶ日が来るのだろうなと思った。けれど、スーパーに並んでしまえば、野菜は野菜に変わりなく、私たちは生産地になんの思いを馳せることもない。これにしようかな、メニューにあわせて野菜と肉を一緒くたにかごに詰めていく。傷んでいればなにも考えずに捨てるだろうし、料理してしまえば、その手柄はお母さんのものになる。
私はズッキーニをすべてパッキングし終えて、たけさんの運転で初めてトラックに乗った。今日は野菜のほかに、蝶の華特製のはちみつや、あとは子育て係の人たちが作った雑貨が主な荷物だった。
「市場って、近いんですか?」
「うん、一時間くらい。夕ごはんは遅くなるけど、いい?」
今は午後三時だった。私は「大丈夫です」と助手席で頭を下げて、たけさんが車を走らせる。トラックががくんと揺れて、重い躯体が前に進む。うしろの荷物を引っ張って、たけさんの足がそれを引きずって動き出す。
「トラックって、車体高いから周り見下ろす感じなんですね。揺れも独特」
「酔った?」
「いえ、景色がいいなって」
周りの車を見下ろす形になるのがいい。みんなトラックを追い越してスピードを上げていく。まくし立てて追い越していった車の後ろに、覆面パトカーが追いかけていったときは痛快だった。
「あれ、捕まりますよね」
「うん。アオリ運転していたし」
「え? トラックを?」
「そう、このトラックを」
あはは、とたけさんが笑って、前を向いて運転をしている。慣れっこなのか、「よくあることだね」とラジオの音を大きくした。交通情報が流れてくる。今日は渋滞もないな、とたけさんがラジオを小さくした。
「あそこ曲がったら、すぐだから」
「はい」
「帰りに、少しだけお茶していこうか」
「え。大丈夫なんですか?」
平気平気、とたけさんがウィンカーを出して右に曲がる。曲がってすぐに、入り口の看板があった。市場の大きな看板があって、広い入り口を入っていく。トラック用の駐車場に、たけさんはバックでトラックを止めた。切り返しはせず、一発での入庫だった。
トラックを下りるのは大変でしょ、とたけさんが先に下りて、助手席に回って私に手を伸ばした。私はその手を取って、落ちないように慎重にトラックを下りた。たけさんの手が熱くて、たけさんは私の手をあっさりと放した。
「さ、荷物運ぼう」
「はい。雑貨もここに?」
「うん。ここでトラックの中身を競りにかける。雑貨はそのまま次のトラックにバトンタッチ」
たけさんがトラックの荷台の扉を開ける。コンテナ一杯に積み込んだ、ズッキーニやキュウリ、ナス。私たちは汗だくになりながら、それらを市場に運ぶのだった。
競りというのは初めて見る。どれをいくらで買うのか、協議しているのだという。蝶の華の野菜は人気があるのかそうでないのか、私にはわからない。たけさんが競りに出した野菜を見送る。雑貨は別のトラックに積まれて、それぞれの道で別の住処へと向かうのだ。
「さて、帰ろうか。さっき言ったさ、少し気になるお店に寄ろう」
「気になる?」
「うん、うちの野菜を使い始めた喫茶店なんだけど」
つまり、調査なのだと思った。蝶の華の人々は、自分たちの農作物にひときわ愛情を注いでいる。私は空っぽになったトラックに乗って、再び車道のはるか上を、飛ぶように走っていった。
喫茶店は、蝶の華と市場の真ん中くらいにあって、三十分くらいで着くことができた。からんころん、ドアを開けると鈴の音がして、レトロな雰囲気がかわいらしかった。コーヒーの香りが鼻から脳に直に浸る。コーヒーって飲むと苦いのに、香りはこんなにも甘くて魅惑的だ。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、二名です」
喫煙か禁煙かは聞かれなかった。昨今は喫煙者の肩身が狭い。喫煙所は分煙であるし、レストランでの喫煙席は絶滅しつつあった。タバコの煙は他者にも迷惑をかける。それと同じように、他者に迷惑をかけるアルコール依存症患者も、世間からうとまれ理解を示されることはなかった。
たけさんと私は、ソファの席に向かい合わせに座った。たけさんがメニュー表を見る。そのまま口が弧を描いて、たけさんがメニュー表を私の方に向けて広げた。
「見て」
指さされた場所を見れば、『蝶の華特製野菜のソテー』と書かれていた。それだけじゃない、ほかのメニューにも蝶の華を冠していたり、注釈で『この野菜は、蝶の華の朝採れ野菜を使用しています』と書かれていた。にやにやしていたからか、たけさんが店員さんにいぶかし気な目を向けられていた。
私とたけさんは、コーヒーだけ頼んで、たけさんはメニュー表をスマホのカメラで撮っていた。
「あとでみんなに見せよう」
「そうですね。ここのメニューは、食べなくていいんですか?」
「うん。うちの野菜を使っているんだから、食べなくてもおいしいのはわかるし、帰ったら夕ごはん、俺たちの分だけ残しといてくれるって言っていたから。食べられなくなったら困るからね」
久しぶりにコーヒーを胃に流し込む。お酒と違って喉を焼く感覚もなければ、胃が熱くなることもない。サラマンダーが不満そうに私の耳たぶを引っ張った。
「浮気者!」そんな、いつ私とサラマンダーはそんな関係になったのだろうか。
「いい人ね、たけさん」ウンディーネはうっとりとたけさんを見ていた。ダメだよ、どんなにウンディーネがかわいくても、たけさんへの恋心だけは譲れない。ウンディーネとサラマンダーを無視して、私はコーヒーを飲み干した。暑いのに冷たい気がして、これがお酒でなくてよかったなと思った。
蝶の華に戻って、夕ごはんをたけさんと食べる。今日の朝とれたナスを油で焼いたものに、私の大好きなトマト入りのサラダ、自家製の野菜ジュースに人参のソテー。今日はお肉がないけれど、お腹がはちきれんばかりに満たされた。喉の渇きはもうなくて、この清く澄んだケア団体にいれば、いつか私のアルコールで汚れた体内も浄化されるのかなと思った。
夕ごはんを終えて農作業に戻ると、かなかなさんがすでにコンテナに五箱、トマトを収穫し終えていた。私も午前の続きで、トマトの剪定に入る。そこからは、二時間ほど無我夢中でトマトを切り取り続けた。水をたっぷり含んだ赤色が、私の脳を焼き付ける。これは命だ。私の命。赤く燃え水をしたたらせる矛盾に満ちた、命。一通りトマトを収穫し終えると、折よく村長が私に声を掛けた。
「あーきんは、収穫したトマトを持って、南棟に戻ろう。採りたてのトマトは、明日の昼にしてもらおうね」
ワゴン車にコンテナを乗せて、村長が車を運転する。私はその助手席に座って、涼しいクーラーの風に当たりながら、南棟へとトマトを届けた。
「焼けたね」
ちゃーみんが、トマトを受け取りながら笑った。私の肌がひりひりとして、特に耳とおでこは焼けるように熱かった。ここでは日焼け止めは不自然だよ、と日焼け止めなんて常備されていない。私も当然持ってきていなかったから、無防備な肌はUVに痛めつけられ悲鳴をあげている。
「うそ、赤くなってます?」
「うん、真っ赤。お風呂入ってきていいよ。今なら人少ないし。日焼けがひどくなる前に、入った方がいいね。上がったら、脱衣所にある蝶の華特製の化粧水塗るといいよ。あれは日焼けにもきくから」
ここで私は、洗濯物のことを思い出す。名前のないものはフリーゾーンに置かれて、誰でも使っていいのだと聞いた。私は慌てて脱衣所前に走る。日焼けした肌に風が当たった。
きれいにたたまれた洗濯物の中から、昨日着た下着と服を探し出す。きちんと四角く畳まれたそれは、洗剤や柔軟剤の香りはない。代わりにお日様のにおいがした。お日様のにおいって、持ち主の体の脂だとも言うし、ダニの死骸のにおいだとも言うけれど、ここのはそういったものではない、太陽そのものがにおい立った。
「ない、ない!」
洗濯物を片っ端から見ていっても、お気に入りのティーシャツがなかった。私はあきらめて、取り返せた服を持っていったん部屋に戻る。戻る前にちゃーみんからマジックを借りて、私は自分の服のすべてに名前を書いた。
風呂から上がり、子育て係の人たちが、私を手招きしていた。子供たちがミニオンみたいにわーきゃーと独特の高く柔らかな声を上げて笑っていた。伸び伸びと育つ子供たちは、純粋無垢で可愛らしい。
「なんです?」
「この子たちも、紹介しようと思って」
そのなかに、天然パーマのかわいらしい子がいた。ちゃーみんにそっくりだったから、すぐにその子がちゃーみんの言っていた子供なのだとわかった。二歳だと言っていたが、平均よりも体が小さくて、日焼けした体は太陽にたくさん愛されていることを物語っていた。私もこんな風に焼けるのだろうか。
「この子が庵ちゃん。こっちがまーくん。この子がなおちゃん」
「は、初めまして」
私は人見知りしたが、子供たちは一切そんなことはなかった。ここは入れ代わり立ち代わりいろんな人が滞在する。子供たちは人見知りなんてもう慣れっこで、私にだっこをせがんでくる。あーう、と両手を伸ばして背伸びする様が、なんとも愛くるしくて断れない。
「わ、重い」
「子供って、意外と重いのよ」
「はい。でも」
本当にかわいらしい。私は庵ちゃんを抱き上げて、その顔をまじまじと見た。ちゃーみんに似ているから、将来は美人になるだろう。私の頬を庵ちゃんがぺちぺちと撫でた。それがくすぐったくて、私は思わず笑ってしまった。サラマンダーやウンディーネの撫で方とはまた違って、新鮮な気持ちがした。
そのあと、夕飯の食器を洗って片付けて、私は部屋にたどり着くなり爆睡していた。畑仕事が効いたのか、私は朝まで泥の様に眠り続けた。こういう生活も、悪くないかもしれない。
「おはよう」
「あ、たけさん。おはようございます」
翌朝、ホールで食事をとっていると、たけさんが顔を出した。昨日は早く寝たから五時に目が覚めて、誰もこないだろうと油断していた。思わずリスみたいに頬張っていた食べ物を飲み込んで、私は澄ました声で返事した。
「村長が呼んでた。最初に来た時に通された部屋に来てって」
「あ! はい!」
もしかして、卒業だろうか。三日目にしてようやく、私は解放されるのだろうか。隣の子は三日で卒業したと聞いているし、きっと私にだって、できるはずだ。
「うん、少しマシになったね」
通された部屋には、村長と補佐のあけみんがいた。あけみんがパソコンに村長の言葉を書き留めていく。あけみんは今日も、村長にべったりだ。
私は前のめりに、
「私の卒業は、いつになりますか?」
「まだまだダメだろうね。アナタはだって、まだ世界の理を理解していない」
「ことわり」
「うん。農作業をもっとやって、もっと食べて寝て、そうしないときっと、アナタはなにも学ばない」
「でも、隣の部屋の子は三日で卒業したって」
「そりゃあ、あの子は特別。頭がよかったもの」
どうせ私は出来損ないのアル中だ。そう思ったとたん、アルコールが急に恋しくなる。脳が霞むあの感覚を、私はどうしても忘れられない。ぐんぐわんと目の前が回る。目がぐるぐるして胃が鳴いた。きゅるる。ぎゅるん。私の音を聞いて、村長が笑った。
「ほうら、今、あーきんはお酒のことを考えた」
「そんなこと」
ない、とは断言できなかった。私は部屋を出てとぼとぼと歩く。だめだ、酒のことが頭から離れない。酒、アルコール。はっは、はっは、息が上がる。私は調理場に走る。まだ今の時間なら、料理係はいないはずだ。
私は調理場をあさった。あれがあるはずだ、調理場にはあれが。ホールと調理場をつなぐカウンターは、窓みたいになっていて、いつも施錠されていない。つまり、厨房に鍵をかけたって、ここをよじ登れば厨房をあさることができる。私はあさましい人間だ。一所懸命カウンターをよじ登って、厨房に不法侵入した。
棚をあさって、下の収納を見た。作業台の下に、それはあった。
「へえ、いいもの使ってるじゃん」
見つけたのは大吟醸の一升瓶。まだあけたばかりだからなみなみと命のしずくが揺れている。私はふたを開けて、それをラッパ飲みする。一升は一・八リットルだから、これは一リットルは残っていただろう。私はそれを、ものの三十分で飲み干した。
たぷんとお腹が揺れる。だんだんと私の頭が霞んでいく。と同時に、後悔の念に駆られていく。またスリップした、役立たずのごくつぶし。じーわじーわ、耳鳴りがする。目が潤んで熱い。サラマンダーが私のまぶたをブランコみたいに座っていた。ウンディーネは私の涙を吸い上げる。
「ほうら、高速で五時間かけてこんなところまできても、オマエはなにも変わらない」サラマンダーが私を嗤った。
「ああ、なんてこと……つらかったのよね。大丈夫よ」ウンディーネは相変わらず優しい。
アルコール依存症の治療は、生涯にわたる。そして、スリップは誰もが通る道だった。だとしたって、私はスリップしすぎだろう。甲斐性のない人間。我慢のできない、自己管理もできない人間。私は誰で、アナタは誰なの? サラマンダーとウンディーネが私の頭上に鱗粉を巻き散らす。
「あらら、飲んじゃったか」
ちゃーみんが調理場に来る。ぐでんぐでんに酔って一升瓶を抱えて座り込む私を見て、困ったように言った。そのうちぞろぞろと人が集まってきて、私は宿泊部屋に通された。
「これ。蝶の華で作っているお酢のドリンク。これ飲んでアルコールなんて体外に出そうね」
「いやです、アルコール回ってきもちい」
「相当酔っているね」
ちゃーみんがかいがいしく世話を焼く。私はまだ三日目だけれど、たった三日でスリップした。私が布団に横になると、天井がぐるんぐるんと回っていた。
部屋で一人、寝ている私に、ここの住人はかわるがわる声を掛けに来てくれた。
「わ、本当に酔ってる」
「料理酒飲んじゃうのかあ」
「まだまだ卒業なんて無理だね」
ぜんぶ聞こえてるんだから。私だってわかってるよ。自分がこんなに甲斐性なしだなんて知りたくなかったけれど。




