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スリップ  作者: 糸宮 凛
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一、サラマンダーとウンディーネ


 サラマンダーが私を責めた。「まーたお酒飲んだの、意志が弱い」

 ウンディーネは私を慰める。「亜紀はいいの。無理しなくていいんだから」

 アルコール依存症は、単なる怠けではない。というのは、当事者にしかわからなくて、結局私は社会の弱者だった。

 ほろ酔いどころではない、ブラックアウト寸前の千鳥足の私の肩に、二人の妖精がとまっている。サラマンダーとウンディーネは、私の唯一の味方の妖精で、それは希望の光かもしれないし、ただのアルコール性の幻覚かもしれない。私はただ、全てを忘れたい。煩わしい人間関係も、友人への嫉妬も。全部をアルコールに溶かして毛穴から蒸発させて、この世界に必死にしがみついていた。

 私が私たる所以を、私は何度もサラマンダーとウンディーネに話し聞かせた。同時に、アルコール依存症の自助会でも、私はひたすらに、不器用に長ったらしい言い訳を連ね続ける。それが私の生きる意味で、私が私を保てる唯一の手段だった。


***


 結局私は、私というものがわからなかった。

 父と母が口を利かなくなって久しく、両親は私の高校卒業を待つようにして離婚した。離婚調停で父と母が私の養育費について言い争っていることを、私は知っている。母一人の稼ぎでは私は大学になんて通えなくて、だから母は必死に父への養育費を要求した。

 私は大学生になっていた。離婚調停は半年に及び、結局、私が二十歳になるまでの養育費と、大学の学費の半分を払う約束を母は取り付けた。最初のうちは、父もそれを守っていたけれど、やはりというか、途中からその支払いは途絶えていった。

 母はもともと専業主婦で、離婚に際して正社員で働きに出るようになった。働き始めると、母は私に職場の愚痴を聞かせるようになっていった。最初は私も一から十まで真摯に聞いて、アドバイスをしていたのだが、どうやら母のこれは、単に聞いてほしいだけで答えなんていらないのだときづいてからは、スマホを流し見ながら適当に話を聞き流すようになった。

「聞いてるの?」

「聞いてるって。職場の加藤さんがひどいんでしょ?」

 私がどんなに共感したって、母の気持ちは収まらなかった。あの人はひどい、あの人は仕事が遅い、この職場は私にはあわない。結局、私が大学を卒業するまでに三回ほど転職を繰り返して、母はどこに行っても文句ばかり垂れていた。

 そんな環境だったから、私は私の学費の足りない分と、交通費は自分で賄わなければならなかった。大学の入学金を母に払ってもらった後ろめたさもあって、入学以降の学費は全額奨学金に頼っている。母もそれで足りていると思っているらしいけれど、雑費もかかるし交通費だって、地元の大学とはいえ一か月になれば一万円は厳しい出費だった。

 周りの同期たちは、楽しそうに放課後の街に繰り出して、高いフラペチーノを頼んだり、好きな洋服を買いあさったりしている。それを横目に、私は毎日放課後のアルバイトの毎日だった。


 私には親友がいる。雪恵という名前のその子は、小学校からずっと同じ学校に通う、唯一無二の存在だった。その雪恵が、最近ことさら鼻につく。私は毎日アルバイトで忙しいのに、雪恵はサークルやサークルの合宿で沖縄にまで行って、それは大学生活を謳歌していた。この差はなんだ。とたんに惨めになるから、私は雪恵と距離を取るようになっていった。


 大学生活はアルバイト漬けだったから、私は就活に出遅れた。というよりは、アルバイトに忙殺されて、私の精神はこのころにはもう、すり減ってなくなっていた。アルバイトを休んで就活の面接に行く。どこも、私なんて受け入れてくれない。アルバイトに忙殺されて、私の成績は目に見えて落ちた。落ちこぼれの私なんて、誰も必要としない。

「なんでアルバイトしてるんですか?」

「家が……母子家庭で」

「ああ……」

 微妙な顔をされて、私はそこで初めて母子家庭とは、世間から差別されうる対象なのだと理解した。次の就活では母子家庭のことはうまく隠して、ようやく取り付けた就職先は、誰も名前の知らないような会社だった。私が通う大学は、そこそこ名の知れた大学で、サークルや遊び三昧の雪恵は無事に公務員になったというのに、みじめでたまらなかった。

 大学を卒業して就職して、私と雪絵の縁はそこでいったん切れた。切れたというより、私が切った。これ以上みじめな思いはしたくなかった。

「雪恵ちゃんはちゃんとしたところに就職したのに、アンタはなんのために大学まで行ったんだか」

 母のなじる声が、鼓膜の奥まで入り浸って、離れない。


 社会人になって、私は会社でもうまく友達が作れなかった。もうごめんだった。雪恵の様に自分と比べてみじめになるくらいなら、友だちなんて最初から作らなければいい。

 就職して、最初のころは飲み会も断っていた。昔からなくならない古びた慣習はくだらない。飲みの席で女は男に酌をしなければならないし、新人は上司の酒を断ってはならない。私は会社でも浮いていた。酒になんて興味もなかった。

「亜紀さん、さすがに、忘年会は参加しないと」

「でも、興味ないです」

「人事考課に響くよ」

 脅し文句を言われて、私は仕方なしに忘年会に参加した。入社して半年以上が経っていた。今では上司の指示があれば、ひとりで仕事もこなせるし、誰になにを迷惑かけるわけでもないのに、私は強制的に酒の席へと参加させられた。これが、間違いだった。

 酒を注がれ、最初は断った。酒なんて女が飲むもんじゃない、母の口癖だ。私は酒の飲み方を知らない。誰かから教わるものでもないし、その必要もなかったからだ。

「ありがとうございます」「はい、次」「ありがとうございます」「お代わり飲むよね?」「ありがとうございます」「熱燗いける?」「ありがとうございます」

 酒が廻って脳みそが霞むと、私の気分は上昇した。最初はいやいやだったのに、アルコールが私の理性を奪っていく。饒舌になって、上司との会話も弾む。弾んで跳ねて、私の心が軽くなった。そうか、適度な酒は、QOLをあげるらしい。

 翌日、ブラックアウトするまで飲んだのに、家の布団で目を覚ますのだから、人間の本能とは面白い。どうやって帰ったのかもわからずに、私はその日以来、毎晩の晩酌を楽しみに仕事を乗り切るようになっていった。


 そのころから、私の酒の飲み方は常軌を逸していたらしい。私は度数の高い酒を一気にあおるのが好き。喉が焼けて胃も焼けて、じんじんじわじわするあの感覚が好き。煽ってあおって、私の意識がぼわんとかすむ。私が私じゃないみたいに溶けて行って、やがてブラックアウトして意識がなくなる。私は酒によって生かされている。毎日度数十二の缶チューハイ五百ミリリットル缶を二缶あけて、なんにも考えられなくなるまで飲んで布団に入る。仕事後の唯一の楽しみが、私の脳をむしばんでいく。私の酒の量が日に日に増えていく。それはやがて、仕事終わりだけでは収まらなくなる。

「亜紀さん、お酒臭くない?」

「いえ、……アルコール消毒使ったんです」

 わざとらしく手を揉んで、私はアルコール臭い口をふさぐためにマスクをした。このころの私は、朝に缶チューハイ三百六十ミリリットル、昼にも同じく。夜は数え切れないほどのチューハイや日本酒を飲むようになっていった。酒に酔うと嫌なことがすべてアルコールに溶けてなくなっていく。私の毛穴から、アルコールとともにいいことも悪いことも一緒くたに溶けて揮発して、私は私を保つことができた。母は相変わらず職を転々として、私に職場の愚痴を吐き出した。私は母の愚痴ですさんだ精神を、アルコールで消毒して流していった。


 アルコールの量に比例して、仕事を休む日が増えていった。一日、二日と増えていって、最終的に行けなくなって、私は会社をあっさりと辞めた。なににしがみついていたのだろう。会社員という肩書が欲しいだけで、私は行きたくもない会社に通い続けている自分に嫌気がさした。少し休んだら、酒もやめて新しい会社に勤めよう。もっと名の知れた、有名な会社。そうしたら母も、私を褒めてくれるのではないか。仕事を辞めても、母はなにも言わなかった。時折居間で顔を合わせると、冷たい目だけが母からよこされた。


 毎日アルコール浸しになって、朝から晩まで飲み続けた。季節は春に差し掛かり、桜の木の下で酒盛りしたら楽しいだろうなと、ぼんやりと思った。

 ある朝、メールのランプがちかちかと光り、私はいつも通りそれを無視した。どうせ詐欺メールかメルマガだろうと、そのメールを開いたのは翌日になってからのことだった。

『最近どう?』

 雪恵からだった。実に一年ぶりのメールである。返信するか迷って、私はアルコールを口に含んだ。

『会社も辞めて、家でプータロー』

 一度打って、消す。こんなのみじめだ。私は文面を考えることなく、アルコールに浸った脳が代わりに私の近況を報告する。

『私最近アル中でさあ。今日も昼間からお酒飲んでる』

 その日はそれだけ送ってスマホを投げた。返信なんていらない、どうせ雪恵も、私を見捨てるのだ。母の様に冷たい目を私に向けて、私は一人ぼっちで世界にたたずむ。私には酒しかいない、酒は私を裏切らない。私にとっては命の水だ。これがなければ、私は毎日を生き抜けない。

 翌日、朝早くに起きて、二日酔いで痛む頭を押さえながら、雪恵からの返事を読んだ。

『アル中は病気だよ。誰か相談できる人いないの?』

 なに本気にしてるんだ。こんなのその場の冗談だろうに。馬鹿にされているようで頭に来たから、私もまじめに返してやった。今はアル中じゃなくてアルコール依存症って名前なのに。

『私は病気じゃないよ』

 それ以降、雪恵から返事はなかった。


 酒の量が増えていく。朝から晩まで昼は家飲み、夜は居酒屋。その日、居酒屋でひとりで飲んでいると、隣に男性が腰かけてきた。私は少しだけ警戒しつつ、男性がにこやかに話しかけてくる。

「一人ですか?」

「いや、まあ」

「あ、俺ここの常連なんだけど」

 カウンター越しに店長に目配せすると、店長がコクリと頷いた。それだけで私の警戒心は解けていって、私は男性と楽しく酒を飲む。男性が私に酒をすすめる。「今日は俺がおごりますから」私は調子に乗って、どんどん飲む。アルコールが脳みそを鈍らせていく。ブラックアウトする。気持ちがよくなる。なにもわからなくなる。ああ、楽しい。こうして見ず知らずの人と仲良くなれるのも酒の場の楽しみだと、私は酒をあおってあおって――

 翌朝、目を覚ますと体に違和感を感じた。トイレに走って、パンツを下げる。どろりとした白色がこびりついていた。さっと血の気が引く。昨日はブラックアウトするまで飲んで、そのあとどうやって家に帰り着いたのかもわからない。あの男の名前もなにも、私は知らない。言うか迷って、私は朝の支度をする母をつかまえて、

「酔って男に……ヤられた、かもしれない」

「自業自得だよ、男と飲むってそういうことだよ。お母さんは仕事行くから。いざとなったら堕ろせばいいんだから、反省するんだね」

 私は本当にこの人の子供なのだろうか。怒りより先に悲しさが勝って、私は母が仕事に出た後しばらく放心していた。酒が脳から抜けきって、私はスマホで検索する。強姦を証明するには、膣に残る体液を調べるか、あるいは妊娠していれば血液検査か堕胎した子供のDNAを調べればいいらしい。

「アフターピル……警察に連絡していいのかな」

 これを強姦と呼んでいいのか私にはわからない。わからないけれど、少なくとも同意のうえではないのだから、私は意を決して警察署に赴いた。

 通された部屋で、婦人警官に事細かに状況を聞かれた。あらまし話し終わると、婦人警官に産婦人科に連れていかれる。警察経由だと待ち時間はほとんどないし、待合室も別室だった。

 診察室に入って、だいぶ歳のいった産婦人科医が、私の膣を器具でこすった。そのまま顕微鏡にそれを乗せて、老眼鏡をかけてまじまじと見ていた。

「いますね、精子。アフターピルどうします?」

「お、お願いします!」

 どうするもなにも、頼むに決まっているのに。私が前のめりに頼むと、産婦人科医が怪訝な目を私に向けた。

「膣。傷ついてないですね。本当に強姦されたんですか?」

「いや……お酒に酔っていて、記憶がないんです。でも、同意はしていません!」

 強く言ったのに、産婦人科医は私ではなく婦人警官の方を見て、ため息交じりに言うのだった。

「今後は、男性と一対一でお酒なんて飲まないようにしてくださいね」

 まるで私が悪いみたいな言い方をされて、私はなにも言い返せなかった。母と同じで、この産婦人科医もまた、酒に酔った私が悪いのだと言いたいようだった。私が変なのだろうか。酒に酔って見境がなくなってしまった私が。私に酒をすすめて、言い寄ってきたあの男は、下心がなかったのだろうか。

 アフターピルを処方された後は、血液検査をする。これは、現時点で性感染症にかかっていないことを確認するためのもので、私は三か月後に改めて血液検査をするまで、性感染症への恐怖と戦わねばならない。

 肝の冷える二週間を経て、パンツが真っ赤に染まった時は心底安堵した。さらに三か月して、血液検査の結果を聞いて、体から力が抜けるのを感じた。

 アフターピルを飲んだ後は、婦人警官と現場検証に行く。そこで覚えている限りのことを話すも、「抵抗した形跡がないので、立証するには難しいと思います」

 その後、警察から連絡が来ることはなかった。


 そんなことがあったにもかかわらず、私は相も変わらず酒浸しの毎日だった。アルコールが私の日常をむしばんでいく。脳がアルコールに浸って気持ちがいい。じんじんじわじわと脳みそが霞んでいくい快感は、一度味わったら忘れられない。

 会社を辞めて半年がたったころ、私は一年ぶりに酒のない朝を迎えていた。久しぶりに会わないか、雪恵から連絡が来て、私は断るはずがなぜだかオーケーしていた。


 普段はジャージにスウェットだけれど、今日は人間らしい服装をして、朝のお酒は飲まずに、雪恵との待ち合わせに向かった。おどろいた。待ち合わせに現れた雪恵が太っていたからではない。

「着物、なんだ」

「あ、ごめん、嫌だった?」

「ううん。ただ、意外だなって」

 昔から古いものが好きだとは知っていたけれど、雪恵の着物姿は、正直に言えば似合っていた。私だって、お金さえあればちゃんとした人間に見えるはずだ。私は雪恵から少し離れたところを歩く。太った雪恵に対して、酒ばかり煽る私は痩せぎすの骨だった。

「おばあちゃんが亡くなったの。癌だったのね。それで私、太っちゃって」

 太っても朗らかな雪恵は、おばあさんの形見分けで着物を貰って、せっかくだからと着始めて、今では自分でも着物を買いに行くらしい。着物なんて高いもの、雪恵は恵まれた自分に気づかない。

「亜紀、ずっと心配してたの。大学でも頑張っていたし」

「そうだね。私は大学の成績も落ちっぱなしだったし、就職も失敗したもんね」

 昨日のアルコールが口からにおいたつ。雪恵にだけは知られたくなくて、私はより一層雪恵から距離を取った。雪恵は私を見て、

「今日はさ、最初に私に付き合ってくれる?」

「え、どこに?」

「行けばわかるよ」

 雪恵に連れられて、電車を乗り継ぐ。ガタゴトと揺れるたびに景色も一緒に揺れて、それが酒に酔った感覚に似ていてどこか心苦しかった。


 ついたのは、古びた着物のお店で、もしや雪恵にマルチ商法でもされるのではと構えたが、雪恵はかまわず店に入っていく。「こんにちはー」「あら、雪恵ちゃん」店員のおばあさんとは顔見知りのようで、私は恐る恐る店の中に入っていった。入った瞬間、樟脳の独特の香りがして、それがなぜだか心を落ち着ける。雪恵が着物を見ながら手に取って、「これ似合いそう」「これかわいい」私も雪恵に倣って、恐る恐る着物を手に取った。絹でできたそれはすべらかで、私の手にはなじまない。

「どれが好き?」

「うーん、どれもいまいち」

 ある一枚が私の手を止めた。ざらりとした感触は、ほかの着物とは違って私になじむ。

「いいね、阿波しじらだよ」

 店員のおばあさんが言った。

「阿波しじら?」

「徳島の夏着物で、そのシボが特徴」

 確かに、ほかの着物と違って表面が凸凹しているし、絹と違ってなじみのある感覚だった。

「いいね、普段着の綿の着物は家で洗えるし、私も好き」

「綿? 着物にも、綿ってあるの?」

「あるよ。ポリエステルなんかも、洗えるし楽だよね」

 綿の着物。普段着の着物。私と同じで、特別ではない、普段着の着物。なのに阿波しじらは、特別に値段が高かった。このお店の目玉は五百円から数千円の着物なのに、阿波しじらは一万円もする。それだけ価値のある着物なのだろう。伝統工芸品。その色も、特別だ。藍で染めた、深い深い色。私の胸に染み入るそれが、まぶたの裏に焼き付いていく。

「亜紀は阿波しじらが好きなんだ。いいね、じゃあ」

 雪恵が阿波しじらを手に取って、私を店の奥に追いやった。店の奥には試着用のカーテンが仕切られていて、雪恵はなにも言わずにその畳の一角に上がっていった。私も手を引かれてそこにあがって、雪恵は備え付けてある着付け小物を私の体にあてがった。

「や、私、着ないよ?」

「いいじゃない、試着くらい」

「私、買わないし興味もないよ」

 本当は、悔しかった。私は成人式に出ていない。アルバイト漬けだった私にそんな余裕があるわけもない。着物のレンタルは安くても十万円はするし、母のお古を借りるにしろ、着付けとヘアメイクで五万は飛ぶ。そんな大金を当たり前に出してもらって、雪恵は聞いた話、成人式の振袖はおばあさんに仕立ててもらったのだそうだ。仕立てたら五十万は軽くいくだろう。そんな雪恵に、私のなにがわかるのだろうか。


 だけれど私は、雪恵の押しに負けた。というよりは、正直に言えば興味があった。私だって、雪恵の様に着飾れば、誰からも責められることはないのではないか。私は着物を着ることで、雪恵に成り代わりたかった。雪恵が私の服の上から、嘘つき襟をつける。本当は長襦袢が良いんだけど。雪恵は慣れた手つきで嘘つき襟の上に阿波しじらを着付けていって、最後に半幅帯できれいに着姿を整えた。着終えると、雪恵は私を姿見鏡の前に引っ張っていって、そこに映った私は、確かにそこに、たたずんでいた。

「お、いいね。阿波しじらでしょう?」

 先客の若い男性が、私を見てぴしゃりと言い当てた。どうやら阿波しじらは、着物好きの間では有名らしい。男性でも着物を着る人がいるのは意外だった。とても粋で似合っていた。男性がにこやかに阿波しじらを見ている。私ではなく、私が着ている阿波しじら。確かにこの生地は独特のものだし、色だってそうだ。青よりも深い、藍色。絹じゃなくたって、泣きたいほどにきれいだ。

「本当によく似合ってる」

「あ、ありがとうございます」

「着物って、奥が深いから、気を付けた方がいいよ」

 男性が微笑んで、お店のおばあさんの方へと歩いて行った。後ろ姿も決まっていて、どうやったらあんなに素敵に着物を着こなせるようになるのだろうと思った。私はもう一度、姿見に映る自分を見た。雪恵の様に少しふっくらしていた方が、着物は板につく。あの男性には程遠く、私には馴染まないし、細くて不格好だけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。雪恵の言葉がふと思い出される。『アル中は病気だよ』ああ、そうだね、今になってわかる。雪恵はただ、私を心配していただけなのだ。鏡の向こうの私が笑った。

「私は」ここに、いる。いていいんだ。すとんとなにかが腑に落ちて、開けた視界に飛び込んできたのは深い藍。お母さんとちゃんと話そう。修復は不可能かもしれないけれど、避けていたら前にも後ろにも進めない。今がその時だ。私はきっと、この藍色の様に深く、青く、どこまでもいけるのだと思った。母との対峙を思うと胃がきゅっとするけれど、恐怖も嫌悪もなかった。アルコールがないと不安で仕方がなかった日々が、馬鹿らしくなる。なんであんなに酒におぼれていたのだろう。私はこんなにも持っているのに。鏡の隣に映る雪恵は、いつもと変わらぬ様子で笑っていた。

「私、アルコール依存症の治療受ける」

 雪恵はただ、頷いていた。お酒をやめよう。やめたお金を貯金して、徳島に行こう。この阿波しじらを織った人たちに会いに。道のりは決して平たんではない。だけれど私は、その先にある景色が見たいのだ。


***


 私とお母さんの関係は、いまだ一進一退だった。私はアルコール依存症の自助団体に通いだした。雪恵にもその報告はしていて、私は希望に満ちていた。が、そんなものは一か月も持たずに消え去って、私は一か月半ぶりのスリップに悩んでいた。

 アルコールが体から抜けると手が震えて、見えない者たちが見える。ウンディーネとサラマンダーが最たる例だ。どうやらお母さんにはこれが見えていないらしい。可愛いから私は別に放っておくけれど。

 自助団体では、自分の身の上の話から始まって、こうやって定期的に集まっては近況を報告する。

「一週間前にスリップしました。もう、喉が渇いて渇いて仕方がなくて」

「わかります。アルコールを欲するんですよね。水ではなく、あの喉を焼く感覚」

 依存症患者の一人が言った。神田さんという名前の男性は、この自助団体に入って二十年になるらしい。初老のおじいさんだった。私も、おばあちゃんになるまでここに通い続けるんだろうか。今のところ、断酒は一か月半が最高記録だった。

「我慢我慢」

「でも、いいじゃない。今回はもう一か月半も我慢したよ」サラマンダーが私にささやく。サラマンダーは真っ赤な炎のような容姿をしていて、大きさは人差し指くらい。ウンディーネは水色をしていて、流れる水滴のようなかわいらしさがある。大きさはサラマンダーと変わらない。

「はい、じゃあ。今日はこの辺にしましょうか」

 自助団体を主宰するのは、介護福祉施設の施設長の野本さんだった。四十代の女性で、いつも髪の毛をひっ詰めている。生え際がはげかかってきていて、とても力強い女性だった。

「亜紀さん」

 野本さんが私を引き留めた。私はこの自助団体に通いだして一番日が浅く、まだ一年しかいないのにスリップは十回もした。

「亜紀さんさえよければ、これ。考えてみない?」

 渡されたパンフレットを見る。『滞在者募集』の文字とともに、農業着の人々が何十人も載っている。真っ黒に日焼けした人もいれば、青白くひょろひょろの人もいる。

「蝶の華っていう団体なんだけど。ここね、所謂エコビレッジっていう、自然と共存を目指す人達のコミュニティなんだけど、農作業や運動で様々な問題を持つ人たちをケアもしてるの。こういう場所でゆっくりすると、状況が改善することもあるのよ。四六時中人の目もあって、自助会に通う人も何人か行ったことがあるんだけれど」

「へえ……」

 少しだけ興味があった。私はそのパンフレットを手に取る。滞在費はお問い合わせください。怪しさ満点だった。畑を背景に人が五十人ほど。みんな笑顔で野菜を手に持っている。かじりついてる人もいて、みんな元気はつらつそうに明るい顔をしていた。

「ねえ、行けばいいのに。君は本当に治す気あるの?」サラマンダーの傲慢な声。ウンディーネは「やめときなよ」と泣きそうだった。私は本来、こういう場所は好きじゃない。自助団体ですら行くのに勇気が必要だったのに、こんな場所に行ってうまくやっていけるのだろうか。ひとりで取り残されるのが嫌。私だけしょっちゅうスリップして、無人島に一人きり佇んでいる。自給自足なんて私にはできない。好きじゃなくてもお母さんが家にいる安心感はあるらしい。

「滞在費って、いくらなんですか?」

「私が滞在したときは、一泊七千円だったわね。でも大丈夫、そんなにかからないわよ」

 そんなに、というほど安い額でもない。気乗りはしないが、私はなんとなくそのパンフレットを持ち帰った。


 家に帰って、お母さんにパンフレットを渡すと、思いのほか乗り気だった。ピンクの文字で『蝶の華』と書かれた紙。全体的に色がばらばらで調和がない。私なら人数は十人に絞って、文字の色は緑にする。

「野本さんから連絡来て。アンタ、行ってみたら?」

「いいの? 滞在費一泊七千円だって」

「いいじゃない。何泊かしてきたらいいのよ」

 そうはいっても、この街から車で五時間。そうそう簡単に行ける場所にあるわけでもない。農業をしながら心身を健康にしましょう。パンフレットの人々が私を見て笑っている。にこにこと音が聞こえてくる。私みたいな社会の底辺と違って、この人たちは農業という人の役に立つ仕事をしている。羨ましいとさえ思った。

「アンタ、お金貯めてたじゃない」

「あれは、徳島に行くために」

 私は、少しずつ仕事に復帰していた。今は週に二回、アルバイトに通っている。お母さんは私に少しだけ関心を寄せるようになったけれど、今も余り私との距離は近くない。いつか私とお母さんの線と線が交わって、一本の道になるのだろうか。

「お母さんから申し込んでおくわね」

「え、行きたくないんだけど」

「気分転換に行きなさいよ。野本さんにはお母さんから話しておくわね」

 お母さんは野本さんと仲がいい。個人的に会ってご飯を食べたり、そこら辺のアジアン雑貨のお店に行ったり。いつだってそこに私はいない。


 自助団体に入会する前、私は偏見に満ちていた。自分の体験を他人に話したからってなにが変わるわけでもない。傷の舐めあいをしてなにが楽しいのだろうか。私は決して弱くない。この痛みを自分一人でどうにかできる、そう信じて疑わなかった。

「こういうの、あるみたいなんだけど」

 お母さんがスマホを見せたのは、私がお母さんとやり直そうと決めてから三か月がたったころのことだった。最近のお母さんは職場の愚痴を私ではなくカウンセラーに話すようになった。私が言ったのだ。「お母さんの愚痴を聞くのがつらい」それまでお母さんは、私をカウンセラー代わりにしていたことに、本気で気づいていなかったらしい。お母さんがハッとしたように私を見ていたのは、今はもう記憶の底に沈んでいった。

「こういう団体って、スリップの情報交換もできるんだって」

「スリップ?」

「断酒の途中でお酒を飲んでしまうことを、スリップっていうらしいの」

 スリップ。車のことかと思った。雪道でスリップした時は、アクセルもブレーキも踏んではならない。タイヤの摩擦が戻るまでそのままが原則だ。スピンしそうな時はハンドルを後輪の向きの反対側に切る。これをカウンターステアというらしい。

 私の断酒はそんなに長く続かなくて、いつも断念してしまう。それはアルコール依存症の治療にはなにも珍しいことじゃなくて、私の断酒は着実にいい方向に向いているらしい。それでもどうにも自助団体に足が向かない。結局、私が自助団体に向かったのは、それから一か月後のことだった。行く、行かない、行く。花占いのように毎日、毎時気持ちが変わって、私は強い、私はおかしくない、私は普通だと言い聞かせた。迷いこそが病気そのものだと気づくには、まだ時間が必要だった。

「新しく入った、高橋亜紀さんです」

「こ、こんにちは」

 自助団体には十五人の患者がいた。離婚された元主婦、バリバリのサラリーマン、中年の無職のおじさん、その他いろいろ。

 私はまだ二十代で、はっきりというなら浮いていた。なのにここの患者さんはなにも言わずに私を受け入れた。受け入れたというよりは、患者が一人増えようが二人増えようが変わらぬ感じで、その日も近況報告を淡々とこなす。私は僕は俺は――みんな各々、話の要点をまとめられるのは、素直にすごいと思った。そしてそこに後悔の感情や喜びの感情を臆することなくのせられる気概も。

「離婚した、旦那のところで暮らす娘と会えました。この子の為にも、断酒を続けたいです」

「スリップしました。会社で嫌なことがあって、イライラしてワインを一本。でも、そのあとはまた断酒に戻ることができました」

 みんな、自分の人生を他者にあけっぴろげに話して恥ずかしくないのだろうか。全員の近況報告を終えると、この自助団体の代表の野本さんという女性が、私のほうに促した。野本さんとは、入会に際して何度か会っているから、緊張は多少は和らいでいた。

「高橋さんは、なにか言うことありますか? なんでもいいです、思ったことを」

「あ……はい。変な場所だなと……私は自分の人生を他人に話すのは無理だなと」

 あはは、と患者さんのみんなが笑った。「みんな最初は一緒!」

 野本さんが笑いながら私を見ている。野本さんは介護福祉施設の施設長で、この自助団体はボランティアなのだろそうだ。ボランティアでいい仕事ができるのだろうか。もちろん、ボランティアを悪く言うつもりはないが、ボランティアって偽善なイメージ。だったらちゃんとお金を受け取っている職員の方が、私だったら信頼できるな。

「通ってみればわかるわよ」

 自助団体の患者さんの一人が言った。ほかの人も頷いている。私はむきになって、

「通いません。私は一人で治せます」

「そう? 無理にとは言わないわ。でも、ここはみんな、アナタと同じ人が、同じ悩みを持ち、同じ解決策を模索する場所よ。通わなくても治るけれど、近道にはなるはず。少なくとも、遠回りにはならないよ」

 言ったのは、元主婦の女性だった。野本さんが静かに拍手している。こういう話は野本さんから出てしかるべきなのに。私は野本さんにジトっとした目を向けていた。野本さんははてなマークを浮かべながら、私を見て首を右に傾けた。見学に来た時もそうだったが、緩い雰囲気がなんとなく忘れられなくて、私はこの自助団体に試しに通うことにしたのだった。


 そうして一日目、私はいつの間にか自分の身の上を赤裸々に話していた。最初は、少しだけ話すつもりだった。お母さんのこと、就職に失敗したこと、お父さんのこと、親友の雪恵のこと。なのに私にはまとめる力がないから、一から十まで、事細かに、私はみんなの前で話し続けた。

 話が終わると、拍手は起こらない代わりにみんながうんうんと頷いていた。

「高橋さんは、お母さんに気づいてほしかったんだね」

「気づく?」

 この前ワインをスリップした男性が言った。私にはそれがなんなのかわからない。自助会にはお母さんも参加してもらって、壁際にはお母さんが椅子に座っている。お母さんが真剣に話に耳を傾けていた。メモ帳を広げて、それは私への当てつけだろうか。

「寂しかったんだよ、高橋さんは」

「寂しい? 私が?」

 一意見として、聞き流せなかった。私は一人でなんでもやってきた。なんだってできる。もう大人だ。なのにお母さんにかまってほしくて、アルコール依存症になったというのだろうか。エリート会社員の患者さんが続ける。

「本当は、ほかの人みたいに、お母さんに甘やかされて育ってみたかったんじゃないのかな」

「そんなの。私の性格的にありえないです」

「そう? でも本当は、離婚もしてほしくなかった。すべてのほころびはそこにあるんじゃないのかな」

 もう二度と、身の上話なんてするものかと思った。私はかわいそうな子供なんかじゃない。そんな子供時代を過ごしたつもりもない。私はお母さんにちゃんと育てられた。私は大学だって自力で卒業したし、社会人だって経験している。今はもう、会社は辞めたけれど、少ししたらアルバイトからやり直すつもりだ。

 ここに通う人たちは、正社員かアルバイトかの両極端にわかれている。正社員になれている人たちは、もう長いことスリップしていない。その時期を乗り越えて、社会復帰した人たちだ。私の未来はどちらになるのだろうか。不安と期待が綯い交ぜになって、喉が渇いた。

「高橋さんが気づいてないなら、いいんじゃないかしら」

 野本さんが口を挟む。この人はどうにも間が悪い。野本さんは禿げ上がりそうな前髪を撫でつけながら、自助会の、まあるく並んだ椅子の真ん中に立ちはだかる。野本さんは中肉中背だけれど存在感がある。輪の真ん中に立つと、そこだけ異空間があるみたいに吸い込まれそうだった。まるでブラックホールだ。私たちのエネルギーを吸い取って、野本さんの声はピンピンに張っていた。

「さ、時間もないし。次の方のお話にしましょう」

「私、私はかわいそうなんかじゃなし!」

 初日だし、あわなかったらすぐにやめるつもりだった。その意思がより一層濃くなった。私は立ち上がって、輪の真ん中に叫んだ。小さいホールに私の声が響いた。涙がいつの間にか流れていた。ウンディーネが私の涙を舐めている。そのまま口に含んで嚥下して、ウンディーネが私の目からまた落ちる。

 みんなが私に注目する。穴が開きそうだった。恥ずかしい、けれど同時に、悔しい。野本さんの引力が、私を枯渇させる。吸血鬼って、いつもこうなのかもしれない。血でなければ、飢えも渇きも癒せない。

「私、そんなんじゃないっ!」

 そのまま私は、自助会の輪を外れて、ホールも出て行って、建物からもいなくなった。お母さんが「すみません、すみません」と謝りながら建物から出てくることが、私を余計にいらだたせた。


「自助会、いかないの?」

 翌月の自助会に、私は難色を示した。あそこは私のいるべき場所じゃない。あそこで傷の舐めあいをしたって、なんら変わることはできないだろう。私は一人でだって断酒できる。要は酒を飲まなければいいだけの話。現状私は対策もしている。このころ、私は心療内科にも通い始めて、先生はいつも私を励ましてくれた。なのにあの自助団体のせいで心が乱れて、脳がアルコールの快感を呼び覚ました。あのしんしんと降り積もる雪のような快感の堆積が、私を掴んで離さない。私はあの自助団体のことを忘れようとした。なんとしても忘れたかった。

 そのストレスがストレスを呼び、私はまた、スリップした。『断酒の失敗』から『スリップ』に進化した言葉だけは、あの自助団体に通った収穫だった。私はお母さんが仕事に出ている隙に、酒を見つけ出して口に含んだ。じわ、と口内にアルコールが広がると、安堵と共に私はそれを胃に落とした。胃がじりじりと酒で焼けた。熱くてカッと喉と頬が熱を持ち、熱の塊が私を撫でた。

 普段、私の財布はお母さんが管理している。私が持っていても、お酒を買うのに使うのが落ちで、だからお母さんが仕事の時はお母さんに財布を預ける。買い物があるときはお母さんの仕事が休みの日にふたりで行く。それは親離れ子離れできてないと言われるかもしれないけれど、私にとっては最適解だった。アルコール依存症の人間は、酒を連想するものを見るとスリップしやすいそうだ。それらをトリガーと呼ぶことも、自助会に行かなければ知ることはなかった。

 けれど今日は、自助会に行かなかったという罪悪感から逃れるために、私は酒を探し歩いて、料理酒を見つけた。私の家では料理酒は、清酒ではなく『料理酒』表示のものを使う。料理酒には食塩が添加してあって、だから酒税がかからない仕組みになっている。料理酒なら飲まないだろうと、私もお母さんも思っていたに違いない。

 だけどお母さんは万一を考えて料理酒もかくしていて、一日中暇な私には、それを探すのは簡単なことだった。コップに注がず、直飲みする。しょっぱい。喉が余計に乾く。まずい。料理酒は独特のまずさをはらんでいる。アルコールの臭みが先に来て、酒のうまみなんて一切感じられない。そしてやはり、しょっぱい。

 ごくごくとまるでジュースの様にそれを飲み込んで、私はぷはっと息を吐き出した。息がアルコールくさくて、部屋中が不味い酒のにおいを纏っている。湿度が上がった部屋で、私は空の料理酒のボトルを見つめた。そのまま頭を抱える。

「またやっちゃった……」

 アルコールが脳に回る前はいつもこんな感じだ。自己嫌悪して絶望する。そのあとはちゃぷちゃぷのお腹でぼうっと宙を見る。お腹が苦しい、喉の渇きは相変わらずだ。料理酒は押し入れから見つかったから、押し入れの前に座りこんで、ぼうっとする。天井の電気がちかちかと明滅する。そこから二つの塊が分離して、私の肩に止まった。

「俺、サラマンダー」その光の塊が言った。

「私はウンディーネ」もう一つの光がしゃべった。私は肩を見る。近すぎて自分の鼻の頭も一緒に見えた。肩に止まるのは、赤色の小人と水色の小人。ふたりとも、自分の体と同じ色の洋服を身にまとっている。妖精だ。私は二人に手を伸ばす。逃げも隠れもしなかった。フワフワと宙を舞い、雪のように美しい鱗粉を振りまいている。片方は笑い、片方は憂いていた。一度かぶりを振ってからまた肩を見る。やっぱり居る。これは誰?

「あの、ふたりは幻?」

「そうともいえるし、そうじゃないともいえる」サラマンダーがひらひらと私の頭上を舞った。ウンディーネは私の頬に冷たい手を触れた。冷たい? じゃあこの二人は、本物なのだろうか。さわさわと二人を撫で回すと、サラマンダーは私の指にかじりつき、ウンディーネは私の指にキスをした。

「サラマンダーと、ウンディーネ? なんで私のところに来たの?」

「オマエが呼んでたからだろ!」「そうよ、私たちはアナタの味方」ふたりが私の両肩に止まって、私に頬を寄せて来る。右側はあったかくて、左側は冷たい。熱いのがサラマンダーで冷たいのがウンディーネ。サラマンダーは火だとすぐにわかったけれど、ならばウンディーネは水といったところだろうか。私は二人の頭を人差し指で撫でつける。感触もある。においはないけれど。

「よろしくね、サラマンダー、ウンディーネ」私はその妖精たちに出会って、自分の話をするようになった。

「サラマンダー、ウンディーネ。私ね」

 自助会で話したことを、私はふたりに何度も何度も話し聞かせた。ふたりはただ黙って、私の物語を聞いてくれた。それは無責任かもしれないし、共感すらなかったのかもしれない。

 どちらにせよ、私は私の身の上を誰かに話すことで、ようやく自分の状況を客観的に見られるようになった。私はただ、お母さんと仲良くやりたいだけだった。友達と同じように、幸せを噛み締めたいだけだった。

「壮大な物語だな」サラマンダーが頷いた。ウンディーネは私の頬に冷たい手のひらを当てて慰めてくれた。けれど、それ以上も以下もない。

 自助団体に通う決心がついたのは、この二人の妖精の存在が大きかった。サラマンダーとウンディーネは、私の話は聞いてくれるけれど、アドバイスはしてくれない。それに物足りなさを感じて、私は三か月ぶりに自助団体に足を向けた。どの面下げてと罵られるのも覚悟した。私は結局、自助団体に通う患者さんと同類で、それがどうしても認められなかった。私のスリップには意味があって、あの人たちのスリップは怠惰だ。なんてものは私の傲慢さゆえの思考で、つまり病気のなせるわざだった。

「高橋さん! いらっしゃい!」

 野本さんが太陽の様に笑顔をはじけさせた。野本さんと会うとどっと疲れる。キンキラした声を無視して、私は輪を作る椅子のひとつに腰掛けた。ほかの患者さんもなにも言わずに頷いている。私はその日以来、自助団体に定期的に通い、自分の近況を報告するようになった。私はおかしくない、決して。ウンディーネとサラマンダーは、自助会の椅子に座る私の膝の上で、退屈そうに居眠りをしていた。



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