第5話 ──残寿ゼロの夜
信号がまた青へ戻る頃、残寿は一桁へと突入していた。
《残寿:02:20:00》
スマホの画面が、俺の視界にへばりつくようにちらついて見える。
足がふらついた。呼吸が荒い。肺が縮む。
鼓動が――痛い。
(まずい……削れ方がおかしい)
影に近づくほど、体の中の何かが引きずられる。骨の奥に焼けた針を刺されたみたいに、筋肉が勝手に硬直する。
「透さん!」
振り返ると、紗世さんが駆け寄ってくる。スーツ姿の背広はもう砂と埃まみれ。息が上がっている。
「来るな!絶対や!感謝されたら――」
言い切る前に、青年の影が暴れた。
濃い闇が地面から沸き立ち、世界の音を飲み込んでいく。
「……置いていかんといて……」
声や。
耳元で。脳内で。心臓の裏側で。
(またか……)
幼い手が、冷たいまま俺の袖を掴んで離さなかった、あの夜。あのフラッシュバックが、青年の影と重なって襲いかかってきた。
「置いていかんといて……嫌や……」
何度も何度も、ノイズ混じりで。
幼い声と青年の声が混線し、俺の鼓膜を削る。
汗が滝のように流れた。視界の端から黒い欠けが広がる。
影が、引きちぎれそうなほど俺の腕を引っ張る。
《残寿:01:45:00》
「やめろ……頼む……少しは……」
ドクン。ドクン。
心臓の音が、街の喧騒よりでかい。
紗世さんが俺の肩を掴もうと手を伸ばしてくる。
「触るなぁぁぁ!!」
引き剥がすように叫ぶ。
その瞬間、影の動きが一瞬だけ止まった。
(俺が罵倒されると……影が弱る?)
紗世さんは怯えた。
「なんでそんな……私、ただ――」
「俺を……罵倒しろ。優しさなんか、今は毒や……!
アンタのありがとうは、俺の寿命を喰うんや!」
紗世さんの瞳が震えた。泣きそうな顔で、それでも彼女は俺を見失わない。
「……ごめんなさい。透さんは、最低の人です。
助けたくなんてない。……勝手に死ねばいい!」
胸がズキリと痛む。
でも影は、少し後ずさった。
《残寿:01:20:00》
まだ足りん。
「俺は……あいつを置いて逃げた。助けられへんかった。
関わらん方がええって……思ってきた。
やのに今、逃げても減るんやとしたら――」
逃げれば死ぬ。
関わっても死ぬ。
でも――
(どっちにせよ削れるなら)
「俺は逃げへん!」
自分の足で一歩踏み出す。
自由意志で。
足元の地面がめくれ上がり、青年の影が形を持った。うつむいたままの顔は見えない。だが、滴る黒い涙には、ちゃんと温度があった。
「……生きてる方が痛いんや」
その震える声が、心臓に刺さる。
「置いてかんといて……」
あの言葉と重なる。
俺の足が止まる。
視界の端が、暗く沈む。
耳鳴りが響く。
《残寿:00:03:59》
あと四分。
「透さん、戻って!お願い、戻ってよ!!」
紗世さんの声が遠ざかる。
彼女の手が肩を掴んだ瞬間――
影が霧の弾丸になってどっと押し寄せた。
(力が……暴走する……!)
《残寿:00:01:12》
《残寿:00:00:38》
《残寿:00:00:11》
「ああ……ほんま俺は……」
青年の影が、幼い影に変わる。
(逃げへん。今度は)
俺はその小さな手に――触れた。
《残寿:00:00:00》
世界が真っ白に塗りつぶされる。
冷たい。怖い。痛い。
それでも、温かい。
「置いてかんといて」
「……置いてかへん。お兄ちゃんは、ここにいる」
手の感触が、そっとほどけた。
影は静かに光へと解けて消えた。
――終わったんや。
強制的に座らされていた椅子のような感覚から解放され、膝が自然に折れた。呼吸が、ゆっくり戻ってくる。脈が、力を取り戻すように打つ。
スマホが鳴った。
《残寿:──》
時間の表示は消えていた。
代わりに、新しい数値が現れる。
《精神安定度:86%》
《祈り干渉率:+12%》
「なんやこれ……新しい……代償なんか」
うつむいた俺の前へ、紗世さんがそっと歩いてくる。
「透さん……ありがとう」
「ちゃう。助けてへん。
ただ――関わっただけや」
風が吹く。
夜の匂いの中、彼女は笑わずに言った。
「じゃあ……私にも、関わらせてください」
俺は答えを返さず、ふらつく足で夜道を歩き出した。
(……勝手にしてくれ)
スマホの光が、ポケットの中でまだ微かに震えていた。
――《第1部 完》
これにて第1部終了となります。
ご愛読ありがとうございました。
第2部は順次、執筆していこうと思います。




