第4話 残寿、あと3時間
深夜二時五十分。
影がざわつく時間。
壁に寄りかかった青年は、頭を抱えたまま震えていた。
その影が、地面に濃く、濃く滲み出している。
(またか……)
胸の奥を、黒い指がつかむ。
皮膚の内側から爪を立てられるような感覚。
――ビキィン!
スマホが勝手に起動する。
《強制発動準備中》
《対象:自己犠牲型影・侵蝕率75%》
《残寿▼20%/自律性危機レベル3》
「…嘘やろ……っ!」
呼吸が荒れる。
額が冷たい汗で濡れて、視界が揺らぐ。
逃げたい。
でも、逃げられへん。
逃がしてくれへん。
膝が笑って、足首から痺れが走る。
影の縁が、俺の足に巻き付くように揺れた。
「空木くんっ!!」
紗世さんの声。
振り向くと、彼女は震える手で、祓い布を構えていた。
怖がっている。
けれど逃げずに、俺を助けようとしてくれている。
……やめろ。
それが、
一番、俺を殺す。
「感謝すんな!余計や!!」
その瞬間、影がビクッと怯む。
まるで「善意」に牙を剥かれた獣が、後ずさるみたいに。
紗世さんの顔が凍る。
ショックで、手が止まる。
(あ、やってもうた……)
吐き気に似た罪悪感。
でも躊躇してる余裕なんか無い。
影の足音が、コツ、コツ、と近づいてくる。
青年の影じゃない。
幼い誰かの影が、その後ろに――
「置いてかんといて」
声が、重なって聞こえた。
青年の声と、
過去の、あの小さな声が。
胸の奥で、何かがちぎれた。
「くそ……」
スマホが脈打つみたいに震えた。
《残寿▼40%》
《自己修復機能:停止》
《精神侵蝕:警告》
膝が折れる。
視界の端から黒い斑点が滲む。
(違う。暴走してるんじゃない。
……俺が、まだ逃げようとしてる)
影が顔の高さまでせり上がる。
青年の怯えが、俺の昔の怯えと重なって見えた。
「助けてください……」
青年が泣きながら俺を見上げる。
俺は――目をそらしたくなる。
(また同じ失敗するんか?)
妹の姿が、影越しにちらついた。
伸ばしたはずの手を、あの日、途中で止めた俺。
「……もうええやろ」
歯を食いしばる。
影が俺へ飛びついた瞬間――
ドシュッ!!
俺の手が、青年の胸を鷲掴みにしていた。
温度のない、記憶の欠片が噴き出す。
「やめて……やめて……助けて……!」
「行かんといて……置いてかんといて!」
「俺は、生きたかったんやああああああ!」
影と、
俺の後悔が、絡み合って叫んだ。
視界が真っ黒になった。
耳鳴りだけが残る。
……
……
真っ白な天井。
俺はうつ伏せに倒れていた。
身体が重い。指の感覚がない。
スマホが転がっている。
《残寿:02:30:00》
《感情加重負荷:+50%》
《神経ダメージ:軽度》
《共鳴反射:再発可能性 高》
「……まだ、減るんかよ」
笑えへん。
呼吸するだけで胸が軋む。
紗世さんが、俺の背中に触れた。
「空木くん……ありがとう。
……ありがとう、ありがとう……!」
やめろ。
喉まで出かかったが、声にできなかった。
布越しに伝わる温もりが、
刃より痛かった。
青年の影は消えた。
けど――
足元に、小さな黒い指跡が残っている。
形を持った「影」。
俺の背中から離れてくれない負債。
(まだ終わらん、てことか)
夜は、まだ長い。




