第八章
人影は、夕暮れになるとやけに長くなる。
誰かが隣に立っているような錯覚さえ覚える。
それはただの影なのに、不思議と“自分の半身”のように見えた。
その日、仕事帰りにバスを降りたあと、いつもは通らない裏通りを歩いた。
特に理由はなかった。ただ、風が少し涼しくて、夕陽が道の角を黄金色に染めていて、自然と足がそちらへ向いただけだった。
古い写真館の前で、足が止まった。
ガラス越しに、中で並んで写真を撮られている二人が見えた。
まだ小学生くらいの弟と、少し年上の姉だろうか。
二人はフォーマルな服を着て、肩を並べてカメラのほうを見つめていた。
姉は微笑んでいた。
弟の肩にそっと手を置き、何かを小さくささやいたのか、弟も照れたように笑った。
フラッシュが光り、その一瞬だけ、ガラス越しにその姿がくっきりと映った。
俺は思わず目をそらした。
けれど、目に焼き付いたまま、あの構図が脳裏を離れない。
あの角度、あの距離感、あの穏やかな空気――
まるで、自分と灯花だった。
七五三の帰り、写真館で撮った最後の家族写真。
母の手に引かれ、緊張しながらスーツに身を包んだ俺と、赤い着物を着て笑っていた灯花。
あのときも、彼女は俺の袖を引っ張って「ちゃんと笑って」と言っていた。
“家族”という言葉に、いまの自分はどんな表情を浮かべればいいのだろう。
笑えばいいのか。悲しめばいいのか。
それとも、何も感じないふりをすべきなのか。
その夜、珍しく眠れなかった。
天井のシミを見つめながら、灯花が言った最後の言葉を何度も反芻した。
「幸せになるよ、お兄ちゃん。だから、お兄ちゃんも、どこかで、ちゃんと――生きてて」
「ちゃんと生きる」
それが、どういうことなのか、まだ俺にはわからない。
けれど、名前を変えて、過去を封印して、それでもこうして明日も目を覚まそうとしている。
それが“生きる”ということの、最低限の形なのかもしれなかった。
翌日、仕事の帰りに、また写真館の前を通った。
もう誰もいなかった。
けれどガラスに映る自分の姿は、昨日と少し違って見えた。
“影法師”という言葉が脳裏をよぎった。
誰かの影のように、形だけを引きずって生きている自分。
それでも――影があるということは、光がどこかにあるということだ。
その光は、まだ遠くて、名前すらわからない。
けれど、かつて“兄”であった自分が、誰かを照らしていたことがあるのなら。
今度は、自分自身を照らす光を、探す番なのかもしれない。
町の外れにある川べりまで歩いた。
夕陽が水面をオレンジ色に染めていた。
風が、名前を呼ぶように頬を撫でた。
俺は静かに立ち尽くした。
その影が、確かに自分の足元にあった。
長く、揺らぎながら、それでも確かに存在していた。
そして、ふと思った。
あの影の先には、灯花もまた、どこかで同じように自分の影と向き合っているのだろうか、と。
自分を信じ、親を捨ててまで歩んだ道の先で、彼女は笑っていられるだろうか。
問いの答えは、風の中に消えていった。
俺は、影法師として――それでも歩き出す。