表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影法師  作者: 柳 凪央
8/19

第七章

名前を捨てることは、記憶を水に流すことに似ていた。

けれど完全には消えない。

岸辺に打ち寄せる波のように、忘れたはずの記憶が、ある瞬間にふと蘇る。

そして、それでもなお、前に進もうとする。


東京を出たのは、灯花と別れた翌週だった。

晴れた空がまぶしい春の終わり。

俺は静岡の小さな町へ向かった。駅前には小さなスーパーと古びた理髪店、それからシャッターの下りた商店街が並ぶだけ。

夕方になれば町はまるで眠るように静かになり、夜になれば、月の声すら聞こえるような静寂が訪れた。


「人が少ないところがいい」

そう頼んだ支援団体の担当者は、少し眉をひそめながらも、手配してくれた。

条件は、名前を変えること、過去を誰にも話さないこと。

“再出発”という言葉の裏には、“前の人生を殺せ”という意味があることを、そのとき知った。


新しい名前は「雨宮悠」。

特に意味はないが、口にしてみると不思議と体になじんだ。

本名はもう、どこにも存在しない。

戸籍を抜け、戸籍を入れ直す――

それはまるで、社会の目から完全に消える手続きだった。


「雨宮さん、お勤めご苦労様です」

隣の部屋に住むおばあさんが、そう声をかけてきた。

俺は曖昧に笑って会釈する。

ここでは「過去」はない。「今」がすべてだ。


職場は東京の街外れにある倉庫会社。

フォークリフトの資格を取らせてもらい、荷物を運ぶ仕事に就いた。

黙々と体を動かす作業は、思考を止めるのにちょうどよかった。

一日の終わり、指先にかすかな痛みと汗のにおいが染み込む。

それが“今日生きた証拠”だと、そう思えた。


誰も俺に詮索をしない。

誰も俺の目を見て、「あの事件の」と囁かない。

けれど、その穏やかな日々の中に、時折ひどく息苦しさを感じる瞬間がある。


ふとした瞬間――

スーパーのレジで、隣に並ぶ母親と子供を見たとき。

夜のコンビニで、若者たちが笑い合っている声を聞いたとき。

雨上がりの空に、灯花と見た虹を思い出したとき。


「雨宮悠」には、あの記憶はない。

それでも俺は、忘れることができなかった。


灯花からの連絡は、ない。

当然だ。

俺から、すべてを断ったのだから。

最後に残してきたメッセージには、“幸せになってほしい”とだけ書いた。

嘘のように短い言葉だったが、それだけが俺にできるすべてだった。


ときどき夢を見る。

子供の頃、灯花と手をつないで歩いた帰り道。

大学の卒業式で、家族で撮った写真。

どれももう手に入らない、二度と戻れない記憶たち。


夢の中では、俺はまだ“兄”だった。

目覚めたとき、胸の奥がじんわりと痛んで、しばらく動けなくなる。


それでも生きていく。

黙って、目立たず、ただひとりの“何者でもない人間”として。


ある日、昼休みに休憩室で缶コーヒーを飲んでいると、ラジオが流れた。

“家族の絆について”というテーマで語るDJの言葉が、何の前触れもなく胸に突き刺さった。


「家族って、形じゃないんですよね。血のつながりだけでもないし、一緒にいるだけでもない。

“自分を信じてくれる人”――そういう存在のこと、なのかもしれません」


俺は缶コーヒーを強く握りしめた。

アルミの薄い表面が、ぎゅう、と音を立ててへこむ。


あのとき灯花が言っていた。


「お兄ちゃんのこと、ずっと信じてるよ」


その言葉は今も胸にあって、なのに、俺はその灯火から目を背けて、逃げた。


「……これでよかったんだよな」


誰にともなく、そう呟いた。

けれど返ってくるのは、ラジオの音と、誰かの足音だけだった。


生きるってことは、選び続けることだ。

何かを捨てて、何かを守ることだ。

けれど選んだその先で、自分がいったい何者なのか、わからなくなることもある。


俺は「雨宮悠」として、今日もこの町で働いている。

名前は変わった。

過去も失った。

だけど、誰かの幸せのために、“いなくなることを選んだ自分”だけは、忘れたくなかった。


たとえ誰の記憶にも残らなくても――

俺は、俺を知っている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ