第七章
名前を捨てることは、記憶を水に流すことに似ていた。
けれど完全には消えない。
岸辺に打ち寄せる波のように、忘れたはずの記憶が、ある瞬間にふと蘇る。
そして、それでもなお、前に進もうとする。
東京を出たのは、灯花と別れた翌週だった。
晴れた空がまぶしい春の終わり。
俺は静岡の小さな町へ向かった。駅前には小さなスーパーと古びた理髪店、それからシャッターの下りた商店街が並ぶだけ。
夕方になれば町はまるで眠るように静かになり、夜になれば、月の声すら聞こえるような静寂が訪れた。
「人が少ないところがいい」
そう頼んだ支援団体の担当者は、少し眉をひそめながらも、手配してくれた。
条件は、名前を変えること、過去を誰にも話さないこと。
“再出発”という言葉の裏には、“前の人生を殺せ”という意味があることを、そのとき知った。
新しい名前は「雨宮悠」。
特に意味はないが、口にしてみると不思議と体になじんだ。
本名はもう、どこにも存在しない。
戸籍を抜け、戸籍を入れ直す――
それはまるで、社会の目から完全に消える手続きだった。
「雨宮さん、お勤めご苦労様です」
隣の部屋に住むおばあさんが、そう声をかけてきた。
俺は曖昧に笑って会釈する。
ここでは「過去」はない。「今」がすべてだ。
職場は東京の街外れにある倉庫会社。
フォークリフトの資格を取らせてもらい、荷物を運ぶ仕事に就いた。
黙々と体を動かす作業は、思考を止めるのにちょうどよかった。
一日の終わり、指先にかすかな痛みと汗のにおいが染み込む。
それが“今日生きた証拠”だと、そう思えた。
誰も俺に詮索をしない。
誰も俺の目を見て、「あの事件の」と囁かない。
けれど、その穏やかな日々の中に、時折ひどく息苦しさを感じる瞬間がある。
ふとした瞬間――
スーパーのレジで、隣に並ぶ母親と子供を見たとき。
夜のコンビニで、若者たちが笑い合っている声を聞いたとき。
雨上がりの空に、灯花と見た虹を思い出したとき。
「雨宮悠」には、あの記憶はない。
それでも俺は、忘れることができなかった。
灯花からの連絡は、ない。
当然だ。
俺から、すべてを断ったのだから。
最後に残してきたメッセージには、“幸せになってほしい”とだけ書いた。
嘘のように短い言葉だったが、それだけが俺にできるすべてだった。
ときどき夢を見る。
子供の頃、灯花と手をつないで歩いた帰り道。
大学の卒業式で、家族で撮った写真。
どれももう手に入らない、二度と戻れない記憶たち。
夢の中では、俺はまだ“兄”だった。
目覚めたとき、胸の奥がじんわりと痛んで、しばらく動けなくなる。
それでも生きていく。
黙って、目立たず、ただひとりの“何者でもない人間”として。
ある日、昼休みに休憩室で缶コーヒーを飲んでいると、ラジオが流れた。
“家族の絆について”というテーマで語るDJの言葉が、何の前触れもなく胸に突き刺さった。
「家族って、形じゃないんですよね。血のつながりだけでもないし、一緒にいるだけでもない。
“自分を信じてくれる人”――そういう存在のこと、なのかもしれません」
俺は缶コーヒーを強く握りしめた。
アルミの薄い表面が、ぎゅう、と音を立ててへこむ。
あのとき灯花が言っていた。
「お兄ちゃんのこと、ずっと信じてるよ」
その言葉は今も胸にあって、なのに、俺はその灯火から目を背けて、逃げた。
「……これでよかったんだよな」
誰にともなく、そう呟いた。
けれど返ってくるのは、ラジオの音と、誰かの足音だけだった。
生きるってことは、選び続けることだ。
何かを捨てて、何かを守ることだ。
けれど選んだその先で、自分がいったい何者なのか、わからなくなることもある。
俺は「雨宮悠」として、今日もこの町で働いている。
名前は変わった。
過去も失った。
だけど、誰かの幸せのために、“いなくなることを選んだ自分”だけは、忘れたくなかった。
たとえ誰の記憶にも残らなくても――
俺は、俺を知っている。