第六章
灯花から連絡が来たのは、カフェで祐樹と別れてから二日後の夜だった。
短い文章だった。
「お兄ちゃん、いま少しだけ時間もらえる?」
「話したいことがあるんだ」
そのメッセージを見たとき、胸の奥で何かが音を立てて崩れるような感覚があった。
もしかしたら、彼女も決断したのかもしれない。
両親を捨て、未来を選んだのか。
いや、違う。
本当は、彼女が何を選んでも――
俺には、もうその選択を見守ることしかできないのだと、わかっていた。
指定された場所は、あの河川敷だった。
子供の頃によく来た。夏には虫取り、秋には風に吹かれながら落ち葉を集めた。
どれも、俺たち兄妹だけの季節だった。
夜風が冷たかった。
街の喧騒から少し離れたこの場所には、遠くで響く電車の音と、草の間をすり抜ける風の音しかなかった。
「……お兄ちゃん」
その声に振り返ると、灯花が立っていた。
白いワンピースに、黒のカーディガン。
その姿は、どこか昔のままだった。
けれど、表情には幼さよりも、決意が滲んでいた。
「……来てくれて、ありがとう」
俺は黙って頷いた。
何も言わなくても、彼女は続けた。
「……結婚、するって決めたの。お兄ちゃんにちゃんと伝えたくて」
「……そうか」
「パパとママがいたら、違ったのかなって、何度も考えた。
でも今はもう、戻れない。
祐樹くんのお父さんもお母さんも、いろいろ言ってた。
“あなたの兄が犯罪者である限り、我が家とは縁を持たせない”って」
風が吹いた。
その言葉はもう何度も聞いたはずなのに、今も胸の奥に突き刺さる。
汚名は、俺だけのものではない。
灯花の未来までも濁らせている。
「だから……私は決めたの。もう親と絶縁して、祐樹くんと生きていくって。
それでも怖くない。私は、自分で決めた道を歩きたい」
「……立派になったな」
そう言ったとき、自分の声がほんのわずかに震えているのを感じた。
「だけど……」
灯花が言葉を切った。
「お兄ちゃんも……自分のこと、少しは信じてくれてる?」
その言葉に、息が詰まった。
「私は……お兄ちゃんが犯人なんかじゃないって、ずっと信じてるよ。
あの夜、お兄ちゃんが泣きながら“何もしてない”って言った顔……ずっと覚えてるもん」
「……ありがとう」
それだけ言うのがやっとだった。
灯花の言葉は、まるで罪の雨の中に差し込む一条の光のようで、ただ眩しかった。
だけど――
「灯花」
俺は口を開いた。
「……お前の将来から、俺は、いなくなろうと思う」
彼女の目が一瞬、揺れた。
「何言って――」
「俺がいれば、また誰かに何か言われる。
“犯罪者の兄がいる女”、そう呼ばれる。
子どもが生まれたって、“犯罪者の叔父”だなんて囁かれるかもしれない。
そんな人生を、お前に歩かせたくない」
「でも――!」
「いいんだ。もう、十分支えてもらった。
灯花がいたから、生きてこられた。
だからこそ、手放さなきゃいけない。
……俺の“無実”より、お前の“幸せ”の方が、大事だ」
灯花は俯いた。
何も言わず、肩がわずかに震えていた。
「だから、俺から連絡することはもうない。
戸籍も……変えるつもりだ。俺はもう、"涼介"じゃなくなる」
風が吹き抜けた。
さっきよりも冷たく、けれど清らかだった。
灯花が顔を上げたとき、目には涙が滲んでいた。
「ずるいよ……そんなの……」
「……ごめん」
それ以上、言葉は出なかった。
やがて彼女は、ゆっくりと歩み寄り、俺の胸に顔を埋めた。
小さな背中が、静かに震えていた。
その温もりが、胸に焼きついて、離れなかった。
それが、俺たち兄妹の「さようなら」だった。
言葉にはならない、けれど確かに交わされた、最も深い別れ。
祝福がなかったとしても、それは、愛の形のひとつだったのだ。