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影法師  作者: 柳 凪央
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第五章

駅前のカフェは、無機質な白い光に満ちていた。

窓際の席に座っていると、外を歩く人々のシルエットが、ぼんやりとガラス越しに映り込む。

自分の姿もその一部になって、時折消えては、また浮かび上がった。


待ち合わせの時間より少し早く着いた。

落ち着かないまま水を口に含み、何度か深呼吸をした。

妹の婚約者に会うのは、これが初めてだった。


数分後、カラン、と扉が開いた音がして、彼が入ってきた。


高瀬祐樹。

スーツの上着を片手に、整えられた黒髪に真面目そうな眼差し。

写真で見た印象に、嘘はなかった。

けれど、実物の彼はそれ以上に、どこか“曇って”いた。

笑顔は丁寧なのに、目の奥だけが少し緊張している。

俺の顔を見た瞬間、その目がわずかに揺れた。


「はじめまして、涼介さん。……今日は、お時間ありがとうございます」


「……こちらこそ」


握手はなかった。

俺が差し出さなかったわけでも、彼が避けたわけでもない。

ただ、空気がそうさせた。


座って、注文を済ませ、しばらく沈黙が流れた。

相手が何か話し出すのを待つように、水のグラスの氷が静かに音を立てていた。


「灯花さんから……すべて聞いています。事件のこと、裁判のこと。

本当に、大変でしたね」


その言葉が、どこまで本心なのかはわからなかった。

でも少なくとも、表面だけの言葉ではないと思った。


「俺は……彼女の意思を尊重したいと思っています。

彼女があなたを信じて、ずっと支えてきた。

その重さを、軽く扱うつもりはありません」


俺は目を伏せた。

言葉を選んでいるつもりだったのだろう。

誠実な人間なのだと感じた。

だからこそ、彼の口から続いた言葉が、より重たく響いた。


「ですが……僕の両親は、そうではありませんでした」


そこから先の言葉は、予想できていた。


「彼らは……いまだに、“過去がついてくる”ことを気にしています。

彼女がどれだけ頑張っても、結婚相手の兄が“前科持ち”であることを、どうしても拭いきれないと。

僕がいくら説明しても、信じてもらえませんでした」


その瞬間、テーブルの下で拳がゆっくり握られた。


「もちろん、僕は彼女を守るつもりです。

でも、家族というものの重みを前に、やはり……限界も感じました。

彼女も、ついに“縁を切ってでも結婚する”とまで言い出して……」


「……いいんじゃないか。それで」


俺の声は、思っていたよりも冷たかった。

彼は少し驚いたように目を見開いた。


「血のつながりだけが家族じゃない。

俺よりも、君が……灯花のそばにいてやれるなら、それでいいと思う」


「でも……僕は、あなたともきちんと向き合いたい。

もし許されるなら、あなたのことをもっと知りたいと思ってます。

誤解を解くためじゃなくて、彼女の兄として……彼女を形づくった“存在”として」


その言葉に、ふと胸が締めつけられた。

誤解ではなく、存在。

その視点で俺を見ようとしている彼の言葉に、俺は思いのほか動揺していた。


「彼女があなたのことを“誰より優しくて、でも不器用で、だから一人で背負ってしまう人だ”って言ってました」


「……そんな大したもんじゃない」


「灯花さんは……今でも、兄として、あなたを誇りに思っているそうです。

事件があっても、裁判があっても、世間がどう言おうと、彼女の中では変わらなかった」


その瞬間、背中がわずかに震えた。

自分ではもう持っていないと思っていたものが、まだ妹の中に“形”として残っている。

その事実が、どうしようもなく痛かった。


「……でも、彼女の未来には……俺は、邪魔かもしれない」


「それは……彼女が決めることだと思います。

でも、彼女の未来からあなたがいなくなるなら、それは彼女にとって“祝福”とは言えない。

僕は、そう思います」


そう言って、彼は立ち上がった。


「また、ちゃんと……話させてください。

今日は、ありがとうございました」


去っていく背中を見送ったあとも、俺はしばらく席を離れられなかった。

氷の溶けたグラスの中に、自分の姿が歪んで映っていた。


何を信じて、何を手放すべきなのか。

「祝福」が何かも、「邪魔になる」という言葉の意味も、まだわからなかった。


ただ一つ確かだったのは、自分の存在が誰かの“重荷”になる可能性を、俺自身が最も恐れている、ということだけだった。


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殺人の冤罪。 なかなか重いテーマですが、 序盤から突き放したような淡々とした文章に引き込まれました。 果たして涼介の冤罪は完全に晴れるのか。 あるいはそれは大事じゃないのかもしれない。 色んな意味で先…
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