第三章
自分が犯していない罪を、他人に説明するのは難しい。
ましてや、それが「殺人」ともなれば、なおさらだった。
どれだけ言葉を尽くしても、疑念はぬぐえない。
世間が求めているのは、真実ではなく“納得”なのだと、俺は思い知った。
刑務所にいた五年間で、何度も自分に問いかけた。
「どうして、あのとき黙ってしまったのか」と。
だが、どれだけ考えても、当時の俺にはその沈黙以外を選べなかった気がする。
事件は、大学の卒業間際に起きた。
学内でよく顔を合わせていた同じゼミの女子学生が、大学近くの河川敷で遺体となって発見された。
首を絞められ、抵抗の跡も残っていた。
警察が目をつけたのは、彼女と最後に言い争いをしていた俺だった。
本当は、彼女に借りた資料の返却について少し口論になっただけだった。
些細な行き違い。すぐに謝って終わったやりとりだ。
だが、そのやりとりを目撃していた者たちが、「険悪だった」と証言し、
彼女のスマホの履歴には、最後に俺からのメッセージだけが残っていた。
「会って話がしたい。今夜、時間あるか?」
それは、レポートの一件について、誤解を解きたくて送ったものだった。
けれど、状況証拠の積み重ねは、俺を容疑者に変えた。
目撃情報も、アリバイも、曖昧だった。
俺が彼女と会ったのかどうかさえ、最後まで証明できなかった。
裁判では一貫して無罪を主張した。
だが、心証は悪かった。
若くして自己主張の強い学生、感情的な言動、そして「最後に会おうとした男」というレッテル。
決め手になる証拠はなかったが、「限りなく黒に近いグレー」として、懲役十年の実刑判決が下された。
結果として、上告は通らず、俺は服役した。
五年が経ち、証拠不十分による再審の申し立てが認められたが、それは決して「潔白の証明」ではなかった。
単に「疑わしきは罰せず」の原則に戻っただけだ。
この国では、起訴された時点で八割は有罪になる。
残り二割に入ることがどれだけ異常か、そのことが、世間の信頼を逆に削っていた。
出所後、大学の同期はほとんど連絡が取れなかった。
アドレスも変わり、電話も通じず、誰も“俺のこと”を知らないような顔をしていた。
いや、もしかしたら──
俺が“自分自身”を見捨ててしまったのかもしれない。
もう誰にも、あの頃の自分を説明できない。
いや、説明したところで信じてもらえるわけがない。
冤罪だったと口にするたび、それが自己弁護のように聞こえることに、俺自身が耐えられなくなっていった。
名前を変えたいと思った。
過去を持たない人間として生きたかった。
だがそれは現実的ではない。
自分の足跡は、どこまでも俺に付きまとってくる。
ネットの片隅に刻まれた“あの事件の容疑者の名前”は、検索すれば一発で出てくる。
何年経とうと、それは消えない。
誰かの記憶の中で、俺はずっと「殺人犯」だ。
一度だけ、大学の元教授に連絡を取ってみた。
応答はなかった。
その代わり、翌日に差出人不明の封書がポストに入っていた。
中身は空だった。
紙すら入っていなかった。
──沈黙。
それが彼らなりの答えだったのだろう。
こうして俺の「過去」は、誰からも名付けられることなく、ただ生き続けていた。
形を変え、記号のようになり、人々の心に影を落とす。
妹だけは違った。
彼女だけは、いつも俺を“兄ちゃん”と呼び、
事件の真相を探ろうと無謀にも裁判の記録に目を通し、何度も面会に来てくれた。
それでも、彼女の人生が俺の存在によって脅かされる未来が、怖かった。
ある夜、アパートの薄暗い天井を見ながら、ふと思った。
このまま自分がいなければ、彼女はもっと「まともな幸せ」を手にできたのではないか。
俺の存在が、彼女の婚約者の両親にとって「汚点」であるならば、
俺がいないという“現実”をつくることが、彼女にとっての救いになるのではないか。
それが、「贖罪」なのかもしれないと──
ふと思ってしまった。
窓の外では、雨が降り出していた。
風は止んでいたのに、静かに、しとしとと。
その音だけが、現実だった。
それ以外のものは、すべて夢か幻のように思えた。
このまま誰にも会わずに、誰とも関わらずに、
名前も顔も捨てて生きていくことができたなら。
それは果たして“自由”なのか、“逃避”なのか。
それすら、俺にはわからなかった。