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影法師  作者: 柳 凪央
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第二章

社会復帰──そう言葉にすれば軽い。

だが実際には、それがどれだけ難しいかを俺は身をもって知った。


最初の数日は、やるべきことが山ほどあった。

保険証の再発行、住民票の手続き、銀行口座の凍結解除。

それらの手続きの窓口で俺の身分証が提示されるたびに、目の奥に浮かぶものがあった。


見下すわけでも、あからさまに警戒するわけでもない。

ただ、「何かを知っている」顔だ。

どこかで名前を検索されたのかもしれない。

その視線に、言葉は要らなかった。


『ああ、この人は、そういう過去のある人なんだ』──

それが伝わってくる。

沈黙こそが、最大の拒絶だった。


住まいはとりあえず、古いアパートの一室を借りた。

六畳一間、風呂なし。共同トイレ。

日当たりは悪く、壁紙は黄ばんでいて、隣人の足音は天井から降ってきた。

けれど、屋根があるだけで奇跡だった。


仕事を探そうと職安に通ったが、履歴書の「空白の五年」に何を書いてもウソだった。

正直に書けば落とされる。

嘘をつけば、それはまた別の罪のような気がして、ペンが進まなかった。


一日が、やけに長く感じた。

そして夜は一瞬だった。

眠れないのではない。

眠ると「また朝が来る」ことに、息が詰まった。


アルバイトの面接に三回落ちた。

理由は聞かされなかったが、面接官の目が語っていた。

「あなたに任せられる仕事は、ありません」と。


そんなある日、久しぶりに妹から連絡が来た。

「お兄ちゃん、今日ちょっとだけ会えない?」

彼女の声には、少しだけ明るさが戻っていた。


待ち合わせた喫茶店は、大学時代にたまに行っていた静かな店だった。

変わらないBGM、変わらない椅子の軋み。

けれど俺たちの関係は、あの頃とは変わっていた。


彼女の指に、小さな婚約指輪が光っていた。


「この前、彼の親と正式に絶縁したよ」

言葉の軽さと、瞳の重さの落差に、何も返せなかった。


「大丈夫。二人でやっていくって決めたから」


強い笑顔だった。

俺には、もうその強さがない。


「……俺がいなければ、そんな選択をしなくて済んだかもしれない」


「ちがうよ。兄ちゃんがいたから、私はずっと生きてこれた」


「でも、これからの“未来”にとっては……」


「やめて。兄ちゃんはもう“過去”じゃない。ちゃんとここにいるんだよ」


その言葉に、何度救われたことか。

けれど俺の中で、何かが決定的に欠けていた。


妹が幸せになるたび、俺の罪の輪郭が濃くなる気がした。

冤罪だと信じてくれた彼女にすら、俺の存在が“負担”になる未来が見えた。


彼女の幸せを願うことと、俺がそばにいることが、もう両立しない気がしていた。


外は、もう夜になっていた。

店を出ると、冷たい風がコートの中に入り込んできた。

空は、無数の光で滲んでいる。

けれどその一つも、俺には届かなかった。


心が、檻の中に戻っていくのがわかった。

塀も鉄条網もない。

ただ、俺の中にまだ残る“影”だけが、ゆっくりと広がっていた。


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