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影法師  作者: 柳 凪央
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第一章

久しぶりに吸ったコンビニのコーヒーは、思ったよりも薄くて、甘ったるかった。

湯気は立っていない。紙コップの手触りだけが、やけに現実味を帯びていた。


店の外に出ると、夕陽が低い位置で街を染めていた。

オレンジでも赤でもなく、どこか煤けたような鈍い色だった。

東京の空は、記憶よりも狭くて、空気は匂いすら変わっていた。


妹に連絡したのは、出所の当日だった。

前もって言えば駅まで迎えに来ると言い出しかねない性格だ。

あいつにはもう、あいつ自身の生活がある。下手に心配をかけたくなかった。


でも、メッセージを送ってから二時間後、妹は本当に来た。

走ってきたのか、肩で息をしていた。

そして、何も言わず、いきなり俺に抱きついた。


「……ばか」


震える声が耳元でそう呟いた。


立っているのがやっとだった。

その小さな体から、どうしてこんなに重たいものが伝わってくるのか不思議だった。

俺の中に溜まりに溜まっていた何かが、少しずつ、崩れていく音がした。


「迎えに来るなって言ったのに」


「言われてない」


「言わなくてもわかるだろ」


「わかってたよ。だから来たの」


兄妹なんてものは、たぶん、血よりも空気でつながっている。

長い年月を隔てても、同じ季節の匂いを覚えている。

この五年間、あいつが何を想い、何を見てきたのか──俺にはわからない。

でも、信じてくれていたことだけは知っていた。


「……顔が、やつれてるね。っていうか、怖い。前よりも」


「お前の目の下のクマの方が怖いよ」


「兄ちゃんのせいだよ。ずっと眠れなかった」


そう言って泣くわけでもなく、笑うわけでもなく、俺の妹はそのまま俺の横に立った。

何でもない顔をして、それがすべてを語っていた。


5年という時間は、俺にとって「停止」だった。

だけど、外にいた人間には「継続」だった。

時間は前に進み、季節は巡り、人は出会い、傷つき、歩き続ける。

俺だけが、切り取られたようにその場に置き去りにされていた。


「仕事とか、決まってるの?」


「いや、何も」


「住むとこは?」


「これから探す」


「……じゃあ、うち来なよ。一緒に住もう」


「バカ言うな」


「何が?」


「お前、もう俺のせいで充分苦労したろ」


「それ、兄ちゃんが決めること?」


妹の瞳は、まっすぐだった。

時間が何を奪っても、この目だけは変わらない。

俺が壊れかけたとき、この目が何度も引き戻してくれた。


「ねえ、兄ちゃん。あたし、結婚するんだ」


それはあまりに唐突だった。

頭に入ってこない言葉だった。


「来年。春」


「……そうか」


「でも……ちょっとだけ問題があってさ」


妹は言いにくそうに笑った。

その笑顔には、何か小さな影が差していた。


「相手のお父さんとお母さん、あたしのことは気に入ってくれてたんだけど……兄ちゃんのことと、あたしに親がいないってことが気に入らないみたいで」


俺は何も言えなかった。

言葉は、選べば選ぶほど出てこない。

出てくるのは、ただ一つの事実だけだ──俺は、彼女の足を引っ張っている。


「だから、絶縁する。そんな親、いらない」


「やめとけ」


「決めたこと」


「それでも、親だろ」


「兄ちゃんが、私にしてくれたこと、誰よりもわかってる。あの人たちが何を言おうと、兄ちゃんはあたしの家族だよ。私の家族は、兄ちゃんだけだもん」


何も言えなかった。

胸の奥に、小さな炎のようなものが灯った気がした。

でも、それは同時に──冷たい風に吹かれて消えそうでもあった。


妹の決意は強かった。

それだけが、あの日の俺を少しだけ前に進ませた。

だが、どこかでわかっていた。

このままでは、きっといつかまた、俺があいつを傷つける。


だから俺は、何も言わずにうなずいた。

この時はまだ──

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