第十七章
四月の風が、冬の名残を抱いて吹いていた。
どこかまだ冷たく、けれど確実に季節は進んでいた。街路樹の枝には、小さな新芽が顔を覗かせている。駅前の喧騒のなか、俺はひとり歩いていた。
妹の結婚式は、明日だった。
行くかどうか、ギリギリまで迷っていた。でも、招待状に添えられていた一言――「私の人生の始まりに、兄ちゃんがいなかったら意味がない」――それが、最後の背中を押した。
式場は都内の小さな教会だった。大きくはないが、陽の光がよく入る、美しい場所だという。
前日、妹から「来てくれるんだね」と電話があった。嬉しそうな声だった。俺はそれに「行く」とだけ返した。
――その日は、初めてスーツに袖を通した。
刑務所に入って以来、礼服を着ることはなかった。ネクタイの締め方をすっかり忘れていて、何度も鏡の前でやり直した。
服装が整っても、心は整わなかった。
“兄として出席する”ことと、“過去を背負って立つ”ことは、まるで別の意味を持つ。
だが、それでも、行くと決めたのだ。
翌朝、式場に着いた俺を、妹が待っていた。白いドレス姿。目元にうっすらと涙の跡が見えた。
「兄ちゃん、ありがとう……本当に来てくれて」
「……お前が呼んだからな」
言葉は短かったが、それで十分だった。俺たちは言葉のいらない時間を、確かに共有していた。
式は静かに、温かく進んだ。
参列者の中には、ぎこちない視線を向ける者もいた。けれどそれは、予想の範囲内だった。俺はただ、妹の背中を見つめていた。
あの日、刑事に手錠をかけられた瞬間、彼女は泣き叫びながら「兄ちゃんはやってない!」と叫んだ。その声は、今も耳の奥に残っている。
何年経っても、消えない声。
でも、今日は違う。
彼女は前を向き、新しい家族のもとへ歩き出している。
「……行ってこい」
そう小さく呟いた瞬間、心のなかで何かがほどけていった。
式が終わると、妹がそっと俺の腕を引いた。
「兄ちゃん、紹介したい人がいるの。こっち」
連れて行かれた先で、絶縁した婚約者の両親が待っていた。最初、母親の目がわずかに揺れた。でも、彼女は一礼してからこう言った。
「……お兄さん。息子からずっと話は聞いていました。いろいろな思いがあったけれど、今日、あなたがこうして来てくれたこと、それだけで十分です」
短い言葉だった。
でも、その言葉が、どれほどの重さと時間をかけて生まれたものか、俺にはわかる気がした。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。そうすることで、心に残っていた最後の“錆”が、ひとつ剥がれ落ちたような気がした。
帰り際、妹が小さな封筒を渡してきた。
「これ、ちょっとしたお礼。……開けるのは家に帰ってからね」
封筒の中には、写真が入っていた。大学の卒業式の日の写真。俺と妹が笑って並んで写っている。まだ何も知らなかった頃の、まっすぐな笑顔。
そしてもう一枚。
今日の式での、俺の後ろ姿を撮った一枚だった。
光の中で、俺の影が地面に伸びていた。
“影法師”。
あの頃、自分の影は過去だった。切り離せず、纏わりつくように存在していた。
でも、今日の影は違った。
寄り添うように、静かに俺の歩く先に伸びていた。あたかも、新しい道をともに歩いていくかのように。
夜。帰り道。
自販機の前でコーヒーを買い、ふと見上げた空に、淡い星が浮かんでいた。こんな空があることさえ、忘れていた。
人生にやり直しはきかない。過去は変えられない。
だが、歩き直すことはできる。
誰かを思い、誰かに思われながら、自分という“影法師”を連れて。
もう、独りではない。
そう思えた夜、冷たい風がほんの少し、優しく吹いた気がした。
そして俺は歩き出す。
この影と共に、次の春を迎えるために。