第十六章
図書館を出て数日、俺は封筒の中身にまだ触れていなかった。受け取ったときの教授の目が、どこかで見透かしていたような気がしていたからだ。
読みたいのではない。読みたくないのでもない。ただ、「開けるべき時」がまだ来ていない、そんな気がしていた。
朝、雨が降っていた。
カーテン越しに濁った光が部屋を照らしている。コンクリートに落ちる滴の音が、なぜだか耳にやけに残る。音がしみ込むたび、記憶の底に沈んだものが、泡のように浮かび上がってくる。
刑務所で過ごした春は、雨音だけが慰めだった。鉄格子の向こうで咲く桜も、空の色も、俺には届かないものだった。ただ、屋根に叩きつける雨の音だけが、「どこかに世界がある」と教えてくれた。
あれから、もう何年も経ったのに、雨音は変わらない。
――その朝、妹から連絡が入った。
「兄ちゃん、時間ある? ちょっと顔見たいなって思って」
メッセージの文面は、いつもと同じく明るかった。でも、その裏にある何かが、妙に引っかかった。
昼過ぎ、近くの喫茶店で会うことにした。駅前の小さなカフェ。ガラス越しに交差点が見える、どこにでもあるような場所だ。
妹は先に来ていた。カップを手に持ちながら、少しだけ俯いている。
「……久しぶり。元気だった?」
「うん。元気にしてたよ。兄ちゃんは?」
「変わらないさ。相変わらず、静かに生きてる」
他愛もない会話のようで、互いに探り合うような間があった。沈黙のなかで、妹がふとカバンを探る。
「ねえ……これ、見てくれる?」
差し出されたのは、白い封筒。そこには、結婚式の招待状と、手書きのメッセージカードが添えられていた。
《兄ちゃんへ。本当は、もっと晴れやかな気持ちで渡したかった。でも、私はどうしても、兄ちゃんに来てほしい。》
字は少し震えていた。でも、その想いは、まっすぐに伝わってくる。
「親のことも、相手のご両親のことも、まだいろいろあるけど……私、もう決めたんだ。結婚して、ちゃんと自分の道を歩いていくって」
俺はカードを見つめたまま、少しだけ目を閉じた。
「……お前は、強いな」
「ううん。強くなりたかっただけ。兄ちゃんが黙って背負ってきたものに、少しでも追いつきたかっただけ」
そう言って、彼女は笑った。でも、目の奥が濡れているのがわかった。
「ねえ……式、来てくれる?」
迷いがあった。
俺の存在が、彼女の人生に、今後どんな影を落とすか。その重みを知っているからこそ、答えを出せなかった。
けれど、その沈黙に、彼女はそっと言葉を重ねた。
「兄ちゃんがいなかったら、私、ここまでこれなかったよ。だから……見ててほしい。私が、ちゃんと幸せになるところを」
心が少し、揺れた。
——その日、帰り道にふと、図書館の封筒を思い出した。
迷った末、部屋に戻ってからようやく開いた。
中には、原稿用紙が数枚と、一通の手紙が入っていた。
《三浦君へ。これは君が話してくれたことを、私なりにまとめたものだ。もちろん、君の名前はどこにも出さない。だが、これがどこかの誰かの心に届けば、君の歩みが意味を持つ日が来るかもしれない》
原稿には、俺の言葉が、教授の筆で丁寧に綴られていた。
《ある日、世界が突然終わることはない。ただ、ゆっくりと信頼が失われ、孤独が忍び寄ってきて、気がつけば心が寒くなっている。だけど、それでも立ち上がろうとする誰かの姿は、確かに誰かを救うのだと、私は信じたい》
読み終えたとき、胸の奥が妙に静かだった。
外ではまだ、雨が降っていた。
けれど、それはもう、かつての鉄格子の中で聴いた音ではない。今の俺が聴いているのは、現実の街に降る音だ。
過去の記憶ではない。
いま、生きている音だ。
俺は立ち上がった。窓の外に目をやる。濡れた街路樹の下に、小さな傘を差した子どもが立ち止まり、空を見上げていた。
傘の内側に、柔らかな光が差していた。
この街のどこかに、俺の居場所もきっとある。
そう信じて、また一歩を踏み出した。