表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影法師  作者: 柳 凪央
15/19

第十四章

夜が静かに訪れていた。

窓の外には、東京の街を彩る灯が、無数の小さな星のようにきらめいていた。

高層ビルの狭間から覗く夜空には、月も星もなかった。

けれどそれでも、どこか美しいと感じたのは、たぶん俺が“今”を生きているからだ。


灯花が去ったあとの部屋は、変わらず静かだった。

床に直に座って、ぬるくなったコーヒーを飲みながら、俺はゆっくりと時間を過ごしていた。

テレビの音は消していた。

代わりに、風が揺らすカーテンの音や、どこか遠くで鳴く猫の声が、微かに耳に残っていた。


──お兄ちゃん。あのね、私、結婚するの。


あの日の声が、今でも耳にこびりついている。

柔らかく、でも強い意志を帯びた声だった。

それを聞いた瞬間、胸の奥にあった小さな何かが壊れたのを、俺は確かに感じた。

けれど、それは悲しみでも怒りでもなかった。


解放、だった。


灯花はようやく、自分の道を歩ける。

俺という影法師から、離れた場所で。


「影法師」。

刑務所にいた頃、ある受刑者が俺をそう呼んでいた。


「お前は、影法師みてえなもんだな」

「何をしてても、何を考えてても、自分がここにいねえみてえだ」


そのときは、意味がよくわからなかった。

けれど今なら、あの言葉が少しだけわかる気がする。


俺は、自分がこの社会にとっての“影”のような存在であることを知っていた。

無実だと叫んでも、記録に残るのは「殺人罪による実刑五年」。

どんなにまっとうに生きても、その影は消えず、誰かの視線が追いかけてくる。


社会という街の中で、俺のような人間は、いつも壁に貼りついた影として見られる。

透明ではない。見えないわけじゃない。

ただ、「いてはいけないもの」として、見られる。


仕事を探し始めて数週間。

十数件の面接を受けたが、結果は芳しくない。

ある会社では、顔合わせの最中に「前科」について聞かれた。

ないとは言えなかった。

嘘をついても、調べられればすぐにわかる。

そして、その場の空気が凍る瞬間を、何度も味わってきた。


──ああ、まただな。


と、思った。

過去が手綱を引いて、未来を引き留める。

どれだけ前を向こうとしても、影はいつも後ろからついてくる。


ある夜、灯花から小さな手紙が届いた。

封筒の裏には、彼女の新しい苗字が書かれていた。


《元気にしてますか。私たちは、来月新しい部屋に引っ越します。

いままで住んでたところより、ちょっとだけ広い部屋。二人で選びました。

少しずつ、生活にも慣れてきました。

あなたはどうですか。無理していませんか。

寒くなってきたから、風邪には気をつけてください。》


短い、けれど優しさに満ちた言葉たちだった。


手紙を読み終えたあと、ふと気づいた。

彼女の文面には、「お兄ちゃん」という呼び名が、どこにもなかった。


名字が変わったから、ではない。

きっとそれは、彼女なりの“決別”だった。

俺との繋がりを絶とうとする彼女の決意。

俺がそれを望んだのだから、当然の結果だった。


だが、やはり、胸が少しだけ痛んだ。


俺たちは、確かに家族だった。

けれど、それはもう過去の話になる。

いまの彼女には、彼女の守るべきものがある。

そして俺には──俺には、守るべきものがない。


そう思っていた。


その夜、久しぶりに夢を見た。


夢の中で、俺は小さな影を踏んで歩いていた。

それは幼い灯花の影だった。

小さな足、細い背中、笑い声。

でも影は次第に濃くなり、形を変え、俺自身の姿になっていった。


歩いても歩いても、影は消えなかった。

振り返ると、灯花の姿はもうなかった。

ただ、俺自身の影だけが地面に這いつくばっていた。


目を覚ましたとき、涙が頬を濡らしていた。

こんなにも、心は過去に囚われていたのかと、自分に呆れた。


──もう、いいだろう。


言葉に出さず、呟いた。

自分に言い聞かせるように。

誰かに届くことはなくても、それでも言わずにはいられなかった。


数日後、ふと立ち寄った書店の求人チラシに、小さな工場の募集が載っていた。

条件は厳しくなかった。

履歴書も不要。面接は簡単な聞き取りだけ。

場所は少し離れていたが、交通費は出るらしい。


応募してみた。

そして数日後、電話が鳴った。


「来週から来られますか?」


その一言に、少しだけ救われた気がした。

社会のどこかには、影を受け入れてくれる場所があるのかもしれない。

それがどんなに小さな光でも、今の俺には十分だった。


灯花に知らせることはしない。

今さら名乗るつもりもない。

ただ静かに、自分の名を、社会の片隅で積み上げていく。


それが俺の“償い”であり、“再生”なのだと信じて。


夕暮れの中で、自分の影が伸びていた。

長く、細く、地面に張りついて、それでも確かに存在していた。


俺は、もう“影法師”ではない。

影を引きずる過去ではなく、自らの意志で影を従える存在になりたい。

そんな風に思えたことが、なによりの前進だった。


静かな夕日に照らされながら、俺はもう一度、歩き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ