第十四章
夜が静かに訪れていた。
窓の外には、東京の街を彩る灯が、無数の小さな星のようにきらめいていた。
高層ビルの狭間から覗く夜空には、月も星もなかった。
けれどそれでも、どこか美しいと感じたのは、たぶん俺が“今”を生きているからだ。
灯花が去ったあとの部屋は、変わらず静かだった。
床に直に座って、ぬるくなったコーヒーを飲みながら、俺はゆっくりと時間を過ごしていた。
テレビの音は消していた。
代わりに、風が揺らすカーテンの音や、どこか遠くで鳴く猫の声が、微かに耳に残っていた。
──お兄ちゃん。あのね、私、結婚するの。
あの日の声が、今でも耳にこびりついている。
柔らかく、でも強い意志を帯びた声だった。
それを聞いた瞬間、胸の奥にあった小さな何かが壊れたのを、俺は確かに感じた。
けれど、それは悲しみでも怒りでもなかった。
解放、だった。
灯花はようやく、自分の道を歩ける。
俺という影法師から、離れた場所で。
•
「影法師」。
刑務所にいた頃、ある受刑者が俺をそう呼んでいた。
「お前は、影法師みてえなもんだな」
「何をしてても、何を考えてても、自分がここにいねえみてえだ」
そのときは、意味がよくわからなかった。
けれど今なら、あの言葉が少しだけわかる気がする。
俺は、自分がこの社会にとっての“影”のような存在であることを知っていた。
無実だと叫んでも、記録に残るのは「殺人罪による実刑五年」。
どんなにまっとうに生きても、その影は消えず、誰かの視線が追いかけてくる。
社会という街の中で、俺のような人間は、いつも壁に貼りついた影として見られる。
透明ではない。見えないわけじゃない。
ただ、「いてはいけないもの」として、見られる。
仕事を探し始めて数週間。
十数件の面接を受けたが、結果は芳しくない。
ある会社では、顔合わせの最中に「前科」について聞かれた。
ないとは言えなかった。
嘘をついても、調べられればすぐにわかる。
そして、その場の空気が凍る瞬間を、何度も味わってきた。
──ああ、まただな。
と、思った。
過去が手綱を引いて、未来を引き留める。
どれだけ前を向こうとしても、影はいつも後ろからついてくる。
•
ある夜、灯花から小さな手紙が届いた。
封筒の裏には、彼女の新しい苗字が書かれていた。
《元気にしてますか。私たちは、来月新しい部屋に引っ越します。
いままで住んでたところより、ちょっとだけ広い部屋。二人で選びました。
少しずつ、生活にも慣れてきました。
あなたはどうですか。無理していませんか。
寒くなってきたから、風邪には気をつけてください。》
短い、けれど優しさに満ちた言葉たちだった。
手紙を読み終えたあと、ふと気づいた。
彼女の文面には、「お兄ちゃん」という呼び名が、どこにもなかった。
名字が変わったから、ではない。
きっとそれは、彼女なりの“決別”だった。
俺との繋がりを絶とうとする彼女の決意。
俺がそれを望んだのだから、当然の結果だった。
だが、やはり、胸が少しだけ痛んだ。
俺たちは、確かに家族だった。
けれど、それはもう過去の話になる。
いまの彼女には、彼女の守るべきものがある。
そして俺には──俺には、守るべきものがない。
そう思っていた。
•
その夜、久しぶりに夢を見た。
夢の中で、俺は小さな影を踏んで歩いていた。
それは幼い灯花の影だった。
小さな足、細い背中、笑い声。
でも影は次第に濃くなり、形を変え、俺自身の姿になっていった。
歩いても歩いても、影は消えなかった。
振り返ると、灯花の姿はもうなかった。
ただ、俺自身の影だけが地面に這いつくばっていた。
目を覚ましたとき、涙が頬を濡らしていた。
こんなにも、心は過去に囚われていたのかと、自分に呆れた。
──もう、いいだろう。
言葉に出さず、呟いた。
自分に言い聞かせるように。
誰かに届くことはなくても、それでも言わずにはいられなかった。
•
数日後、ふと立ち寄った書店の求人チラシに、小さな工場の募集が載っていた。
条件は厳しくなかった。
履歴書も不要。面接は簡単な聞き取りだけ。
場所は少し離れていたが、交通費は出るらしい。
応募してみた。
そして数日後、電話が鳴った。
「来週から来られますか?」
その一言に、少しだけ救われた気がした。
社会のどこかには、影を受け入れてくれる場所があるのかもしれない。
それがどんなに小さな光でも、今の俺には十分だった。
灯花に知らせることはしない。
今さら名乗るつもりもない。
ただ静かに、自分の名を、社会の片隅で積み上げていく。
それが俺の“償い”であり、“再生”なのだと信じて。
•
夕暮れの中で、自分の影が伸びていた。
長く、細く、地面に張りついて、それでも確かに存在していた。
俺は、もう“影法師”ではない。
影を引きずる過去ではなく、自らの意志で影を従える存在になりたい。
そんな風に思えたことが、なによりの前進だった。
静かな夕日に照らされながら、俺はもう一度、歩き出した。




