(2-3)9年前——王立学院2年生③
それから街角の花屋でディアナが見惚れてしまった花の鉢を買ったり、美味しそうなパンを買ったり。
なぜかロニーが気に入った勉強机と椅子まで買って、とにかく何を買ったかわからないくらい買い物をしてから、公園の屋台で大きな白身魚のフライを頬張った。
甘酸っぱいソースがかかっていて、空腹に染み渡る美味しさだ。あっという間にニコニコ平らげてしまう。
お金はすべて、ロニーがさっさと払ってくれてしまった。
たぶんディアナの手持ちのお金じゃ全然足りないから、アルバイトして少しずつ返すことになるけど。
それもちっとも気にならないくらい、心が軽くて、目に映るすべてが別世界みたいにキラキラ輝いて見える。
歩き疲れてへとへとになって、それでもやっぱり踊り出せそうで。
日が暮れかけてから、ようやくロニーの家に帰った。
「たっのしかったー!わぁ、これ、さっき買った鉢植えのお花だね!?」
がらんと広いエントランスホールの棚を見て、ディアナは歓声を上げた。
「すごい!ねぇ、ロニー!お花があると、急に玄関が華やかになるね。すてき!」
「そうか?」
「ねぇねぇ、中庭にも、何か植えない? 種子から育てるのも楽しいかも!」
「……ふーん?」
ロニーは、一瞬だけ、何かを考え込む顔をして、ほとんど何もない玄関フロアに目を走らせる。
それから、ふわりと口元を上げた。
「あんたが世話するなら、まぁ別にいいけど」
「する!張り切ってする!」
「なら、やってみたら」
それからの夏休み期間、ディアナは中庭の花壇の世話に夢中になった。
咲いている花の株やこれから咲く花の種をたくさん買ってきて、スコップ片手につぎつぎ花壇に植えていく。
「ねぇ、この土、ふかふかしてて状態最高なんだけど!魔法で何かしてくれた?」
「大したことはしてねぇよ。そういうあんたこそ、なんでそんなに土いじりに馴れてんだ?」
ディアナがやることを、ロニーは見よう見まねで手伝ってくれている。
「実家の部屋の出窓でイチゴを育ててたから。昔、兄弟が食べてるのを見て、私も食べてみたい!って思って。台所からひとつくすねて種を採って、そこから育てたの。種を蒔いてから収穫までに、2年かかったけど」
ディアナはくすくす笑う。イチゴ栽培は本当に最高だった。
「お花が白くて可憐だし、実はたくさんなるし甘酸っぱくて美味しいし。種も採れるから、追加の株も育てられるしね。毎年春が楽しみで楽しみでしかたなかった」
「その種から育てたイチゴの株って、今はどうなってんの」
「学院に持っていくわけにもいかないから、母に渡してきた。でも今はもう枯れちゃってるかも。すごく怒られちゃったから」
「は?なんで?」
「『盗んだイチゴから育てて増やした鉢植えなんて、下品でみっともない!』って」
「……あんたねぇ……」
——ちょっとは怒れよ。見てらんねぇ。
ロニーは口の中で不機嫌そうに小さくつぶやいた。
何を言われているのかよく分からなくて、ディアナは黙って次の花の株を手に取った。秋咲きのダリアだ。
「これ、あと2カ月もしないうちに咲くと思う。華やかなお花だから、楽しんでね!」
「何言ってんの。あんたが世話するんだろ」
「え?でも、寮が再開したら帰るよ……?」
「俺に任せたら、花壇みんな枯れるぞ」
「えっ」
「俺は金魚の世話しか興味ない」
「えっえっ?」
「枯らしたくなきゃ、いればいいんじゃないの。ここに」
「でっ、でも」
「枯らしたいの?」
「枯らしたくない!」
「じゃあ、決まりな」
何が決まりなのか分からず、焦ったディアナは口を滑らせた。
「あ、あの、じゃあ、ずっとは無理だけど夏休みが終わるまでだったら……もし迷惑じゃなかったら、このままこの家でお世話になってもいい、かな……?新学期から先は、バイト帰りにお水をあげにこれるから」
「ふーん」
口元を吊り上げて、ロニーは打って変わって上機嫌に軽く肩をすくめた。
「ま、今はいいや、それで」
「な、何がいいの……?」
「あんたの服」
「?? いきなり何の話?」
「何がいいって、今のあんたの服。似合ってていいなっていってんの。そもそも私服が1着しかなかったとか、有り得ねぇだろ」
街に買い物に出たあの日、古着屋でロニーが選んでくれた女の子用の服は、すべてディアナの客室のクローゼットに掛けられている。
まだ、お金を受け取ってもらえてもいない。
ロニーは園芸用の手袋を脱ぐと、しゃがみ込んだまま、隣のディアナの頭に手を伸ばした。
「ディアナ」
包み込まれるようにやわらかく呼ばれる。
そんなふうに、名前を呼ばれたことがない。
そっと、髪を撫でられている感触があった。
まるで、とても大事な何かに触れているような。
知らなかった温もりが、何度も何度も、いたわるように降りてくる。
「もっと自分を気にかけろよ。大事にしろ」
撫でられるたび、くらりくらりと世界が揺れる。甘いような苦しいような、未知の感覚に心臓が跳ねる。目がまわる。
それでも、ディアナは動けない。
違う、動けないんじゃない。動きたくなかった。
撫でられるたびに、体がふわふわしてくる。
背中から重く苦く冷たいものが溶け出していって、代わりにあたたかくてふにゃふにゃした何かが、全身に広がっていく。
「あんたさぁ、せっかく服は似合うの着てんのに、髪がこんなにパサパサしてたらもったいねぇな」
不服そうにいいながら、なかなかロニーは頭を撫でる手を止めてくれない。
「ろ、ロニーだって、頭ぼっさぼさでしょ!」
うわずった声で反論すると、ロニーは初めて手を止めて、自分のボサボサ髪を引っ張って上目遣いに見上げた。
「ふーん、なるほど?」
ディアナの頭の上から温もりが離れる。寂しい。
とっさにそう思う。それから彼女は動揺した。
——寂しいって、なに。
きっと気のせいだ。これ以上、深く考えちゃいけない気がする。
「じゃあ、俺と一緒にツヤッツヤになるんだったら、文句ねぇな?」
そういって、見たこともない企み顔で、ロニーはにっこりと笑ってみせた。
目が笑っていないのが怖すぎる。
その晩、ヘアオイルの瓶を手渡された。
よくわからないけれど、不思議とうっすら青く光るガラス瓶だ。ロニーの魔術が駆使されているオイルな気がする。
それから1週間も経たないうちに、ディアナの髪はとんでもなくツヤッツヤになった。たくさんあった枝毛まで、ひとつ残らず消えている。なぜだ。
その次にはネイルクリームを渡されて、その次には化粧水を渡されて……。
結局、夏休みの終わる前日に、ようやく寮に帰った。
出迎えてくれた寮母さんが、これ以上ないくらい目をまん丸にしている。
「あらまぁ、ハースさん、見違えるくらい全身ぴっかぴかになって!どうしたの?!」
「……ま、魔法……ですかね?」
自分でも説明しようがなくて、疑問形で答えてしまう。
確かに別人みたいに、どこもかしこもぴかぴかになっていた。
少し手をかけるだけで、こんなに外見の印象が変わるなんて、まるで冗談みたいだ。
でもまぁ、ちょっと装いがまともになったところで、中身はチビで貧相なディアナなのだから。
明日からの新学期でも、これまでと変わることなど何もない。
そのときは、そう思っていた。まだ。