(9−9)決別
一歩、部屋に入る。
背後で、軽く風が起こる。
振り返ると、ロニーも、他の男たちもいない。ディアナひとりになっていた。
ただ、閉ざされたドアだけが目に入る。
一瞬だけ、ぎゅっと心臓をわしづかみにされた感覚がよぎる。それに気づかないふりでやり過ごす。
この古ぼけた木彫りのドアを、よく知っている。
かつて何度も拭き掃除したことがある。だから見間違えるはずがなかった。
——ディアナが12歳までを過ごした、実家のダイニングルームの扉だ。
ついさっき、王都の幽霊屋敷の階段を上ってきたはずだ。そのてっぺんの部屋に入ったはずなのに。
ディアナは今、実家の中に立っている。
「本当に幽霊話みたい」
小さく口に出して、自分の冷静さを確かめてみる。
余裕がある。落ち着いている。それどころか、急に闘志が湧いてきた。
そうだ、これは現実ではない。きっと誰かの魔術が見せている夢だ。それもとびきりの悪夢。
人質を取って脅し、呼び出し、そして、これ。
どれだけ人の心を弄ぶのだろう、ナリック・タンゲラーという人は。一生かかっても、かけらも好きになれそうにない。
だが、この場に、彼らしき姿は見当たらなかった。
目の前にいるのは——
「人質に取られていたんじゃないんですか?ハースさん」
ダイニングテーブルの定位置に座る父に、呼びかける。
父をそう呼ぶのは初めてのことだった。なんの感慨もなく、すんなり事務的に口から出てくる。
見栄っ張りで貴族の地位に縋り付く父が、一番好む敬称は「ハース伯爵」だった。
それを知っていて、あえて彼が好きじゃない方の呼び方で話しかける。
「ずいぶん普通にお食事してるんですね。それともあなたは亡霊か幻影?」
「何を言っているのだ。ディアナ、お前も早く座りなさい」
父は読んでいた新聞から顔を上げる。ディアナを見ても苛立つ様子がなく、蔑む言葉も飛んでこない。嘘みたいに穏やかだ。いや、すべてが嘘なのかもしれない。
父の向かいには、兄が座っている。3人分の食事が並んでいる。まるでディアナを待っていたように。
なぜか、王都に進学する直前に見た姿で—— 父も兄も10年前の容姿に戻っている。
まるで、あの頃に戻って、人生をやり直しているみたいに。
でもやり直したいのはディアナじゃない。父と兄の方だろう。
違和感を奥歯で噛み潰し、素知らぬふりで確かめてみる。
「私が座るって、そこの席に、ですか」
「当たり前だろう。早く座って食べなさい。昼食が冷める」
何が当たり前なのだろう。
ディアナはテーブルの上で湯気を立てているスープを見る。
母がよく作っていたシチューだ。
ディアナはこれを、父や兄弟と一緒に食べたことがない。
食事はいつも、彼らが終わってから。キッチンで皿洗いをしながら、残り物を食べていた。
「母さまとマルスは?」
「そんなことはどうでもいいだろう。早く座れ」
父の声にわずかに混じる苛立ちを受け流し、ちらりと、自分の手をみる。
爪の先までツヤツヤだ。あの頃みたいな赤切れひとつ、ロニーが絶対許さない。
裁判事務官の制服の袖口が目に入る。自分だけは、現在の23歳の姿のままらしい。
贈ってもらった指輪もブレスレットもそのままだ。
おそらくブレスレットが外部からの魔力干渉を抑えてくれているのだろう。
——大丈夫だ。守るから。
相棒の声が聞こえた気がした。とたんに温かいものが体の隅々にまでみなぎっていく。
——そうだね。大丈夫。
胸の中で応じる。
今の自分は、ディアナ・ボージェスだ。ちっぽけで貧相だったディアナ・ハースはもういない。
だったら、やるべきことは、ただひとつ。
堂々と、兄の隣に座る。
兄はびくりと身じろぎし、「た、食べるか?」とパン籠を手元に引き寄せた。
「兄さまが私に話しかけてくるなんて、珍しいですね。あなたは本物かしら?それとも偽物?」
ディアナはおもむろに手を伸ばすと、兄のほっぺたを思いっきり引っ張った。
温かい。しっかりと皮膚の弾力が指先から伝わってくる。兄は「いでデデデで」と涙目になっている。
「ふむふむ、なーるほど。ちゃんと生身の人間なのね。若く見せる幻影術をかけられてる、ってところかな」
ひとりで納得しながら、ディアナは、目の前のシチュー皿を奥へと押しやった。
ポケットの中から、新品の手帳を取り出す。
挟んであったペンを握る。
まっさらなページにペン先を落として、そして、尋ねた。
「それで、何を企んでるんです?」
「何って……」
父は、眉間にシワを寄せて、ディアナの手元を注視している。
「お前こそ、何をしている?」
「何って、もちろん速記です」
「はぁ?」
父には理解を超えた発言だったらしい。すっかり間抜け顔のまま固まっている。
自分の言葉含め、すべてをペンで書き取りながら、ディアナは艶やかに微笑んだ。
「速記です。だって、それが私ですから」
せっかく犯罪現場に立ち会っているのだ。
だったら速記官の自分がこの場でなすべきことはひとつ——ありのままを速記して、資料として残す。きっと捜査や裁判に役立つだろう。
さすがに質問しながら速記をするのは初めてだけれど、直前までのリューとのやり取りで鍛えられている。なんとかできる手応えはあった。落ち着いて口を開く。
「それで、あなたたちはここで何しているの?」
「お前を歓迎している。懐かしいだろう。家族の団欒が」
「いいえ、ぜんぜん」
迷うことなく即答できる。
不自然なくらいに父は見慣れない笑顔のままだ。情に訴えかけようとする魂胆が透けている。
彼らの中ではディアナは、いまだに便利な召使いのままなのだろう。少し優しくするだけで、ほだされて思い通りに動いてくれるとでも思っていそうだ。
ぞわりと背筋が泡立つ気持ち悪さを抱えながら、冷静に切り返す。
「私、これまで一度も実の父親と食事をしたことがないもの。ご存知でしょう?」
「なんだと」
言い返されるなんて思ってもいなかったらしい。目が細められ、声がかすかに低くなる。
それでもまだ、猫撫で声で父は続ける。
「とんでもないことをいうもんじゃない」
「どうして?事実でしょう。兄さま、記憶にある?いつ私とあなたたちが一緒に食事をした?」
「いっ、いやぁ、それは……ない、けど」
急に横から問い詰められた兄が、狼狽のあまりポロリと真実をこぼす。
ディアナは、にこりと微笑んだ。畳み掛ける。
「ハース家は私を冷遇した事実を隠しておきたいのに、この部屋のどこかに誰かが隠れて聞き耳を立てているってこと?」
動揺を押し殺す父を見据える。
引きつったようにそれでも微笑もうとする額に、うっすら怒りの青筋が浮かんでいる。軽く会話を交わしただけで、あっという間にいつもの父らしさが出てきた。
しめしめと、ディアナは内心ほくそ笑みながらペンを握り直す。
頭に血がのぼりやすい人だ。きっとこのまま放っておいても馬脚を現してくれる。
ウキウキと待ち構える目の前で、父は手にした新聞を放り投げる。
「いいか、お前はハース家の人間だ。育ててやった恩を返せ。私の選んだ相手と結婚するんだ。そうすれば、家の繁栄が約束される。お前だって贅沢な暮らしができるようになる」
「家の繁栄?ダニー父さまが用意してくれた魔石の鉱山はどうなったんです?ああ……もう掘り尽くしたのね?」
「ま、まだもう少し残っている」
「要はあと少ししかないのね。それで私を金持ちの男に売り飛ばそうとしてるってわけか。わぁ、人でなしねぇ!」
あえて意識してダニー父さま風に陽気に叫んでみたら、父の青筋がますますはっきり浮かび上がった。
ディアナは口元を震わせる。これはダメだ。ちょっと楽しい。ダニエルが好んで相手を煽る意味が理解できてしまう気がする。クセになったら怖いからほどほどにしないとね。
妙な葛藤と密かに戦うディアナを、父はとうとう大声で叱りつけた。
「とっとと黙って嫁に行け!親にそんな大口を叩くなんて、この恥知らずが!!」
「そうですね」
手帳とペンを持ったまま、ゆっくり立ち上がる。
昂然と、左手の指輪を掲げて見せる。
「私、結婚したんです。ロニー・ボージェスと。あなたに言われる前に、とっとと黙って嫁に行きました。すごいでしょう?」
ひゅっと父と兄の喉が鳴った。
他の誰かとディアナを無理やり結びつけるには遅すぎたのだ。しかも、彼らが恐れる王宮魔術師一家の次男との結婚だ。
ふたり揃ってようやく現実に直面し、顔面から色が消えている。本物の幽霊みたいに真っ青だ。
さっきの自分の発言を後追いで書き留めながら、ディアナはふふっと声を出して笑ってしまう。
「そもそも私は『恥知らずで恩知らずで役立たずで見苦しくて虫唾が走る』んでしょう? 10年前に家を出る時、あなたが掛けた言葉のとおり。だったら、それにふさわしく振る舞わないとね」
「ど、どこに行く気だ」
「帰ります。私の養育費は、とっくに鉱山事業で回収できたでしょう。返す恩なんて、もう一つもない。あとは勝手になさってください」
「なんて娘だ!家族を見捨てるなんて!」
冷たい笑みが湧き上がる。
今さら必死の形相で血縁を振りかざされても、どうしようもない。
10年間で、ディアナはこんなに変われたのに。この人たちは何も変わっていない。もはや遠い昔の人たちだ。
過去の亡霊みたいな者たちに、これ以上追いすがられないために。
今、この場で胸を張って宣言しよう。
「私はもう、ハース家と関係ありません。合法的にボージェス家の人間なの。それでも少しは気がかりだったから来てみたけれど……私はあなたの奴隷じゃない。搾取も使役もお断りします。さようなら。もうお目にかかることはありません」
過去に背を向け、清々しい気持ちで歩き出す。
扉の直前、肩越しに振り返った父は言葉を失い、ぱくぱくと口だけを開け閉めしている。
その様子はまるで、
「……金魚みたいね?」
「よくお分かりですね。金魚なんです」
どこかで聞いた声がして、パチリと指を鳴らす音がする。
とたんに目の前の世界が変わる。
実家のダイニングルームがまるで霧のようにかき消えて、見知らぬ客間が姿を現す。
年季の入った内装で、壁紙が剥がれかけている。
幻影魔術に隠される前の、これが部屋本来の姿なのだろう。
悪夢から醒めて、また別の悪夢に飛び込んだみたいだ。
父も兄も姿が見えない。それより何より、壁際の椅子に座らせられているのは、ディアナの大事な大事な、
「ロニー!」
「ああ、動かないで。下手に動くとあなたの旦那さんの首が飛びますよ」
思わず走り出そうとしたディアナは、ぴたりと止まって声の主を睨みつける。
その魔術師に、見覚えがありすぎた。
猿ぐつわとロープで拘束されたままのロニーの傍に立ち、ニコニコと牽制する男。
こっちを見ているロニーの目が、そういうことだよ、と苦笑いしている。
そういうことかぁ、とディアナは苦く笑い返す。同僚に裏切られるのは、気分の良いものではない。
手帳を開いてペンを構え、つとめて冷静な声を出す。
「キーレ広報官。今日の裁判所の仕事はどうしたんですか?」
「いやぁ、有給取りましたよ。なんせこちらの方が楽に儲かるので」
飄々と答えたのは先日、ナリック・タンゲラーとの面会の後に現れた裁判所の広報官——トビアス・キーレ2級魔術師だった。
私服らしい魔術師ローブを着込んだ彼は、抱えた小ぶりな金魚鉢に視線を落とす。
中には4匹の赤い金魚が泳いでいた。
「この金魚、お察しのとおり、ディアナさんの両親と兄弟です。高額商品ですね。色も形も全部ありきたりですけど」
その手が鉢を大事そうに撫でる。
「これを売れば、当面遊んで暮らせる金が手に入る。『金魚』の名のとおり、世界中の金持ちから『金運と幸福をもたらす』って持てはやされてますからねぇ」
「キーレさん、いつからこんなことをしてるんです?なんで?」
ペンを握り直し、率直な疑問をゆっくりぶつけてみる。これくらいのささいな会話で命の危険に直結することもないだろう。
キーレは面白そうにまばたきして、「度胸がありますねぇ、速記し続けるんですね」とつぶやいた。
それからディアナの質問に答えることにしたらしい。
「まぁ、そこそこ前からかな。金はいくらあってもいいでしょう?」
「そうですか? 私は自分の欲しいものは自分の速記で稼いだお金で買いたい派なので」
「真面目なディアナさんらしいですね。なるほど、こんなところにまで制服を着てくるわけだ」
「そうなの。私、真面目なので、一刻も早く仕事に戻りたいんですけど」
「すみませんね。うちのボスがあなたに興味を持っちゃって」
まるで裁判所の廊下で立ち話をしているような口調で、キーレは肩をすくめる。
あっけらかんと悪びれない態度だった。怒りをぶつける気にもなれない。
ディアナは鉢の中の金魚たちに、ちらりと目を走らせる。
「さっき、父と兄は人間の姿をしてましたけど」
「一時的に人間に戻したんです。でも何の役にも立たなかったから、金魚に戻ってもらいました。ちなみに弟さんは、強固な呪いにかかっていて人間に戻れず、お母さんはなぜか人間に戻りませんでした。うーん。魔術って不思議ですよね」
ロニーの目がじっと金魚たちを観察している。
その横顔に焦りの色はない。だったら完全に人間に戻せるはずだ。タイミングを見て、鉢を奪えればいい。
もう二度と顔を合わせたくない人たちだけれど、金魚のままでいて欲しいとも思えない。お互い遠くで他人として生きていければそれでいい。
ひとまずキーレの話の流れに乗ってみよう。
腹を括ったディアナは、「それで、」と声に力を込める。
「結局、何でこんなことをしてるんです? 私たち、もう結婚しちゃいましたけど」
「それなんですよねぇ。まさかの電撃結婚。どうするんでしょうねぇ?」
困ったように眉を下げ、ディアナとロニーを交互に見ながらキーレはぼやいた。
「自分には判断がつかないんで、」
パチリ、と、再びキーレが指を鳴らす。
「ここはボスに決めていただきましょう」
お待たせしてしまって大変失礼しました!
しばらくダウンしてしまい(泣)ようやく体調回復して頭が真っ当に働くようになってきました〜。
しかも重くて地味なシーンが続く……(汗)そろそろどーんとぶち上げたい!
とはいえ寝込んでた分、身の回りの案件が立て込んでしまいまして、次回は週末ごろに投稿させていただきます。
引き続き、どうぞよろしくおねがいたします〜!!




