(9-5)ナリック・タンゲラーの執務室
「いやぁ、酷い目に遭いました」
前触れもなくナリック・タンゲラーの執務室に現れるなり、その男はぼやいた。
王都最大手を誇る新聞社の最上階の一角。
ナリックに与えられた個室は、秘書ですら立ち入りを制限されている。最近普及しはじめたばかりの内線電話をいち早く導入してからは、ほとんどそれで用件が片付く。
その一方で、移動魔法陣が密かに設置されていて、限られた数人だけがそこから自由に出入りできた。
目の前のトビアス・キーレ2級魔術師もその一人だ。
ナリックは、手元の書類に視線を落としたまま、コツコツと指先で執務机を2回叩いた。
それが「話を先に進めろ」の合図だと心得ている男が、よく回る口で調子良く言い立てる。
「ディアナ嬢の弟さんと、フィン・ロクスターくんと彼のお友だちは魔術師団に捕まりました。自分だけはそこまで間抜けじゃないんで、隙を見て逃げましたがね。この通り、無傷でぴんぴんです。次のご指示をいただければ」
計画が予定通りいかなかったことを謝るでもなく、いけしゃあしゃあと男は口にする。
その図々しさを、しかしナリックは気に入っていた。
失敗したことで自尊心を無駄に痛め、暴走する人間は相当数いる。能力が低い者ほど、そうなりがちだ。
それに比べたら、キーレの冷静さは評価すべきポイントだった。
心臓に鋼鉄の毛が生えたような男だ。重ねて厚かましい問いを平然と放ってくる。
「でも、そろそろ手を引いたほうが身のためではないですか?」
ようやく書類から目を上げて、ナリックはうっすらと笑った。
「まさか。もうすぐ恋しい人に会えるのに」
「美しい芝居みたいなお言葉ですね」
キーレは鼻を鳴らしながら、大げさに目を見開いて驚いたふりをしてみせる。
「そのわりには、ちっとも恋しそうに見えませんけどね?」
「よく見えていないだけだろう。眼鏡をかけた方がいいんじゃないか」
「そんな特殊な眼鏡が必要なら、喜んでかけますよ。その金さえいただけたら」
「この一件が片付いたら、成果報酬に上乗せしてもいい」
「では、いつ片が付くんです?——そもそも、あなた、本当にディアナ嬢が欲しいんですか?」
こともなげに一歩踏み込んで、キーレは面白そうに腕組みをしながらナリックを見下ろしている。
「もちろんだよ」
真っ向から見返して、ナリックは憚ることなく肯定した。
そのまま堂々と、本心を舌に乗せて返す。隠す必要などひとつもない。
「誰だって、人生を飾るトロフィーは欲しいものだろう?」
「あの才女を戦利品として側に置いておきたいってことですか。ご自身のアクセサリーとして」
「ひどい言い草だな。愛だよ」
「誰に対する愛ですかね。——自分自身?ま、どっちでもいいですけどね」
真っ直ぐにナリックの顔を指差して、キーレはその指をくるくると回した。
「俺は、ただいま目的地不明でさまよっているこの指を、次はどこに向ければいいのか指示いただければそれで」
「君の最終目的地はどこなのかな」
ふと、思いついてナリックは尋ねる。本当は興味などない。ただの時間潰しだ。
ナリックのここ最近の行動は、ほとんどすべて時間潰しにすぎない。
タンゲラー家の三男として生まれた。
この国の新聞・出版・不動産部門で莫大な利益を上げている一族だ。
その総帥の息子だ。欲しいものなどたいてい手に入る。
新聞社のトップは、現在、優秀な長兄が務めている。だが、やがてグループ総帥の地位に上がる。そうすれば、王都タイムズはナリックの手に自動的に落ちてくる。
当然だ。そうなるように、数年かけて仕掛けたのだから。自分の価値が上がるように、金と能力をフルに注ぎ込み、業績を上げてきた。
そうして勝利が見えた瞬間、つまらなくなった。
あらかじめ決まっている勝利の品など、興醒めだ。
だから当座、目の前にあるおもちゃを、つまりこの男を軽くいじっている。それだけだ。
「トビアス・キーレ2級魔術師、君の最終目的地はどこにある? 魔術師の独立王国の実現?」
「それはそれで、面白いかもしれませんね。あなたの目的は、タンゲラーグループ総帥の座ですか?」
「それはそれで、厄介ごとが多そうだな」
ナリックは淡々と返して、厚い革張りの執務チェアに背を預ける。目を閉じる。
一族には能力に自信のある者が多い。おのおのプライドに任せた主張も激しいし、口うるさい老人たちも絡みついてくる。政府からのご親切な「情報提供」という名の情報統制にも都度対応しないとならない。
端的に言うと、煩わしい。
そんな不自由な政治に縛られた地位など願い下げだ。生真面目で苦労性の長兄に任せておけばいい。
ナリックは、もっと大きなものに興味がある。
これは、そのための一歩だ。
「あした、ディアナ嬢とロニー・ボージェスをお招きしている」
時間と住所を口にすると、心得たキーレがうなずいた。
「例のものを用意しておけばいいですね」
「そうだな」
目を閉じたまま、軽くうなずく。
「少し、お休みになりますか? リラックスできるように魔術で整えましょうか? 森?海?」
「森で」
「かしこまりました」
とたんに、部屋の香りに清涼な緑の空気が混じり合っていく。
風のざわめき。小鳥の鳴きかわす声。
森の気配が全身を包む。
キーレのこの幻影術を、ナリックは気に入っていた。
ナリックに使える魔力はない。
だから、これを使える人々の、使いみちには興味がある。
「キーレ、ひとつ聞いてもいいか」
「なんでしょう」
「そこに電話があるだろう」
「ありますね。絶賛最新型の珍品だ」
「電話が徐々に普及しはじめて、魔術師たちの伝令鳥は価値が下がった」
「なんですいきなり。まぁ、そうですね」
「人間の技術の進歩は限りない。船も汽車も車も電話も。君たちの魔術に頼らなくても、いずれ便利になっていく」
「ははぁ、いい世の中ですね」
「この森の幻影魔術も、いつか魔力を使わずに再現できるようになるかもしれない」
「それはそれは。困りますねぇ」
「君たちはどうする?——ただ黙って科学に追い抜かれていくだけか?」
適当に心にもない相槌を打っていたキーレが、一瞬だけ黙り込む。
それから、ほんの少しだけ真剣みを帯びた声が、尋ねた。
「どうするって……それがあなたの本当の興味の核心ですか?だから独立派に投資を?——魔術で新しい世界を作るのがあなたの野望ですか?魔力を持っていない、あなたが?」
ナリックはただ口を閉ざしたまま、鳥の声に耳を澄ませた。
答えるつもりはない。
それが核心だからだ。
代わりに違うことを言葉にのせる。
「美味い酒が飲みたいな。酒は人類最大の発明品だと思わないか」
「勝利の美酒ってやつですか?明日お飲みになるつもりでは?」
「そうだな。それが明日になるかどうかは、君の働き次第だな」
「手厳しいお言葉で」
キーレの苦笑を受け流し、ナリックは今一番の願望を再び口にする。
「美味い酒が飲みたい。何年ものでもいいから、とっておきの酒を」




