(9−3)竜の眷属①
「竜さま、おやつ、食べませんか。ヴェルニの村で買っておいたクッキーがあるの」
そう言いながら、ティーセットを抱えてロニーの部屋に入ったディアナは、その光景に頬をゆるめた。
興奮したリューは、金魚の水槽に顔を突っ込みそうな勢いだ。
我を忘れたからなのか、人間から竜の姿に戻ってしまっていた。尻尾でぴたぴたと調子よく床を叩きながら、夢中で何かを話しかけている。
「金魚とおしゃべりしているの?」
勢いよく振り返った黒竜が何かを言う。慌てて速記する。だんだん耳が慣れてきて、なんとなく言われたことがわかるようになってきた気がする。
「えっと、『こいつたちはいい奴だ。おしゃべり好きでのびのびしてる。僕の眷属。変なにおいがちょっとする奴もいるけど、そのうち抜ける。これはいい水だ。新鮮だし、空気がいっぱい入ってる。土の養分も適度に溶け込んでいるし、水草のおやつも充実している。この環境を作ったのはあの魔術師か?あいつは気がきくんだな。いい奴だ。気に入った』……そうなの!この水槽はロニーが魔術でいつも綺麗にしているの」
ディアナはすっかり得意になって、竜と並んで水槽を覗き込む。
ロニーは階下で、父親と話し込んでいる。
任務に関わる話だそうで、居残って聞かないほうが良い。
それに、リューが応接室の金魚鉢をさかんに警戒していて落ち着かない。
なので、ふたりだけ、先に2階に上がってきた。
「竜さまって、金魚たちの王様なの?」
竜は黒い鱗を光らせながら胸を張る。
「『こいつたちだけじゃなく、水の中の生き物はすべて我の配下。我は水を統べる竜の一族』。へぇぇぇ、かっこいい! それで金魚ちゃんたちとおしゃべりできるのかぁ。いいなぁ、私もお話ししてみたい」
手を伸ばして、水面で手を振る。金魚たちが勢いよく群がってくる。
竜は耳を傾けるようにしてから、キュルっと声を立てる。ディアナは書き取った文字を見て、目を丸くした。
「『もっと一緒に遊びたい。ごはんくれ』って? 金魚ちゃんたちが私と遊びたい? そっか、嬉しいなぁ。金魚と遊んでごはん食べてのんびり過ごす毎日がいいなぁ。どうして人間は騙したり貶めたりするんだろうねぇ」
先ほどのダニー父さまの衝撃の一言が蘇ってしまって、ディアナは首を振って雑念を振り落とす。
何かを話していた方が気が紛れる。
「じゃぁ、いつもの通り、ロニー特製のごはんだよ。ほら、お食べー」
夢中でエサに食らいつく色とりどりの魚を眺めているだけで、ほっとして気持ちがゆるんだ。
ロニーが金魚たちを大事にしているわけが、今さら身に染みて理解できる。
嘘もしがらみも何もない水中の世界がうらやましい。
実家との縁を、すぱっと切れたら楽だったのに。
先ほど、応接室で交わしたばかりの会話を思い出す。
「脅迫してきたのって誰ですか。……ナリック・タンゲラー?」
どこか自分ごとのよう思えないまま、ディアナはげんなりと口にした。
その名を聞いた瞬間、隣に座ったロニーが低く唸る。
ダニエルは、1通の書状をテーブルに置いた。
「差し出し人に名前はないけれど、そうだろうねぇ」
「……あいつ、俺が息の根止めてやる」
「ロニー、冷静になりなさい。うちのお嫁さんにちょっかい出す輩は、殺すだけじゃ生ぬるいよね。ディアちゃん安心してね。うちの奥さんと長男と嫁もブチ切れてたから」
「ひぃ、むしろ安心できない……!」
「さて、不届きものをどう料理してくれようかねぇ。ダニー父さまの料理の腕は確かだよ♪」
目の前の男ふたりは、すっかり目が据わっている。
ディアナは笑いたいような、泣きたいような、なんとも言えない気持ちに襲われた。
怒ってもらえて幸せだし、迷惑をかけてしまって申し訳ない。
実家の人たちの顔を思い出しても、ディアナはちっとも心が動かない。
なんであんな人たちと血がつながってしまったのかとさえ思ってしまう。産んでもらって、ロニーと会えたことには感謝しているけれど。
生まれる場所は選べないが、生きていく場所は選べる。ディアナはもう選んだ。今さら血の繋がりを強調されて脅されても、困惑するだけだ。
ひらり、と目の端で赤いものが揺れる。
不自然にテーブルに置かれた、ガラス鉢の1匹の金魚。
真っ赤な尾を揺らしている。金魚に一番よくある鮮やかな朱色。体の形は金魚の原種だという鮒に近い。
口の形が大きくしっかりしているから、エサをよく食べて、すくすく大きく育ちそうだ。
普通の金魚だったら、心おきなくかわいがる。そうだったらよかったのに。
「もしかして、その金魚、うちの実家の誰かだったりするのかな……?」
さっきからリューは喉の奥で唸ったまま、ロニーの腕にしがみついている。
金魚から目を離さないまま、キュルっと素早く何かを口走った。かろうじて、ディアナにも聞き取れる。
「臭い、って言ったのかな?」
「さっきからこいつ、ずっと『臭いくさい』ってわめいてる。リュー、ちょっと声のボリューム落としてくれ。俺の頭の中でガンガン鳴ってて疲れる。そんなに臭いなら、とっとと人間に戻せるか?『無理』?なんで?」
一瞬無言になって頭の中の声と向き合っていたロニーが、「ははっ」と軽く笑った。
「竜でもできないことがあるんだな。『その魚は呪いがこんがらがってできてるから、近寄りたくないし触りたくもない』ってさ。『こんがらがってコブになった紐を糊で固めたようなもの。我はほどけないし、ほどきたくない、めんどくさいし気持ち悪い』……だよなぁ、めんどくさいよなぁ、気持ちはよくわかる」
ダニエルは金魚をのぞき込んで、感心したように自分の顎を撫でる。
「なるほどねぇ、確かに下手くそだ。ぐちゃぐちゃな魔術の気配がするねぇ……でも、それを解けちゃうのが人間なのさ。こんなの第2魔術師団のメンバーには大好物だろ?」
「親玉のフィリアスが前のめりに解呪するだろな。で、その脅迫状には何が書いてあるわけ?」
ディアナはテーブルの上の紙を取り上げた。
「ええと……指定の場所にロニーと私で来い、さもなくばハース家は人間に戻れないまま魚の一生を終えるだろう、って書いてある。……なんでロニーまで? 私だけが狙いじゃなくて?」
「うちの次男夫婦は人気者だねぇ。で、どうする。ディアちゃん、参加したい?僕ら、こいつを締め上げにいくけど。こんなに心が躍る仕事は初めてだなぁ」
ちょっとしたイベントの出欠確認をするかのように、からりと問われる。
「でも、無理に参加しなくてもいいんだよ。うちの家族で十分処しちゃえるから。嫌な思いはしなくていい」
「行きます!」
ディアナは即答した。
「私も家族に入れてください。それに、元は私の実家が招いた事態だから……ボージェス家や魔術師団を巻き込んでしまって本当にごめんなさい」
「ディアちゃんは、とっくに家族だ。謝る必要なんてない。わざわざ危険なところに行かなくても、僕らが喜んでぶちのめすよ」
どうしても心配を隠せないダニエルを、ロニーが見据える。
「父さん。ディアは俺が必ず守るので」
力強くて温かい大好きな手が、ディアナの手をしっかり握る。
「だから、ディアナの希望を汲んで進めてもらえませんか。俺だって、ディアには安全なところにいてほしい。でも、決めたんだろ?」
「うん、決めた。今まで、実家から目を逸らして放置して逃げていたから、こんなことになってしまったんだと思う。もう逃げたくない」
ディアナはピンと背筋を伸ばす。
勝手なことを言ってくる人たちの、言いなりにはならない。
実家の人たちとも、きちんと決別したい。
ちゃんとボージェス家の娘になるための、これはけじめだ。
一点の翳りもなく、胸を張ってボージェスの名を、大好きな人たちの家名を名乗りたい。
ロニーも、姿勢を正す。
「わかった。全力でそばにいる」
「うちの次男の全力を引き出せるのは、昔も今もディアちゃんだけだね」
目の前の息子夫婦を交互に見て、それからダニエルは柔らかい覚悟の笑みを浮かべた。
「よし、わかった。そうと決まったら、祭りの準備を始めようか!」