(1-6)10年前——王立学院1年生⑤
「わぁ!水槽!?大きい!」
部屋の壁沿い、目の高さにガラスの水槽が置かれていた。
完璧に透明なガラスなんて、ただでさえ高価で珍しいのに。
それで作られた水槽なんて、初めてだ。ディアナは夢中で飛びついた。
気泡ひとつ入っていない完璧なガラスの世界は水で満たされていて、深い緑色の水草がゆらめいている。
水草の林をかき分けるようにして、小指サイズの魚たちがディアナの顔の前にすいっと寄ってくる。
「なんって綺麗なお魚なの!あいさつしにきてくれたの?」
見たこともない、色も形もさまざまな魚たち。
あざやかな紅と白の入り混じったもの、金色に輝くもの、真っ赤なもの、背中が黒くてお腹がオレンジがかったもの、銀色に黒の斑点が散ったもの。
蝶々のような尾を揺らして泳ぐ子、背びれの立派な子、ぷっくり飛び出た目を持つ子。流線型の子、丸くて頭がぷくぷくでっぱっている子。
5匹の魚が、ディアナの顔に吸い寄せられたように集まって、口をぱくぱく開けている。
「わぁぁぁ、かわいい!こんにちは、初めまして!」
思わず手を振ると、指先の動きに5匹の目が釘付けになる。
ゆっくりと指を右側に大きく動かして見せたら、元気に指先を追いかけて泳ぎ始めた。
「わぁ、一緒に遊んでくれるの?ふふっ、ありがとう!」
「あいつより1000倍はかわいいだろ」
「アッテンボローくんのこと?」
「そ」
「ふふっ」
さっきの教室で顔を真っ赤にしながら口をぱくぱく動かしていたエドワード・アッテンボローのことを思い出して、ディアナは思わず笑ってしまった。
もしかして、この魚たちを見せてくれるために、家にあげてくれたんだろうか。
「魚がこんなにかわいいなんて、知らなかった。なんていう種類のお魚なの?」
「金魚」
「きんぎょ?」
「金の魚できんぎょ。東方の国で昔から飼われていた観賞魚」
「へぇぇ、名前にぴったりのお魚だ。すごく綺麗。ロニーの友だち?」
「なんで?」
「金魚ちゃんたち、人間にすっごく懐いてるから。かわいがってるんだろうなぁって思って」
「友だちというか……。まぁ、学校に行くより、こいつらの餌を作ってやってる方が1000倍は楽しい」
「ふふっ。仲良しだね」
ロニーは、やわらかなまなざしで金魚を見守っている。
ずっと授業で寝続けて、いつでもどこか気だるそうな彼とは、まるで別人みたいだ。興味のすべてを小さくてあどけない魚たちに傾けている。
なんだかすごく微笑ましい。
「そんなにお魚が好きなら、理学科の生物学専攻にすればよかったのに」
「え?……ああ?」
それも悪くないな。そう小さくぼそりと独りごちながら、彼はロングソファにどさりと座った。
この部屋にあるのは、あとはソファの前のローテーブルだけだ。寝る部屋は別にあるのだろうか。
ぱちん、とロニーの指先が一つ鳴る。テーブルに、白い平皿がふたつ現れる。それからマグカップになみなみと注がれて湯気を立てる紅茶がふたつ。
「あんたの持ってるそのパイ。ここに並べて。あんたの皿にはあんたが食いたいだけ置いて」
「……?」
理解できなくて、首を傾げてしまう。立ち尽くしたままのディアナに、ロニーは眉を上げた。
「なんでそんなに驚いてんの」
「だって、これ、ロニーの分でしょ?」
「は?」
「ロニーが買ったんだから、全部、ロニーの分。そうでしょ?」
少なくとも、実家ではそうだった。誰かが美味しいものを買ってきても、ディアナの口には入らない。
「食べたければ自分で買え」
よくそう言われた。そういうものだと思っている。
「あー……うん。わかった。なんかいろいろ察した」
ロニーはうめいて天井を仰ぐ。がしがしと両手で髪の毛をかきむしった。
「もういいわ。あんた、とにかくここに座れ」
言いながら、ぽんぽんっとソファの隣を手のひらで叩く。
おずおずと、ディアナは言われた通りの場所にそっと腰掛けた。
抱えていた紙袋をヒョイっと取り上げられる。
ロニーの手が無造作に袋の中からパイをつかみ上げて、ディアナの皿にふたつ置いた。
自分の前の皿には四つ。
「何にも言わずに食っとけ。いいから」
遠慮しようと口を開けたその瞬間、パイが遠慮なく突っ込まれる。
目を白黒させながら、一口噛んだ。
サクッという軽い音。やさしいバターの香り。それからトマトとハーブを煮詰めたようなコクのある味に、ごろごろとしたお肉のかたまり、口の中でとろける甘い玉ねぎ。
ディアナは目を見開いた。
もしかして、これって、ミートパイってやつじゃないだろうか。
無言で食べる。ひと口。もうひと口。
美味しい。美味しすぎる。
止まらなくなり、手元にパイがなくなってから、はっと気づいてぼうぜんとする。
ロニーの分なのに、一気に1個、完食してしまった。確かにこれは、早食い競争にふさわしい食べ物だ。地元で人気だったのも納得だ。
「あ、あの」
「いいから、手を拭け。茶を飲め」
乱暴にハンカチで手をぬぐわれて、それからマグカップを突きつけられる。気圧されて紅茶を飲んだら、ふわりとオレンジの香りが鼻に抜けて、口の中がさっぱりと軽くなる。なんて完璧な組み合わせなんだろう!
「か、かんぺき……むぐ!」
容赦なくもう一個のパイが口の中に押し込まれて、またしてもディアナは食べてしまった。
残さず最後まで。かけらも微塵も残さずに。
今度は自分から紅茶を口にして、最後まで飲み切って、ほうっと一息つく。
「あんたさ、なんかこう……鱗が欠けた金魚みたいだな」
「え、どういうこと?」
ディアナはキョロキョロと自分の体を見回した。特に欠けているものはないと思う。
体は健康だし、心は自由だし、13年生きてきて今がいちばん絶好調だ。
「いや、なんでもない」
なぜかため息混じりにロニーは首を振ると、自分のお皿に残っていたミートパイを半分に割って、片割れをディアナの皿に載せた。
「これも食っとけ」
「ええと、これ以上食べたら、寮のお夕飯が入るかな……」
「いいから、ほら。寮のメシより美味いだろ、これ」
「うん、確かに」
納得したディアナは、もらったばかりのパイに齧りつく。
もぐもぐ食べながら、尋ねる。気になることはすぐに聞いてしまう主義だ。
「鱗が欠けちゃった金魚って、どうやって治療するの?魔術?」
「塩水浴。塩水の中で泳がせる。そうすると自己治癒力があがって、自力でゆっくり治っていく」
「へぇ!自然の力に頼るのか。知恵だねぇ」
食べ進めながら、ディアナはぼんやりと金魚たちを見る。
さっきロニーがぽろりと言ったことの意味は、正直よく分からないのだけれど。でも。
——もし私が鱗の欠けた金魚なら。このパイは、その塩水浴みたいなもの?なのかな。
この間の食堂のパンもそうだった。
ロニーから分けてもらった食べ物は、より美味しさが体に染み渡る。確かに心のどこかが潤うような、満たされた感覚がある。しみじみディアナは噛み締める。
「魔術にも金魚にも詳しい、すごい友だちが出来てしまった」
「んだよ、それ」
「あ、ロニーが照れた」
「何言ってんだ」
ぷいっとそっぽをむいた耳が赤い。
ふふっとお腹が震えてしまう。
「何笑ってんだよ」
「笑ってないよ」
「笑ってるだろ」
「これはねぇ、漏れただけ」
「何が?」
「幸せ?」
「漏らすな吸っとけ」
あはは、と本格的に笑い声が漏れてしまった。
ひとりは楽しい。
でもふたりだと、ひとりでに笑いが漏れてしまうくらいには、もっと楽しいのかもしれない。
第1章、お読みいただきありがとうございました!
実はこの作品、もうちょっと寝かせてから投稿しようと思っていたのですが、
予約設定を間違えて(滝汗)、うっかり第1話を投稿してしまいました。
ああもう、ほんとうっかりすぎる……!!
とにかくひとまず第1章を投稿させていただきました。
続いての第2章の投稿まで、おそらく1週間ほどお時間いただきます(推敲が、推敲が全然間に合っておらず……!)。
お待たせして大変申し訳ないのですが、引き続き、お楽しみいただけますように……。
どうぞよろしくお願いいたします!