(9-1)結婚しました
——結婚しました。
本当に、結婚してしまった。
あれからロニーはすぐさま移動魔術を発動させて、気づけば王都の役所にいた。
竜の男の子も当たり前のようについてきてしまって、人間でごったがえすせせこましいフロアを、張り裂けそうな目で硬直しながら見つめている。
「棒立ちでどうした?臭い?確かに、ろくでもねぇ腹黒人間もいっぱいいるからな。ほら、これで鼻押さえとけ。がんばれ、吐くなよ?」
すっかり青ざめた男の子の顔にハンカチを当てて世話を焼くロニーの傍らで、ディアナは結婚届の空欄をすべて記入する。あっという間に書けてしまって、
「おめでとうごさいます。受理されました。どうぞおふたり末長くお幸せに!」
あっという間に窓口の人に祝福されていた。
「……こんなに簡単になれちゃうんだね、夫婦って」
「それな」
「もっと早く、なっておけばよかったね」
「ほんとそれな」
「ごめんね、お待たせしちゃって」
「いや、今日でよかった。結婚の立会人が竜なんて、突拍子なくて俺たちらしいだろ。誰も信じないぜ、きっと」
幸せ以外のなにものでもない顔で、ロニーは晴ればれと笑う。ディアナも同じ顔で笑った。
ロニーはそれから慌てて男の子を抱き上げる。
「おっと、本当に吐くなよ? とりあえず、お前の家に帰るか。ごめんな、付き合わせて」
ぐったりして無言の竜を抱えて、ひとまず滝壺の裏の棲家に戻る。
岩の寝床に横たえると、男の子はさめざめと泣いた。
ディアナは彼が口走ったことを慌てて速記し、読み上げる。
「『人間がひしめき合う世界にちょっと出ただけで、臭くて吐きたくて気持ち悪くて辛い。これではフレアのそばにいられないかもしれない。どうしたらいい。辛くて消えてしまいたい。でも消えたら彼女に会えない。どうしよう。どうしよう』」
「あー……まぁ、慣れれば大丈夫じゃねぇかな」
がりがりと頭を掻いてから、ロニーはあっさりと言い放った。
「世の中、汚くて臭くて吐き気がすることばっかりで、俺も逃げようって決めてた時期があったよ。人となるべく関わらない田舎の街に逃げちまおう、って。でもなぁ、」
男の子の足元の方の岩っぺりにディアナを座らせて、ロニーは頭の方に座る。
「ディアナに会ってから、気づいたら平気になってた。どんなに嫌な空気を吸った後でも、ディアさえいれば、息ができる」
ぐしゃぐしゃと、男の子の頭を乱暴に撫でる。
「きっとお前も、平気になるよ。大丈夫だ。本当にルミと一緒に生きたいと心から願えるんだったら。なんとかなる」
ぽろぽろっと、金の瞳から涙の玉がふたつ、こぼれ落ちる。
それは、そのまま岩に落ちて、きらりと輝く小石になった。
男の子は、腕でごしごしと乱暴に目元を拭う。転がる石を手でつかみ、一つをロニーに、一つをディアナに突き出した。
「くれるのか? ——え、まじで。これ、竜の涙ってやつじゃねぇの?」
最高級の魔石の名前を口にして、ロニーはぼうぜんとその石を上に掲げて眺める。
ディアナもまじまじと、手の中に転がったその小さな石を見た。
透明で、角度によっては不思議と七色を帯びて光って見える。
めったに市場に出回らない逸品だった。ディアナは博物館で展示されているのを一度見たことがあるだけだ。
「本当に物理的に、竜の涙からできる魔石なんだね……?」
「——ああ、なるほど、そうなのか。『竜の感情が極まって出た涙は石になる』ってこいつが言ってる。いいのか?こんな貴重なものを、俺たちに渡して。は?何?……全然貴重じゃない?」
だいぶ気持ちが持ち直してきたらしい男の子は、ぴょんと岩から飛び降りると、洞穴の奥に走っていく。
奥まったところに置いてあった木箱を開けて、得意げに見せてくれた。
「わぁ、きれい!これ、ぜんぶ竜の涙?!」
1メートル四方ほどのその箱の中に、ぎっしりと美しい涙の雫のような石が詰まっている。
自慢げにうなずいて、手を突っ込んでサラサラと水のように掬ってみせる男の子を見ていたら、ディアナは堪らなくなってしまった。その小さな体をしっかりと抱き寄せる。
「こんなに泣いたんだね。がんばったね。幸せになろうね。……ねぇ、ロニー?」
石像のように固まってしまった男の子を抱きしめたまま、ディアナはロニーを見上げる。
言葉にしなくても伝わって、ロニーはディアナと男の子の頭を同時にくしゃっと撫でた。
「なんか自分のガキの頃と重なって、どうにも放っておけない気持ちになるな」
「やっぱり?私もそう思ってた」
「だな。俺、今、人生最高に気分がいいしな。うちで預かるかぁ」
「うん、この子さえよかったら、そうしたい。竜さま、うちに来る? ルミちゃんと会えるように、王都の私たちの家でしばらく頑張ってみる? うちは大きいし、ロニーの守護結界も張ってあるから、そこまで気持ち悪くならないと思うの」
ぱっと輝いた顔が、ディアナを見上げる。それからロニーを見上げる。
思いっきり飛び上がると、箱の中の極上の魔石を両手で掬ってざらざらとロニーの手の中に落とす。ディアナの手の中にも落とす。
「りゅ、竜さま、ありがとう、でもこんなに使いきれないよ?」
一粒売るだけでも、一生遊んで暮らせる石だ。
それを数限りなく渡されて、ディアナはすっかり色を失ってしまう。
「結婚祝いにしても、こりゃちょっとやりすぎだろ」
苦笑いするロニーにまったく同感だ。
でもそんな人間たちの困惑にも、その手からこぼれ落ちるかつての自分の涙にもお構いなしに、男の子は両手を広げる。
ふたりに抱きついた。
嬉しくてたまらない顔で、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
その目からぽろりとまたひとつ、涙がこぼれて石になる。
それは不思議と透明ではなく、ほんのりとあたたかいピンク色の——幸せの色をした石だった。