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速記のディアナと金魚の魔術師  作者: コイシ直
第8章 相棒、っていうよりもはや。
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(8-6)その声の正体は①


 わけがわからない。

 ナイフ、というのは、普通、喉に食い込んだら皮膚が切れるものだと思うのだ。


 でも、その時、ディアナの肌に走った痛みは、何かが違った。

 皮膚が切れたというより、鞭のようなしなやかなものが食い込みかけて、そのまま跳ね返したような——?

 鋭い衝撃が走ったと同時に、目の前が真っ青に染まった。

 青は、魔力が放つ色だ。今まで何度も見たことがあるけれど、こんなにまでも鮮やかな青色は初めてだった。

 

 とっさに床にかがみ込んで、身を守る。

 手で喉を押さえた。やはり切れている感覚はない。

 不思議な音が聞こえる。まるで高い音と低い音が倍音で一度に擦れ合って鳴り響くような、異界の声のようなものが。頭に直接差し込まれるように届き、ガンガンと脳を揺らしてこだまする。


 ——え、今、「許さない」って言った?


 それからほんの少しだけ振動がして、ぴたりと世界が静かになった。

 

 ディアナは、そろり、と顔を上げてみる。

 正気を失ったような弟も、得体の知れない魔術師たちもいない。

 ただ、自分の体の周りだけが、青いドームみたいなものに覆われている。立ち上がったら頭がつかえてしまいそうだ。


「えーと? おーい? ……ロニー?」


 おそるおそる、世界で一番信じられる名前を呼びかけてみる。

 小さな反響があって、また静寂が落ちる。

 閉じ込められているのかも、守られているのかも、わからない。


「おーい? 聞こえていたら返事してー?」


 突然、先ほどの倍音のような不思議な響きが、衣擦れのように転がって耳を通り過ぎる。

 今度は脳を直接揺らす不快な振動ではなく、鼓膜を通して普通の音として伝わった。


「う……ま……れ……? え、何て?」


 ところどころに意味のある言葉の切れ端が聞こえた気がして、ディアナは真顔で思わず問い返した。

 とたんに、同じ音が繰り返される。


「あー?えーっと?あれ?これ?……なんか聞いたことがあるような……?」


 恐怖も驚きもすっ飛んだ。それどころでない。挑戦状を叩きつけられたような気さえする。

 いつでもポケットの中に突っ込んでいる小さな手帳を取り出し、挟み込んでいた、ちびた鉛筆を握る。


「そうか、倍速研修だ……!」


 思い返す。懐かしい。

 速記者の養成所で訓練していた時、倍速研修というのをやったのだ。

 どんな早口でも聞き取れるようにと、相当速くしゃべる人の発話を書きとる訓練をした。さらに、それを魔術で2倍速、3倍速にした音声も聞けるように、書けるようにと特訓したのだ。

 そんな特殊な事例、実際の裁判にあるわけないでしょー!と受講生一同あきれたハードトレーニングだった。とはいえ、その後、普通の速記訓練に戻ったら、前よりはるかに軽々と音を聞き取れるようになった気がしたけれど。

 まさか、あれが実地で役立つ日が来るとは思わなかった。

 速記者魂がめらめら燃える音がする。

 

「すみません!もう一度、お願いします!」


 背筋を伸ばし、耳と鉛筆の先に意識のすべてを集中する。

 声の主はずいぶん親切らしい。同じ音が再び響く。

 今度は無理に理解しようとせず、聞こえた音をそのまま鉛筆の先につたえて速記文字にしていく。


 ディアナは、自分の書いた速記を三度、読み返した。

 一応、意味のある言葉が、手帳の上に記されている。

 信じられない思いで、ゆっくりと読み上げた。


「『うっかり助けたけどお前は誰だ』……?」


 少し嬉しそうに音がキュルキュル弾んで頭上から落ちてくる。天井の青色が、興奮したように軽く明滅する。


「あ、ちょっと待ってまって。今、気を抜いてて書き取れなかった。もう一度、はいどうぞ」


 慌てて再び集中し、速記したものをディアナは読んだ。


「『お前から僕のツガイのにおいが少しする』……?」


 待ち切れないように続きの音が押し寄せてくる。


「『でも僕のツガイはもっと幼くてかわいくて食べたいくらい良いにおい』……?」


 ディアナの声に反応したように、周囲が物理的に華やかなピンクに一瞬だけ変わって、すぐに元の青色に落ち着いた。

 よくわからない生き物に、思いっきり恋人自慢をされてしまったような——?

 どういう状況だろう、これ。


「『ポケットに隠している僕のツガイを早く出せ』……? え、なんのこと? ポケットの中にあるのは——」


 ディアナは慌ててズボンのポケットに手を突っ込んだ。

 右側のポケットには、手帳が入っていたから今は空っぽだ。

 左側のポケットには、


「ヴェルニ村名物のミルクキャンディが2粒と……それからハイキング用の地図?」


 もともと山荘に置いてあった地図だった。

 ハーフォードの一家がハイキングする時に使っているのだろう。

 今日行きたかった願掛けの滝までの道のりも書かれていたので、念のため借りていったものだった。地図の裏側には小さな子どもたちの字で色々落書きしてあって、なかなかに愛らしい。


 ——それ! (フレア)のにおい!!


 大きな声が、頭の中でぐゎんぐゎんと鳴り響く。

 あまりの振動に、めまいがして目を閉じる。

 ばさっと手から地図が奪い去られる感覚がして、そしてまぶたの裏側が不意に暗くなった。


 たっぷり20秒は数え、冷静さを取り戻してからゆっくりと目を開ける。


 景色が一変していた。


 すっかり青色が消えて、薄明かりに満たされている。

 ごうごうと、渦巻く水の音がする。

 その空間の行き当たりは、水の壁になっていて、大量の水流が飛沫(しぶき)をたてて落ち込んでいた。

 水壁の近さの割に、水音はほどよく小さく抑えられている。


「滝の、裏側……?」

 

 そこは大きな部屋、といってもいいかもしれない。

 岩がくり抜かれてできた空間のようだ。

 水壁の反対側には、ガラクタなのか骨董品なのか宝物なのかもわからない、石や木や金属や陶器でできた多種多様なものが無造作に積み上がっている。


 その手前は一段高い石のベッドのようになっていた。

 そこにゴロゴロと左右に激しく転がっているのは——


 大型犬のような大きさの体の何か、だった。

 尻尾は巨大なトカゲのようで、全身はまるで黒曜石のような艶やかな鱗に覆われている。

 手が2本。脚も2本。

 凶悪なまでに尖った黒い爪が生えた手で、ディアナから奪った地図を器用に抱き込んで、鼻先でクンクン嗅いではうっとり悶え、ゴロゴロ腹を見せて転がっている。


 小さい気はするけれど、そのフォルムはどう見ても、


「……竜……?」


 自分の声で我に返ってびくりと震える。


 ピタリ、と、その生き物は動きを止めた。顔をもたげる。

 すべての生き物の上に君臨する、黄金色の王者の瞳がこちらを見た。


 ディアナの手から、ぽろりと鉛筆がこぼれた。

 



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