(8-4)ウロボロスの竜②
「まさかの振り出しに戻っちゃったのね!?」
見覚えのありすぎるウッドデッキのリクライニングチェアが目に飛び込んできて、ディアナは思わず笑い出す。
すぐに分かった。移動魔術で山荘に帰ってきたのだ。
「すまん、とっさに」
「いいよ、わかってる」
苦笑いのロニーが、落ち着いた表情のままで一瞬すばやく周りを見回す。それから力を込めて肩を抱いていた手が緩んだ。つまりここは安全、ということだ。よかった。
ディアナの頭にポンと頼もしい手が動いてきて、慰めるようにゆっくり撫でる。
されるがままになりながら、ディアナは軽く肩を落とした。
道半ばにして戻ってきてしまったのは仕方がない。
ロニーの移動魔術は、基本的に彼が行ったことのある場所にだけ飛べる。この家が一番安全だと判断したのも良くわかる。
でも、2日前の初乗馬の強烈な筋肉痛から脱しきれていないところに、「体を動かさないと、いつまでも筋肉が強張ったまま痛みが長引きそうだよね!」と我が身を奮い立たせて歩いた1時間だった。
なかったことにしてしまうのも、なかなか辛いものがある。
「お疲れ。完全に不完全燃焼だな」
「ほんとだよね!ああー、もうー!」
優しく頭を撫でてくれるロニーの大きな手を両手でがっしりつかんで、自分のおでこで何度も頭突きする。
ふたりで滝を見たかったのに。そこで一緒にランチをしたかったのに。とっても楽しみにしていたのに。そこでだったらちょっとくらい良い雰囲気になってキスとかできないかな、とか少し、ほんの少しだけ妄想してたのに。
八つ当たりしたい気分でいっぱいだ。
悔しい衝動がやがて落ち着いて、ディアナは頭突きの発作に大人しく付き合ってくれたロニーの手を、よしよしと撫でてから解放した。
こんなことになった原因を思い返して、首を傾げる。
灌木の茂みに隠れるようにして、何かが自分たちの後をつけてきていた、ような気がしたのだ。
「あれはいったい何だったんだろうね? 丸っこい動物みたいに見えたけど」
「動物に化けた人間だってことも十分あり得るからな」
「え、そんなの違法魔術じゃない?!」
ロニーがとんでもないことを、さも当然のように言い出した。
ディアナは耳を疑った。いくつも魔術裁判の判例を勉強したし、速記してもきたけれど、そんなおぞましい事例に当たったことがない。
落ち着き払ったロニーの顔を見ているうちに、むくむく疑問が頭をもたげてくる。
「……もしかして、ロニーも使えるの?」
「いや、俺はあんな厄介な術、使わない。人間以外の何かになるのも戻るのも面倒だろ。でも、ま、できるやつはいる」
明確なことを避けた回答に、ディアナは考える。
ロニーが厄介だというくらいの高度な術だったら、使える人は限られる。
すぐに思いつくのは、ハーフォード・カワード、フィリアス・テナント、それからダニー父さま。
でも、その3人だったら、自分たちの前に堂々と姿を見せる。わざわざ変身してまであとをつけてくるなんてこと、さらにそれをディアナに気づかれるなんてことは考えられない。
そして、そのレベルの魔術師なんて、そうそう世間にいるとも思えないのだけれど。
「……誰なんだろう」
「いや、普通に動物だったのかも知れないしな。不穏な魔力は感じたけど」
「魔力があるなら、やっぱり人間じゃない?!」
「はは。もしかして滅びたはずの魔獣だったら笑えるな」
「やだよ、笑えるポイントが全然ないよー」
ロニーはまったく動じていない。笑い話のふりをして、目が笑っていない。もしかして——何かを知っているのかも知れない。
ぶるりとディアナは身震いをする。
かつては魔力を使える動物——魔獣がいて、人間を襲い、大勢の人が亡くなった歴史がある。
どうして絶滅したかには諸説があった。
なかでも主流の説は、人間が火薬を使いこなせるようになり、爆弾の罠や銃を自在に駆使できるようになったことが原因ではないかというものだ。
今では王都に住んでいる限り、魔獣どころか、人に危害を加える肉食獣に出くわすことすらない。
ディアナの実家の田舎街には、キツネや鷹はいたし、山に行けばクマやオオカミ、ヤマネコも出た。けれど魔獣に比べたら、きっとかわいいものだろう。
魔獣なんて、今やおとぎ話でしか出会えない生き物だ。
もし現実に生き残ってなどいたら、魔力を持たないディアナに立ち向かえる術などないだろう。
「ねぇ、もうひとつ、ずっと疑問に思ってたことがあるんだけど」
ディアナは自分が背負っていたナップザックを床に下ろしながら、とんとん、と自分の腕の内側を服の上から叩いた。ウロボロスの竜の魔術紋があるあたりだ。
「ハーフォードさん、この村に私たちを送ってくれたのって、わざとだよね?」
ディアナが竜の魔術紋で縛られたことを知って、似ているようで違うウロボロスの竜が愛されている村にディアナとロニーを送り込んだ。
何度も休暇で家族と一緒にここに来たと言っていたのだ。火除けの竜の信仰のことを知らないはずがない。
絶対に、何か意図がある。
——でも、それって、何?
「今日、よくわからない何かに追いかけられたこととも、もしかして、関係があるのかな?」
ひとつ疑問に思い始めると、すべてが連鎖して謎に思えてくる。
「それに、あれだけ博識なダニー父さまとジェニー母さまが、この村の竜のことを知らなかったと思えないの。初めて見た顔をしていたけれど」
「……いや、初めて見たのは本当だ。想像していたよりはるかに竜の顔が庶民的で、すっげぇびっくりして、興味を掻き立てられてたのも本当。ただ、確かに、伝承を知らなかったわけじゃない。昨日、親父本人がそう言ってた」
ロニーが一瞬だけ躊躇したあと、肯定する。
そのまま口を引き結んで、自分の帽子を脱ぎ、押しつぶされていた金茶色の髪の毛をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。それからぽろりと後悔が口からこぼれた。
「黙ってて悪かった。ディアのこと、信頼してないわけじゃない。お前には隠しごとなんて、許されるならしたくない」
「いいよ。わかってる。お仕事とも関連してたんでしょ」
ディアナは微笑んだ。本当に気にしていない。ロニーの今の言葉だけで、自分にはもう十分だ。
そのまま苦い後悔を浮かべて、ロニーは慎重に言葉を選ぶ。
「……ハーフォードさんから、親父を経由して伝言がある」
「伝言?」
「もしかしたら、この村で、強力な味方になってくれる奴が現れるかもしれない」
「味方?私たちの?」
「ただ、その時が来たら、しっかり『自分は違う』と言え、と」
「どういうこと?」
「俺にもちっとも分からん。ただ、その時が来たら自然と分かる、らしい」
ロニーは諦めたように肩をすくめて見せる。
「さすがファラン師匠の弟子だな、と思った。——『そのうち何が必要かなんて、自然と自分でわかってくるもんだ』」
夜明け前の夜空みたいな深い瞳が少し遠いところを見て、思い起こすようにぼんやりと口にする。
その言葉を、ディアナも覚えている。
「子どもの頃、初めて会ったファランさんに言われた言葉だよね? 前に話してくれた」
「そう。ずっと忘れられない。たまに思い出しては、考える」
「自然と分かってくる、か。——私にも分かるかな」
「分かるといいな」
ロニーはディアナの左手を取って、指輪をそっと撫でる。
その手を握り返したとたん。
ディアナのお腹が盛大に鳴った。神妙な顔をしていたロニーが吹き出す。
「はは、かわいいな。確かに腹減った。今俺たちに必要なのは、完全に昼飯だな」
「もう!笑わないで、こんなの全然かわいくなーい」
ふくれっつらをするそばから再びお腹が鳴って、つられたようにロニーのお腹まで鳴り出す。
我慢し切れずに笑ってしまって、「もう、今日はお家でピクニックしようか」と、すっかりお昼ごはんモードになってしまった。
「ロニーのナップザック貸して。パン、少し焼いてくるよ」
ランチの食料はすべてロニーが背負ってくれていた。
魔術の空間収納に入れて手ぶらで歩けばいいのに、「楽してばかりじゃ俺の筋肉痛も治らない気がする」と言ってわざわざ持ち歩いていたのだ。
滝に向かう道中で時々見かけるカップルたちも、同じようにナップザックを背負って、似たような格好をしていた。
そういう人たちの中に混じって、当たり前の顔で手をつないで紛れている自分たちが、何だかちょっとくすぐったくって、ディアナはとても嬉しかった。
そういえば普通の旅行デートみたいだな、と今さらながらに思ってしまって。
だからまぁ、途中で引き返しはしたものの、とびきり楽しい1時間だったし、いろいろ疑問は残ったままだけどとりあえずは——ま、いいか!
あっという間に気持ちが切り替わって、元気いっぱい手を伸ばす。
「俺が持っていく」
そう言いながら軽く抵抗する手から遠慮なくカバンをもぎ取って、ディアナはウッドデッキから下の通りを見下ろした。
さっきからロニーは何度か外を気にするそぶりを見せている。
自分の目には特に変化は読み取れないけれど、気になることがあるならすぐに確かめた方がいい。
「いいよ、キッチンなんてすぐそこだし。それより、家の周りを見回っておきたいんでしょ? よろしくお願いします。その間にいろいろ温めておくから」
「……わかった。すぐに戻るから」
しぶしぶうなずくと、一瞬だけ、ブレスレットを巻いたディアナの手首を握る。そこが不思議とふんわりあたたかくなって、そのままロニーの姿がわずかな風とともに掻き消えた。
「守護の魔術を重ねがけ、かな?」
こんな家の中でちょっと過保護にも思えるけれど、こんなに大事にしてもらえて幸せじゃないはずがない。
ディアナはナップザックを抱きしめると、軽い足取りで家の中に入った。
そして階下のキッチンのドアを開けた瞬間——
とっさに、閉めた。
とっさに、唱える。
「施錠」
かちゃり、と音がして、ドアが閉まる。
これで、向こう側からは開けられない。
心臓が早鐘のように打ちすぎて、ディアナは瞬時に動揺の境地を通り抜ける。
やけに冷静に感謝した。
この家に来てすぐに、ロニーとディアナの声だけに反応するように施錠魔術を組んだロニーは本当に天才だ。
「嫌だなぁ、ディアナ姉さま、僕を閉じ込めようとするなんて」
なのに、ひやりと首元に何かが当たる。
「動かないでくださいね。この刃物、結構切れ味がいいんです」
「……マルス、あなた、魔法が使えたの?」
落ち着き払った声が出た。大丈夫、時間稼ぎをするだけだ。ロニーがすぐに戻ってきてくれる。
先ほどちらりとキッチンに見えた姿は、確かに弟のマルスだった。
まずは、とっさに彼を閉じ込められた自分を褒めてあげたい。想定外になぜか今、ナイフを喉元に突きつけられているみたいだけれど。
「いいえ、僕は魔法はからきしダメですよ。代わりに魔術師の友人たちができまして。一緒に来てくれたんです。だから、ここに入れたし、姉さまに閉じ込められたってすぐに脱出できる。素晴らしいですね、魔術って。ああ、動かないで。あなたを傷つけたくはない。でも、足の腱を切っておくのはアリかもね。そうしたら、逃げられないあなたはずっと僕のものでしょう? ああ、姉さま、怖かったですか? ごめんなさい。足を切られたくなかったら、一緒に行きましょう? 僕たちはふたりで幸せになれる」
——ない。これは、ない。
歌うように軽やかに言葉を紡ぐこの男が怖すぎる。
息が首筋にかかる。後ろから伸びた腕がぐるりと腰に絡みつく。
「ああ、鳥肌も綺麗ですね。すぐに移動魔法でお連れしますね」
ねっとりと声がする。背後で魔術の詠唱が聞こえる。おそらく二人。足元に魔法陣が立ち上がり始める。かなり複雑で大きい。遠方に飛ばされる予感がする。ますます全身が総毛立つ。
ロニーみたいに瞬時に術を立ち上げられる魔術師でなくて助かった。
もしこのまま魔術でどこかに連れ去られでもしたら、何をされるかわかったものではない。
何がなんでもここで逃げないと。ディアナに触れていいのはロニーだけだ。他の野郎はクソ喰らえ。
思いっきり品のない言葉を胸の中で吐きながら、ギリギリと追い詰められて、妙案がぽっかり頭に浮かんだ。
——ああ、そうか。ロニーのブレスレット。
このブレスレットは物理的な攻撃を跳ね返す力がある。
いつだったか、ロニーがそう説明してくれた。
今は紙一枚分だけ、無事な距離にナイフがある。もし、これが少しでも皮膚をかすめて血が出たら——
きっとあとはこのブレスレットが、ロニーの力がなんとかしてくれる。
——よし。
ディアナはすぐに覚悟を決める。
ほんの少し刃先をかすめさせるなんて、うまく行くか分からないけれど。
このままじっとしているなんて、耐えられない。
ディアナは一切のためらいもなく、ほんの少しだけ、体を前に倒す。
鋭い痛みが、走った。